Taidan_J
InterCommunication No.8 1994

feature

情報の政治学のために
ソル・ユーリックに聞く


ソル・ユーリック
インタヴュー=上野俊哉


電子メディアへの二つの視点
電子社会における〈知〉のヒエラルキー
ネイション・ステイトからメタ・ステイト,インターネットへ
コミュニケーション・モードの変更がもたらすもの
エレクトロニック・デヴァイスが拡張する読むこと,「書物」
神話と情報社会を往還する思考


電子メディアへの二つの視点

上野――ついこの間までニューメディアと言われていたものがすたれて,その時のハードもあまり登場しなくなり,マルチメディアという言い回しが主流になる.サイバーと言っていたのが,ヴァーチュアルとなる.ここでは,ある種の歴史的な知識や体験が忘却されていくと,ユーリックさんは『メタトロン――情報の天使』の中でおっしゃっています.  「新しい制度は,過渡期を促進するために,支配の古くさいイメージを利用しながら自己宣伝をする.新しい制度は,象徴形式という中央銀行から自らの売り上げ=イメージを引き出す.過去の知識は単純化される.画期的時代は抹消される(おそらく過去には厄介事が多すぎたのだろう).新たな過去,全体的な永劫が作り出される.複雑な存在は単純化され,別の仕方で再び複雑化されるのだ.これに忘却がつづく」(拙訳,晶文社,1992,pp.21-22).
 この問題は様々な場面に看て取ることができると思うのですが,例えば,雑誌のレベルで言えば,『モンド2000』や,『メディアマティック』,『ワイヤード』がさかんに紹介されて,ある種のエレクトロニック・エンスージアズム(enthusiasm=熱狂)みたいなものが成立しているように思います.
 ユーリックさんも指摘していることですが,日本でとりわけ電子的なガジェットに対する関心が強いのは,やはり少しでも生活やビジネスにテクノロジーを利用していたいというパラノイアみたいなものがあるからです.社会的に遅れまいとするあせりを生み出すメカニズムが常にあって,自動車の免許をとらなくてはいけない,ワープロを使えなればいけないといった強迫観念が作用して,電子手帳のようなものも他の社会よりも早く出てくるわけです.
 今日はそのことの社会的,あるいは経済的・政治的な意味を探りたいと思います.なぜなら現在の世界は,情報によって一つに結ばれたグローバリゼーションの時代であると同時に,トライバリゼーションの時代でもある.いろいろなテイストや,カルトやスタイルが互いに異質のままで共存している.それは,日本と同じように合衆国にもある状況だと思います.たぶん,合衆国の中にも日本にエンスージアズムを巻き起こしている西海岸のサイバーカルチャーもあれば,東の文化もあり,別のところもあるかもしれない.そういった細かいところから話をお聞きしたいと思います.87年にぼくはユーリックさんにギブスンやスターリングらサイバーパンクの作家について尋ねたことがありました.そのとき,まだユーリックさんは西海岸のサイバーパンクについてそれほどご存じではなかったわけですが,まずそのあたりからお話をはじめましょうか.

ユーリック――サイバーパンクのルーツは,もちろんサイエンス・フィクション・ムーヴメントに求められるわけですが,同時にもっと古いところまでさかのぼることができます.どこまでさかのぼれるかと言いますと,結局は神話を創っていくという人間の欲動のようなものです.
 人類学者はほとんど見落としていますが,神話というのは実はテクノロジーと経済に非常に強く結びついているのです.まずは神話と経済について.最近,ニューアイルランド(パプア・ニューギニアの一部)のアートについての本を読んでいるのですが,先祖崇拝のために作られるいろいろなトーテムや像は,たいていスピリチュアルなものと考えられています.ところが実はその陰で非常に経済的な機能も担っているのです.祖先崇拝のために作られた様々なものがやがてお金で売り買いされるようになるのですから.関連してマルキストの思想に少し触れますと,マルクス主義の中に「剰余価値」というものがありますが,これは資本の中に死者の霊が含まれているということだとは考えられないでしょうか.
 次にテクノロジーについてですが,若い頃,特に高校くらいの頃,サイエンス・フィクションものをずいぶん読みました.それで,原爆が落とされたというニュースが耳に入ってきた時も実はさほど驚きませんでした.すでにフィクションで知っていることだったからです.
 サイエンス・フィクションが現実に起こりうる世界を描いているのに対して,サイバーパンクというのはむしろ想像の中,つまりある一線を越えた世界を描いています.逆に言うと,マテリアルな世界,現在私たちが生きている現実世界を無視するというか,あえて書き込まないことが,サイバーパンクの特徴だと思います.

