InterCommunication No.15 1996

Monograph


〈世界像の時代〉としての近代

 ハイデガーは,近代の特徴を一言で,〈世界像の時代(Die Zeit des Weltbildes)〉と定義づけた[★10].この場合,世界像とは,世界についての一つの像ではなく,世界が〈像として〉捉えられることを意味している.存在するものの受容者としてあったギリシア人にとっては,世界は像になり得なかったし,最高原因から被造物の存在の階梯に属する中世人にとっても同様である.そして,世界が像になることは,人間が存在するものの中で主体となる,という出来事と全く同一のことである.このハイデガーの〈近代=世界像の時代〉という考えをもう少しじっくり考察してみよう.
 ニュートンをはじめとする近代物理学は,確かに〈数学的〉な性格を持つのだが,ハイデガーによれば,近代物理学が数学的なのは,「単にある数学を使用しているから,ということだけではなくて,数学的(ta mathemata)ということは,人間が,存在するものを観察し交渉することにおいて,それをすでに予め知っている(voraus kennen),ということを意味する」(p.72)からだ,とする.つまり,物理学は一般に自然の認識であり,特に質料的物体的なものを運動において認識することなのだが,「物理学がことさら数学的なものへと形成される」ならば,それは「数学的なものを通じて,何ものかが〈すでによく知られたものとして,予め構成されている(als das Schon-Bekannte im vorhinein ausgemacht)〉」(ibid.)ことを意味しているのである.
 つまり,「存在するものを対象化
Vergegenst穫dlichung des Seienden)する」ことによって,近代物理学は成立する.そして,この対象化は,「表象すること(前に=立てること=Vor-stellen)」において行なわれる.この表象作用は,〈あらゆる存在するもの〉を自分の前に連れだし,計算を通じて,それを確保し,確実化する.そして,このように,真理が,〈表象の確実さ〉に転化したとき,近世的な研究としての学問が成立する.
 近代一般の本質を規定しようとするとき,しばしば,〈人間が本来の自己へとみずからを解放することによって,中世的な束縛を脱した〉と言われるが,ハイデガーによれば,この規定は,「近代の本質的根拠を捉えるのを妨げる」.確かに,近代は,人間の解放に伴って,主観主義(Subjektivismus)と個体主義(Individualismus)を導いたが,「しかし同時に,近代以前のどんな時代も,近代と比べられるほどの客観主義(Objektivismus)は創られなかった」(p.81)ことに留意すべきだ,というのである.
 つまり,「人間が,従来の束縛から自己を解放することが決定的なのではなくて,人間が主体(Subjekt)となることによって,人間の本質一般が変化することが決定的」なのであり,このことによって,「主観主義と客観主義のあいだの必然的な相互作用(das notwendige Wechselspiel)」が本質的なものとなる.主体としての人間が確実なものになればなるほど,像としての客観もその確実性を増す.世界が像になるとは,存在するものが,主体としての人間の前に,それに属するものとして,「体系として人間の前に立っている(als System vor uns steht)」(p.82)ことを意味しているのである.
〈世界が像になること,つまり,人間が主体となること〉という近代の本質にとって決定的な出来事によって,「世界は征服されたものとして,より包括的に,より徹底的に処理に任され,客観がより客観的になればなるほど,それだけますます主体的に,主体は立ち上がる」(p.85)という事態が生じることになる.
 以上のように,ハイデガーによれば,近世の根本的出来事とは,主体の地位についた人間が「像として世界を征服していく」ことであり,そこでは,物理学が数学的になることによって,世界を予知と制御のもとに置こうとすることだったのである.そして,世界の客観化と人間の主体化は,まったく同一の事態を意味しているわけである.世界が人間の前に曝され,その知識と処理内に置かれること.
 このような近代の特徴を示す哲学は,枚挙にいとまがないが,代表的なものを見ておこう.
●最も単純で認識しやすいものから始めて,最後には,完全な枚挙と全体にわたる通覧とを,あらゆる場合に行なうこと(デカルト).
●理性は一定不変の法則に従う理性判断の諸原理を携えて先導し,自然を強要して自分の問いに答えさせる(カント).
●一つの数式と,ある瞬間のすべての状態の把握があれば,その知性にとっては,曖昧なものは何一つ存在せず,現在ばかりか未来までも明らかになるだろう(ラプラス).


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