InterCommunication No.16 1996

Feature


1――療育のなかのテクノロジー

森岡祥倫――おおよそ15年くらい前からでしょうか,イコライゼーションとかノーマライゼーションと言われる新しい福祉概念が世界中で取り上げられるようになってきました.そして,そこにいわゆる福祉工学と呼ばれる分野が,正統のエンジニアリングのマージナルな部分として現われてきた.それが現在,アメリカとかヨーロッパの福祉先進国では,福祉産業として成長し確立しているわけです.日本でも,毎年秋に東京・晴海の国際見本市会場で保健・福祉機器フェアが開かれますが,95年は前年より2割ぐらい出展社が増えたそうです.特に,従来からある車椅子とか介護用品のメーカーだけではなくて,めざましいのは例えばIBM,Apple,富士通などをはじめとするコンピュータ・メーカーの,コミュニケーション・エイドと言われている分野,福祉分野への参画,それからもろもろの周辺機器を製造する電子機器メーカーの成長ぶりです.
 僕がこうした分野に関心を持つようになったのは,これまで,マルチメディアやメディア・テクノロジーの可能性を,アートの視点から捉える仕事を15年以上やってきたわけですが,個人的には現状に行き詰まりというか不満を感じています.端的に言うと,アート&テクノロジーという概念を想定したとき,その実効性というのは,例えば新しいアート・フォームを形成するとかテクノロジー世界に人間性や感性的なものを回復するといったたぐいのお手盛りの弁証法にあるのではなくて,双方の社会性の奪回がどのような接点に見出せるかというところにそもそもの出発があったと思います.ところが現実には,相変わらず展覧会とか観客,作者とその作品といったモダニズムの残滓のようなアートの観念で,領域を括り取ることがなされている.そうではなくて,人の生と死,病や差別といったような個人と社会にとって普遍的な問題系にダイレクトに接することで,アートがそれ自体の生と死の折り合いをどうつけていけるか,そんなことをずっと考えつづけてきました.そのときに,身体性や知覚というさまざまなアートにとってのっぴきならない主題,存立基盤の問題と,障害を持つ人たちのコミュニケーションとの関係についてのいろいろな着想が,この数年来厚い沈殿層を自分のなかに作ってきて,いまようやく初歩的な実践の機会が大勢の人との出会いから徐々にできつつあるといった段階です.もちろん,ボランティア的な好奇心や意欲がそれを支えていることは確かですが.
 1年前にICCで試みたワークショップ(「楽器とアンサンブルのいまとここ」,本誌14号参照)の内容とも少し関連がありますが,本郷の東大医学部の付属病院に小児科がありまして,医療関係者や療育の研究者,電子機器のエンジニアなどさまざまな立場の人たちが集まって,長期入院の子供のクオリティ・オブ・ライフを考えるという小さな研究会が以前から続けられていました.この研究会で,何人かのアーティスト,例えばコンピュータ・ミュージック,ライト = キネティック・アートなどジャンルはいろいろですが,彼らといっしょに一人の長期入院の子供の作曲活動を手伝う仕事を現在進めています[★1].作曲といっても,この15歳の少年はウェルドニッヒ・ホフマン症候群という,日本でも数十人の症例しかない染色体異常に原因する病気を抱えていて,最重症段階の筋ジストロフィーの患者さんと同じように,身体のほとんどすべての部分が動きません.横隔膜の動きもだめなので幼いころに気管切開をし,ずっとレスピレーター(人工呼吸器)による呼吸管理を受けています.しかし,唯一眼球だけは随意に動かせるんです.家族や周囲の人間のオプショナルな問いかけに対して,彼は眼をくるりと元気に動かすことで答えます.戸惑いやためらい,羞恥や悲しみ,いろんな表情がその微妙な動きのなかに込められている.全国どの都道府県でもそうですが,長期入院の子供を抱える小児科を持つ,ある程度大きな病院には,地域の養護学校のブランチとして院内学級というのがあります.養護学校の教員が病室まで来て授業をするわけです.彼の場合,たまたま担当の先生が音楽好きで,この子がとても音に敏感だということを発見し,作曲を始めました.病室にポータブル・キーボードを持ち込んで,1音ずつ聞かせて,眼の動きで音列を決定しリズムを整えるという,ちょっと気の遠くなるような努力を続けられた結果,何曲かが完成し,昨年私費でCDを出すところまできました.とにかく,眼が動くか動かないか,0か1かという1ビットのコミュニケーションしかそこにはないわけですから,ひじょうに手間がかかる.1ビットの情報だけで作曲をする音楽ソフトなんて,おそらく世界中どこにもないんじゃないでしょうか.
 このプログラムの制作過程で気づいたことがいくつかあって,まず一つは入れ子的なコミュニケーションの構造ということです.普段彼と一番うまくコミュニケーションできるのは,僕の会ったかぎりではなんといってもお母さんです.先ほど眼の動きに豊かな表情があると言いましたが,実は1ビットではなくて無数の情報を持っている.しかし,それを読み取れるのはお母さんだけです.「暑いの? 寒いの?」「テレビつけてほしいの?」「ゲームやりたい?」と選択肢を与えて,そこから彼が一つを選ぶわけですが,不思議なのは,彼女が与えるさほど多くはない選択肢のなかに,彼の志向する事象がほとんどの場合入っているという点です.絶妙なそして自然な対話です.発したメッセージのなかに戻りのメッセージがあらかじめ内蔵されてあるような言葉の「一方的なやり取り」で,これは普通僕たちが情報の受発信というような意味で使っているコミュニケーションの構造とはずいぶん違います.このことはまた,コミュニケーションの速度ということを考え直すよいきっかけになりました.同じ試験問題で満点をとるにしても速く解答した人の方が優れているとか,速度と知性はどこかでリンクしているというくだらないドグマがあるでしょう.これは知的障害だけでなくて,ある種の身体的障害を持っている人たちとの付き合い方においてもあてはまります.ちょっと気恥ずかしい言葉ですが,思いやりというのは,相手の置かれた状況や環境をあらかじめ察知して行動に出るということだけじゃなくて,相手の内的な時間や速度を共有することでもあるわけです.だからこそ難しいコミュニケーションのモードなんです.
 コンピュータ学者のブレンダ・ローレルが著書の『劇場としてのコンピュータ』(遠山峻訳,トッパン,1992)で,究極的におもしろいコンピュータ・ゲームというのは,プレイヤーが何を考えているかということをあらかじめ判断したうえでゲームの展開を変更するようなソフトだと書いています.しかし,その展開をさらにプレイヤーは読むのだから,それは推理の無限ループになってしまう.だから結局はそんなプログラムは作れないということになります.ところが,重いコミュニケーション障害を持つ人たちと付き合っていていくためにやらなければならないことは,まさにそれなんです.病室のなかの様子を見て,窓の光がまぶしすぎないだろうか,寒いんだろうか,ずいぶん前に流動食をとったらしいからそろそろおなかがすいただろうか,などと思んぱかって選択肢を与える.でもそのどれにも反応してくれなかったら,もう一つ深い階層の選択肢を組み立てなくてはいけない.つまり,推論と判断の階層的な入れ子関係を作っていかないと,深いコミュニケーションができない.これはコミュニケーション過程にまつわるさまざまな臆断を解体するというか,洗浄するところがあるんですね.そのことが,特殊なコミュニケーション環境のなかで生活している人たちとわれわれが関わっていくことの,大きなメリットではないかと最近思っています.