上野――一方で面白いのは,われわれの生活自体が非常にサイエンス・フィクション的になっていること,つまりわれわれは,テクノ=プロステティクス(prosthetics=人工器官)に囲まれてサイボーグのようになっているという現実がある.おっしゃったように「剰余価値」は死んだ他者の労働が組み込まれた亡霊=ファントムであり,そのシステムの人工性を明らかにするのが亡霊=スペクターとしてのコミュニズム,つまりはコミュニケーション・モードの変革でした.価値や権力のシステムの中にはつねに代補のはたらきが潜んでいます.これもプロステティクスと呼べるかもしれない.価値や権力のシステムには異物としての代理存在がいつも介入しているのですから.ただし,そうしたプロステティクスが「今」に特異なものだとはどうしても思えない部分を,ユーリックさんの思想からは学ぶことができます.そこに何か持続しているものがある.エレクトロニクス以前の社会にもある,おまじないをかけるとか,お札を貼るとか,呪いをかけるといったテクニックと,エレクトロニクスの力を借りて自分の身体にプロステティクスを付けていくような関係の間には,ある繋がりあるのではないでしょうか?

ユーリック――今のお話で考えたことが二点ほどあります.
 一つは,人間の進化という問題で,モダン,あるいはポストモダン的――ポストモダンという概念を受け入れるとしてですが――な考え方では,人間は今やこれまでの人間とは違うかたちのものであると言われます.ところが,実は遺伝子レベルや脳細胞レベルで考えると,昔から少しも変わっていないわけです.これは,原始時代の人を幼児の時に現代に連れてきて育ててみれば,十分モダンな人間が出来上がると言われることからも分かります.
 もう一点は,いつの時代にも人間はテクノロジーに依存してきたということです.例えば『アンナ・カレーニナ』では鉄道自殺が行なわれますが,そこに鉄道というものが持ち込まれたことが重要です.鉄道はまさしく当時の技術の結晶であったわけですね.ただし首吊り自殺をはかったとしても,それも結局は「ロープ」という技術,つまりはテクノロジーに依存することになるわけですが.あるいは,私は10年ほど前に,作家仲間や周囲の人間にコンピュータについてあれこれ話をしていました.それを聞いた誰もが,そんなばかなことがあるわけがない,あったとしても自分は鉛筆やペンで書き続けると言っていました.けれども実はその鉛筆やペンすらも,技術や産業に十分よりかかっているのです.何をするにも結局はテクノロジーと切っても切れない関係にあるのが人間です.
 コンピュータやテレコミュニケーション,そしてデジタル・デヴァイスなどいろいろなものが出てきていますが,それは社会的なメディアを介した新たな人間関係をもたらすと同時に,原始時代から何も変わらない部分もまた依然として残るはずだと私は考えます.


電子社会における〈知〉のヒエラルキー

上野――僕も二点考えたんですが,その前に冗談を一つ.この『インターコミュニケーション』の編集関係者にも,いつも新しいマルチメディアとアートの関係について書いている人がいますが,彼もつい最近までペンしか使いませんでした(笑).
 二点のうちの一つは,プリミティヴ・ソサエティにおけるシンボリック・エクスチェンジ,象徴交換のことです.情報の中でもバブルの,インフレーションの崩壊が起こったりするし,手元の端末のガジェットを使って実際の銀行のお金のやりとりができたりする.単に財や物質を蓄積したり,増やしたりするエコノミーとは別のかたちのエコノミーについては,人類学などによって明らかにされてきたわけですが,こうした非生産的で反生産的な経済関係はインフォメーションの文脈において再び現われているのではないか.例えば著作権についても考え方や態度の変更が必要とされているし,また始まってもいます.自分の情報やソフトの権利をあえて贈与,放棄することによって逆にリスペクト,尊敬としての権利を得る,という構えが成立しうる.これはポトラッチやクラの時代の経済によく似ているのではないか? それが第一点です.もちろん,ここには知識の秩序にはじまる権力関係の萠芽があるわけですが.

