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オルダス・ハクスリー『知覚の扉』

1954
松岡新一郎

 何よりもまずサイケデリック芸術なるものは存在しないと言っておかねばならない.ドラッグの使用は非難に晒され,禁止の対象となっているにも関わらず,その非合法性そのものも含めて,暗黙裡に社会的規定の内に記載されているのである.より正確に言えば,ドラッグはマスメディアによる目眩ましに抵抗する個人を統治する最終兵器と成り得るのだ.ドラッグが服用者を固定する,幻覚に囚われた受動的消費者の状態こそ,大衆操作の理想的戦略なのだから.ドラッグはマスメディアのパラダイムを誇張し,反復する.社会衛生主義者が一致して声を荒げるのはドラッグの大衆的な性質ではなかったか.ドラッグの効果....意識朦朧,生理学的な抑制,幻想的な興奮,心理的・生理的な依存,人格を超えた(トランス・パーソナル)交感....による定義はそのままマスメディアのそれにも適用できる.それはスペクタクル社会がスポーツに見出すものにも譬えられる,観者を完全な受動的状態におき,その闘争本能,エネルギーを代理人に委ねさせるという効果ではないか.それは一種の窃視趣味であり,生の欲動を抑え,幻想的な性質を持つ想像的自己投影によってその埋め合わせをする.

 ハクスリーが詳細に報告しているように,ドラッグの効果は(個人的差異は認められようが)諸々の感覚の解体,分裂にあると言ってよさそうだ.この解体,すなわちある感覚を麻痺させる一方で他の感覚を鋭敏にする機能故に,個人的な差異も導かれるのであるし,体験者が皆揃って証言している美的な体験もそこに起因する.メスカリンを飲んで1時間半後のハクスリーが,花瓶に活けられた花を観察した時に得られた幻覚を語る「アダムが創造された日の朝彼が眼にしたもの....一刻一刻の,裸身の存在という奇蹟」(p.18)という言葉は,無垢の眼差しで世界を見るため,盲目に生まれ,ある日突然視覚が与えられることを夢見たモネへとわれわれを送り返すが,ハクスリーの言葉を信じるならば,ドラッグは視覚(あるいは聴覚や嗅覚)から知識や記憶に関わるもの一切を除去してくれるようだ.記号としての役割,道具としての意味作用から解放されて,色彩やマチエールはその最大限の力を発揮し,いかに突飛な組み合わせにも柔軟に対応し,存在感を異常なまでに増大する.そうした機能は少なくとも近代以降の芸術家の望むところではなかったか.ドラッグは画家が時にその生命をも危うくするような苦行と引き替えにしてまで得ようとしたものを容易に手にさせるのではないのか.思慮深い人物と考えられていたクレーが,あらゆる〈写実主義〉の枷から感覚を解放するため,カンバスを前に踊ったという逸話が証しているように,画家は皆社会生活が要求するような現実的態度から精神的にも肉体的にも解放され,慣れ親しんだ視覚の目眩ましの明証性を混乱に導くために,個人的に麻薬的手段を用いていたのだ.

 しかしながら,まず何より未開の空間を探索するべく実際にドラッグを体験した,ハクスリーあるいはアンリ・ミショーのような作家は,ドラッグがもたらす幻覚作用を主題として選択し,それを作家としての明晰さをもって分析しようとしたのであり,その詩的想像力を高めるための使用ではなかったこと,すなわちドラッグは目的であって手段ではないことを思い起こさねばならない.逆に感覚を鋭敏にするためにドラッグを常用する所謂サイケデリック芸術家の制作するものは紋切り型の,多かれ少なかれ曼陀羅の変形に過ぎず,そうした芸術家がある種の象徴の文化的呪縛から完全に解放されてないことを証明することとなっている.そこで次のような仮説が立てられよう.すなわち,芸術的な表現が一世紀にわたって通常の視覚の中に異なるものを導入することで特徴付けられるのにも関わらず,ドラッグが失望させるような結果しかもたらさなかったのは,消費社会が構造的に薬物嗜癖的であり,ドラッグにある種の制度的な役割,すなわち根底的に創造性と逆行する役割を担わせるからなのだ.ドラッグがある種の依存状態を作り出すのではなく,ある依存状態(精神的,家族的,社会的)がドラッグに走らせるのである.薬物嗜癖への王道は若者の集会ではなく,一方で道徳的な言説,個人の自由を説きながら,他方抑圧的な法制によって本当の意味で自由な選択を禁じている現代社会のダブル・バインド的状況なのだ.

(まつおか しんいちろう・美術史,表象文化論)

オルダス・ハクスリー『知覚の扉』(河村錠一郎訳),平凡社,1995.

    

■関連文献
Jacques Derrida, "Rhetorique de la drogue," Points de suspension, Galilee, 1992.
アンリ・ミショー『みじめな奇蹟』(小海永二訳),国文社,1969.
シャルル・ボードレール『人工楽園』(渡辺一夫訳),角川文庫,1955.