back tocontents
bookguide50
21
ピエール・フランカステル『近代芸術と技術』

1956
松岡新一郎

 その序論ですでにフランカステルはこの『近代芸術と技術』(原著は1956年初版,現在はガリマール社のTEL文庫の1冊となっている)という書物の目的は「方法論のための試論」であると明言し,さらに美的なものに対して歴史的立場を取ることで同時代の芸術作品の批判的研究も可能になるだろうという見通しの上に,現代芸術を批評や論争の中から歴史の領域へ移すことを提案する.危険な企てだ....同時代の芸術を過去の意味へ還元することなしに,あるいは現代芸術家の経験に内在する賭けに気付かぬふりをすることのない歴史的言説など可能なのか? しかしながらフランカステルの著作の独創性はまさにそこにあるのだ.すなわち芸術家を際立たせている問題群(プロブレマティーク)の内に身を置こうという選択であり,西欧において数世紀にわたる芸術言語として機能したものが,さまざまな実験や創造の連続を通して徐々に形成されていく様態を現在形で記述した前著『絵画と社会』の中でもそうした姿勢は明確であった.芸術家を作品の系列(セリー)との関係で位置付けること,芸術家とその同時代の人間社会との間の対話(デイアローグ)を示すこと,さらには芸術家とその物質的,精神的な環境(ミリュー)とのさまざまな関係を定義しようとする試み,こうしたフランカステルの営みはだから単なる社会学の亜流などでは断じてなく,美的実践と歴史的知識の両面において〈美術史〉の成立要件を定めようというものなのだ.

 フランカステルを読む者は,その議論が専ら他の著者の書物をめぐって展開され,一次資料に基づく芸術家の環境の再構成がなされていないことに苛立ち,あるいは時に度を超してしまう批判....例えばル・コルビュジエに向けられたそれ....に学問的というよりは政治的な匂いを嗅ぎ取って眉を顰めるかもしれない.だからといってフランカステルが常に何らかのア・プリオリな図式から出発しているというわけではない.事実に立脚した作品の批判的分析こそがフランカステルをして,現代建築が決して新しい技術的可能性から直接に導かれたのではないことの証明を可能にしたのだから.その議論を暴力的に要約するなら以下のようになろう.技術や新しい素材はまずそれまで解かれずにいた問題の解決に宛がわれる(鉄はラブルーストにこれまでにない大きさのクーポラの建築を可能にさせた).1850年から80年にかけて,前の世代から受け継いだ美的な先入観の障害を超えて産業の発達に対応するような様式を定めようという最初の試みが現われる.そうした過程で美的探求は新しい建築技術の浸透に対応し,それを体系的に利用し,とうに発見されていながらそれまでは用途が理解されていないような技法を用いることを示唆するために機能する.鉄の建築の発展は骨組みそのものに立脚するような様式,すなわち材質から導かれた形式を練り上げようという欲求を生じさせた.例えば鉄よりも経済的なコンクリートの使用は建築家を素材に左右されることから解放するように思われたが,それは同時に骨組みと平衡関係以外の問題へと導くものでもあった.

 美的な探求,さらにそのイデオロギー的な展開(フランカステルはそこにおけるヴィオレ = ル = デュックの教育の役割を強調している)が建築に新しい可能性をシステマティックに利用することを可能にする,そうした現象は建築の領域に限定されるものでない.現代における芸術と技術の関係を考える際,技術の進歩の結果がまずあって,芸術家がそれに適応していくという進化論的な図式を示すだけでは不充分なのだ(さらにフランカステルは〈技術的環境〉という概念に伴う混乱....人間が突然に投げ出された,人とは切り離された場と見なされかねない....をも意識している).第一要因でも動因でもなく,技術は一つの制度に過ぎず,発見された事実の足し算が新しい表現の生成を導くわけでもない.このようにさまざまな人間の活動間の関係に想定されるあらゆる因果律的な見方を退けていくことでわれわれは構造主義的分析....あるいはその見直し....へと導かれていくこととなろう.

(まつおか しんいちろう・美術史,表象文化論)

ピエール・フランカステル『近代芸術と技術』(近藤昭訳),平凡社,1971.

    

■関連文献
ジークフリート・ギーディオン『空間・時間・建築』全2巻(太田実訳),丸善,1969.
アロイス・リーグル『リーグル美術様式論』(長広敏雄訳),岩崎美術社,1985.
ニコラス・ペヴスナー『モダン・デザインの展開....モリスからグロピウスまで』(白石博三訳),みすず書房,1957.