彦坂――いまのお話で思い出したのは,デンマークだったかな,水頭症みたいに頭が大きくなってしまう病気の子供たちのための施設のことを聞いたことがあります.横に寝ると首の骨が折れてしまうので,頭を吊すんですよね.そういうチルドレンズ・ホスピタルみたいなものがあって,入り口に「子供たちが笑ったら,笑い返しましょう」と書いてある.欧米のチルドレンズ・ホスピタルは平気で子供たちの姿を人目に晒しますね.写真をとるときも家族の許可を得ればOKっていう感じでしょう.だけど日本の場合だと隠して見せない.その辺が全然違いますよね.

森岡――それと関連することなのですが,「イディオット・サヴァン」への期待,つまり障害や病による不可避的な行動規制があるがゆえに,社会通念の刷り込みから保護された無垢の特殊な才能を持っているという神話があります.障害と才能とを陰陽逆転させてしまう,ある意味では差別と紙一重のこの大衆神話は,芸術家と狂気という芸術心理学のアカデミズムにもパラフレーズすることができますが,とにかく,絵とか音楽とか障害者のごく普通の表現から強引に崇高なるものを引きずり出そうとする.彼らの表現の本質を客観的に見極めようとする意志にとって,「癒しのセンチメンタリズム」と言ったらいいんでしょうか,ひじょうに手強いものがあります.

彦坂――僕が小さい頃には「異形」という言葉があって,異形の人は尊敬しろと言われたものです.いまはそれこそインヴィジヴルな存在になっていますが,当時は戦争で片腕を失った人とか,口の格好が奇妙だったりする人とかが大勢いたわけですね.

大月浩子――町のなかにもそういう人はいて,その人が日常的に無理なくできる仕事を受け持っていましたよね.昔はそれがすごく自然だったんですよね.

森岡――それを教育の問題に置き換えてみると,いわゆる特殊教育というのは,社会のなかで行なわれている一般教育に対する「特殊」ではなくて,すべてを個別の問題として解決していかざるを得ない教育の在り方のことですね.はじめに紹介したような福祉産業などを駆動させているノーマライゼーション,イコライゼーションの思想と関連させて考えると,標準化した公式にはおさまりきらない,常に個のレベルにまで持っていかないと全く太刀打ちできないようなところがあるから,障害者教育や療育は特殊教育なんだということでしょう.だから,標準化の技術を駆使して社会全体で格差解消をするという意味での福祉工学の興隆と,それから常に個の現場へ下降していかざるを得ない身体や生活の個別性との関係を,緊張を維持したバランス感覚を持ってどう改良していくかということが,これからの社会にとって一つの大きな課題となるんじゃないでしょうか.


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