ユーリック――未開社会におけるシンボリック・エクスチェンジが現代社会にもアナロジーとしてあるという今のお話に関しては,少し別の視点を提供したいと思っています.しかし,まずここで問題なのは,知識あるいは知識のヒエラルキーがどのようにして構築されていくかということです.例えば原始社会におけるシャーマンは,動植物に名前を与えたり,それが毒であるか役に立つものであるかを教えると同時に,その知識をコントロールして共同体を制御していきます.ある儀式を行なわなければこの植物は育たないとか,大変な旱魃が起こるといった具合にです.そこで現代に目を移してみると,現代でもまさしくそうした知識のシークレシーがあります.つまり非常に限られた範囲で知識を集結させてオープンなかたちにしないのです.それは科学を見ても分かりますし,科学知識をオープンにしないという意味では教育の問題にもかかわってきます.

上野――もう一つつねづね思うのは,今,テクノ=ミスティシズム,メディア・トライバリズムのようなものがあって,ある種のトーテミズムがあるのではないかということです.“IBMトーテム”,“アップル・トーテム”というふうに…….目に見えないネットワークを環境に読み込んでいくという点で,自然の世界にも言語にならない秩序が存在するという考え方があります.そこではトーテムがキノコであったり,イルカであったり,その他諸々といった具合です.その中で必ず目に見えない知識=情報のネットワークが仮設的に組み立てられるのですが,そこにもやはりナレッジを持っている人間と持っていない人間という,ヒエラルキーを孕んだ構造があります.日本の社会の場合,それは持っていない人間に対してあせりを生み出させる構造として存在している.いずれにせよ,そこには必ず知識のコンフリクト,ストラグルがある.ここにはポリティカルにものごとを見る時の基本点があると思います.

ユーリック――ヒエラルキーに関しては二つに分けて考えなければいけません.一方は,知識へのアクセスすら持たない,例えばコンピュータを持っていないとか,電話がないというような人々です.実はその人たちの方がマジョリティなのですが…….しかしもう一方には,そうした知識へのアクセスを持ち,その中に入っている人たちの間でのヒエラルキーの問題があります.
 世界的な規模のテレコミュニケーション産業があり,特定の人たちだけがアクセスできるよう様々なレベルの秘密主義が横行します.その一方でそういうものが存在する以上,データベースの中に入っていこうとする人たちも必ず出てくるわけです.つまりハッカーのような存在ですね.合衆国の様々なデータベースにハック・インしようとするあるハッカー集団がフィンランドに実際にあるわけです.また,具体的な例としてはミッテランが大統領に当選した時に,フランスの銀行からスイスやその他近隣諸国の銀行へかなりのお金が流れていきました.実はアメリカはそれをちゃんとモニターしてキャッチしていた.かなり後になってからですが,それはフィルター・ダウンして私たちのような一般レベルにまで伝わりました.つまり,閉ざされた知識は存在するけれど,必ずやどこかからハック・インされてしまう,入り込まれてしまうということです.秘密は必ず暴かれる運命にあるのです.
 技術中心の天国のような社会には,実はもっと困ったことがいろいろ出てきます.それは,資本主義のコンテクストにからんだ企業の問題なのですが,アップル対IBM,ワークステーション対コンセプトというようにスタンダードが様々に衝突しあっていることです.
 私の『マラピュータの王』という最新作には島が出てきます.それは飛び地にある銀行のようなものなのですが,そこにオペレーション・システムがあって,それが他のすべてのオペレーション・システムを支配するというかたちになっています.もちろん現実にはありえないものなのですが.


ネイション・ステイトからメタ・ステイト,インターネットへ

上野――このごろメタ・ステイトという言葉をお使いになっていますね.それはメタ・スタシスということに関連しているわけなんですが,そこにはある境界――シークレシーのレベルの線といってもいいのですが――細胞における境界のようなものがあって,そこを何かが行ったり来たりしている――つまりウイルスであり,ハッカーですね――というイメージがあります.その役割を,「ザウルス」でも「ニュートン」でもいいのですが,そういうサイバーガジェットをたくさん持った多くの人間が果たしていくことはあるのだろうか.もともとユーリックさんは誰もが諜報員だとおっしゃっていますが,われわれはすでに皆,ある種のスパイです.しかし,それはもはやネイション・ステイトのスパイではなくて,メタ・ステイト,メタ国家のスパイなのです.あるいは,もしかしたらインターネットなどに顕著に現われている何ものかのエージェントなのかも知れない.でもインターネットもなんだかアメリカ主導で国連みたいだと僕は思いますけどね.

