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06
ポール・ヴァレリー「エウパリノス」

1921
松岡新一郎

 今日われわれは建築から何を学び得るのか.すなわち建築家がある一つの教義を作り出すには至らずとも,自らの実践に土台を与え,その普遍的妥当性を証明しようとするときに,他の知的活動....数学や情報科学はもちろんのこと歴史,地理,人類学,社会学,さらには言語学や精神分析....に自らに欠けている方法論的な道具立てを借りることを余儀なくされている....こうした科学はことごとくその系譜の中で建築の隠喩(メタフォール),理想的建築のモデルに依存してきたにも拘わらず....ように思われるとき,果たしてわれわれの思考作用(トラヴァーユ)に何らかの情報を与える役割を担い得るのか.そうした不安など微塵も見せることなく,建築することが言語に匹敵する操作(オペラシオン),すなわち認識と結び付いた行為であると明確に定義される,1921年(この年号の意味は改めて考えてみる必要がある)に建築写真集の序文として書かれたヴァレリーの「エウパリノスまたは建築家」が現在ではほぼ忘れ去られたテクストとなったことの原因を建築の領域そのものに帰するべきなのか,あるいは機能主義や抽象の衣を纏って建築から,あらゆる意味作用(シニフィカシオン)の可能性とは言わないまでも意味論的(レマンティック)な能力を剥ぎ取ってしまったかに思われる,モダニズムのイデオロギーに求めるべきであろうか.いずれにせよ奇妙(パラドクサル)なのは,現代建築が思考の基盤であることを止めるのが,絶えずこの領域で反復される〈語る(パルラント)建築〉の幻影,すなわち記号そのものとなろうという欲求から解放され,建築がヘーゲルの言う象徴的段階....建築がその外部に属する恣意的記号を模倣するのではなく,それ自体では形を持ち得ない意味作用に具体的な現前性を与える状態....に達し,固有の技術としてその原則,概念をより良く実現する度合いに応じてであることだ.ヘーゲルを信じるならば国家がその宗教,その欲求に建築的表現以上のものを見出せないはずの時に,摩天楼であろうと巨大集合住宅であろうと,現代の建築が喚起する表象,それが知覚させる思考,諸価値は公衆に共通の見解を作り出し得ていないように思われる.

「何かを建造し,または製造する人間の行為というものは,自分の改変する物質の《すべて》の性質をではなく,単にいくつかの性質を考慮に入れる.われわれの目的を満足させるもの,それがわれわれには重要なのだ.(……)繰返していうが,人間は抽象作用によって物をつくる.材料の性質の大部分を知らず,また忘れ,明晰判明な条件だけに執着する」(pp.54−55).この一文が挿入されるくだりでヴァレリーが明言するように,科学はその操作によって定められた対象のみを扱う....科学が事物を認識するのは,事物の構造を明示するような形式的モデルを通じてである....が故に,そのモデルがよしんば類似関係(アナロジー)によって他の領域から借用されたものであっても,それは構築されねばならず,そこには秩序,均衡,調和,対称性といった建築的含意が必要とされたであろう.さらに「施工には細部なし」という言葉に続く議論(pp.10−11)は,科学的モデルが機能し,有用性,操作性を持ち得るためには,その構造が厳密に体系的で,一部に加えられた変形が予め計測可能な連鎖によって全体に影響を及ぼす....丸天井にリブの上に乗せられた屋根が置き換わることで,徐々にではあるが仮借無い論理に従って中世の建築構造全体が変容したように....一方,そうしたモデルが考え得る現象全てを考慮するということはあり得ず,多くの経験的所与の中の選択,幾つかの要素(パラメータ)の消去を伴っている....建築計画を明らかにすることは,あるプログラムの諸要素に優先順位を与えることに他ならないのと同様に....ことを教えている.思考と建築とが何らかの点で等価であるとすれば,それは(ここでのヴァレリーの議論を信じるならば)形態がそれが対応する機能全てを明示していないという点にある.ある首尾一貫したモデルを与えることに専念すればそれで充分に役目を果たすことのできる現代科学は,おそらくその構築物が現実の宇宙(の一部)を複製しているかどうかなど気にかけはすまい.脳の構造を模倣するかに見える情報理論の用語が生理学で脳の機能を記述するのに用いられるのは,科学には当たり前の循環構造だ.ならば建築が文化の中で占めていた場所を失いつつあることの原因は個々の技術の欠陥などではなく,こうした循環に支えられた科学の無矛盾性....建築作品が長く雛型とされてきた....そのものの信頼が失われたことによると言ってよいのではないか.

(まつおか しんいちろう・美術史)

ポール・ヴァレリー「エウパリノス」 『ヴァレリー全集 3』(伊吹武彦訳),筑摩書房,1967所収.

    

■関連文献
(建築のモデルが思考の母型として重要な役割を担っている例として)
プラトン『ティマイオス』(種山恭子訳),岩波書店,1975.
ヨハネス・ケプラー『宇宙の神秘』(大槻慎一郎,岸本良彦訳),工作舎,1986.
ヘーゲル『美学講義(1・2)』(甘粕石介訳),北隆館,1949−50.
ソシュール『一般言語学講義』(小林英夫訳)改版,岩波書店,1991.