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モーリス・メルロー=ポンティ『知覚の現象学』

1945
大澤真幸

 フッサールが創始した現象学は,最初に世界が意識に与えられる....あるいは意識が初めて世界を構成する....起源にまで還帰しようとする試みである,と要約することができる.メルロー=ポンティは,この試みを,それが不可能性であるまさにその限りにおいて,継承する.本書は,現象学の最大の教訓が,それがもくろむ起源への遡行(現象学的還元)が不可能だという点にある,ということの確認から始まるのだ.したがって,この書物にとって,哲学的な反省には必然的に非反省的な残滓がつきまとうということが,つまり反省の原理的な不可能性が,反省を促す可能性の条件になっているのだ.

 現象学による遡行の作業が決して終わらないのは,世界とわれわれの関係を,即自(客体)と対自(構成する意識)との間の排他的な二元性の内に解消しつくすことができないからである.われわれは即自とも対自ともつかぬあり方において世界に埋め込まれつつ,その限りにおいて世界にかかわっているのである.このような世界への埋め込まれ方を,メルロー=ポンティは「身体」と呼ぶ.われわれは,決して,構成によって世界を透明に見透すことが可能な地点に,つまり世界に外在する純粋思惟に到達することができないのである.

 本書における身体と知覚についての思索から,反対方向に向かう二つの探究のベクトルを抽出しておくことが,今日の知見からすると生産的な意義をもつように思われる.第一に,身体を,世界への内在へと差し戻そうとするベクトルがある.たとえば幻影肢(切断されてすでにない手足がまるでまだあるかのように,その部位にさまざまな感覚を覚える現象)についての探究の内にこのベクトルは顕著である.幻影肢に関するさまざまな理論的説明の困難を指摘したあと,メルロー=ポンティは,幻影肢を,「現勢的身体」の層とその下にある「習慣的身体」の層との齟齬に由来する現象であると説明する.現勢的身体の水準では失われた手足が,習慣的身体の水準では残存しているときに,幻影肢が現われるというのである.習慣的身体は,世界に対して選択的(意識的)な距離を取る以前の,言わば世界の秩序に深く内属している身体の層である.それは人称的な個別化に先立つ非人称の「ひと」というあり方を示す.この非人称の内在性の水準は,しかし,身体のもつまったくの逆方向の能力の保証人なのだ.

 この逆方向の能力を探ることが,探究の第二のベクトルである.たとえば,メルロー=ポンティは大脳の後頭葉(視覚領)の障害を受けて以来,抽出的運動や指示作用が不可能になってしまったシュナイダーという元兵士の症例をたんねんに分析する.シュナイダーは,具体的身体には困難をきたさない.たとえば自分の鼻を掴むことならばできるが,指示するように言われてもできない.シュナイダーの身体は世界から超出し,距離をおいた地点からこれを対象化する能力を失っているように見える.主知主義的な心理学者や哲学者は,これをたとえばシンボル機能の喪失等として概念化してきた.メルロー=ポンティはこの解釈を評価しつつも,これでは抽象的に過ぎて,シンボル機能の障害が視覚障害を伴いつつ生ずるのはなぜかが説明できないとし,自らは次のように結論する.シンボル機能のような意識とは,諸対象を自らの行為のまわりに沈殿物として投射する活動であり,本源的には身体の運動性なのだ,と.こうして,世界から超出する能力が,それ自身,世界への内属の様式としての身体であることが確認されるわけだ.

 このように,本書の目指す探究は,反対方向の二つのベクトルによって成り立つのだが,注目すべきことは,至る所で一方のベクトルの延長が他方のベクトルへと反転するクラインの壺のような構造が用意されているという点である.身体の内在の様式の探究は,必然的に超出の保証人としてそれを見出し,超出の様式の探究は,内在の様式へと差し戻されるのである.この書物の最後は,「自由」についての考察にあてられているが,そこでも,自由をまさにこの種の両義性に見合ったものとして見出すことになる.世界の拘束から逃れ世界へと投企する自由は,それ自身,世界に条件づけられることで世界に参与することである,ということが示されるからである.

(おおさわ まさち・社会学)

モーリス・メルロー=ポンティ『知覚の現象学』1・2巻,(竹内芳郎他訳),みすず書房,1967,1974.

    

■関連文献
シル・ドゥルーズ『意味の論理学』(岡田弘,宇波彰訳),法政大学出版局,1987.
マーク・ジョンソン『心のなかの身体....想像力へのパラダイム転換』(菅野盾樹,中村雅之訳)紀伊国屋書店,1991.
大澤真幸『身体の比較社会学』I・II,勁草書房,1990,1992.
佐々木正人『アフォーダンス....新しい認知の理論』,岩波書店,1994.
竹内敏晴『ことばが劈かれるとき』,思想の科学社,1975.