ユーリック――インターネットの話に進む前に,メタ・ステイトのことを少し説明したいと思います.ステイトと言った場合,すぐに国家が出てくるわけです.国家というと非常に安定し,固定化した一つの統一体と思われますが,ここで言っているステイトというのは国家とはまったく関係のない,力を行使するもののことなのです.それは,ある場合には誰もが知っているような人々の集団のこともあれば,またある場合には,密かに力を行使するものだったりします.例えばある大企業が政府に何らかの圧力をかければ,その企業もこの場合のメタ・ステイトの一部と考えられるわけです.
 もう一点,メタ・スタシスをめぐるものについてですが,スタシスという言葉は「静的な」という意味合いを持っています.しかし,メタ・スタシスはあくまでダイナミックな,動的な統一体として考えてほしいのです.たとえて言えば,動き続けていく流動的なものをどこか一点でカットして,とり出して見るというようなイメージで捉えていただきたいと思います.さらにつけ加えると,メタ・スタシスには言葉遊びも含まれています.この言葉はガンの転移という意味も持っているのです.これら三つの意味を込めた概念だということを理解してください.

上野――『マラピュータ』のアイランドはメタ・ステイトと言えるのですか?

ユーリック――『マラピュータ』は,結局,ある装置を発明した人の話なのですが,その装置を使ってあらゆる資本の流れを操作することができるのです.同時にその機械自体をどんどん改良するために,機材を買うお金が必要になるわけですから,世界中の様々な銀行からお金を流用することもできます.こうして改良を加えてゆくにつれて知識もどんどん増やしてゆきます.したがって,ここに出てくるのは当然メタ・ステイトということになります.
 ところで「マラピュータ」という言葉ですが,ジョナサン・スウィフトの『ガリバー旅行記』に「ラピュータ」が出てきますね.ラピュータというのは知識人たちが非常にばかばかしい実験を繰り返し行なっているところですが,同時にそれは宙空に浮かんでいます.それは,インテレクチュアルズたちが現実にまったく根差していないことを表わしているのですが,マラピュータにはそこからのインプリケーションがあります.
 もう一つ,ラピュータには「淫婦」という意味もあって,それにマル(mal=仏語で「悪」)がつくと,「悪の権化としての淫婦」ということになるのです.そして,ピュータという言葉には「穴」という意味もあって,マラピュータは「ブラック・ホール」と解釈することもできるようです.

上野――アイランドということでは,プロスペローがいたのも島でしたね.彼はずっと本を書いていて,それによって船を沈めたり,嵐を起こしたり,まさに情報操作をすることによって環境をオペレートしていた.映画の『プロスペローの本』でも,彼が紙をめくってページをすすめたり,何かをサラサラと書き込んだり,映像にしるしや色をつけたりしていることが,そのままあの世界でのエコノミーやポリティカルなものに影響を与えるかたちになっていました.ここには単なるミクロコスモスとマクロコスモスの照応などではなく,「島」という地勢がもっている文化的な折衷性と政治性が問われていると思います.

ユーリック――メタ・ステイトについてもう少し触れますと,私はこれを全世界的な現象として捉えています.ビジネスの世界ではまさにそうなっていますし,科学の世界,そして知識人たちの間でも…….国家というものの自律性はなくなってしまって,国単位の何かということは現実として崩壊し,すでに全世界的なコミュニティになっていると思います.
 例えば,今,科学と言いましたが,『Science America』という雑誌によれば,免疫システムの解明に画期的な突破口を開いたのは1890年代の日本人だったという説があるそうです.
 さて,インターネットについてですが,ある意味でのインターネットの前身はDARPA(Defense Advance Research Project Agency=国防省高等研究計画局)という,非常に高度なテクノロジーを使って国防を研究する組織だったと言うことができます.そこからARPAネットができました.ご存じのように,最初は防衛目的で作られた組織でした.これは確かに合衆国が作ったものですが,世界各国の様々な人々を結びつけたかたちで出来上がっていましたから,出発点から非常に国際的な性格を持っていました.
 インターネットの他にも,インターナショナル・ネットワークとしてはSWIFT(Society for World Interbank Funds Transfer)という組織があります.これは,インターネットに近い国際的なネットですが,お金を扱うものですね.

上野――インターネットに入っている僕の友人などは,今までのネットにはなかった「これがサイバースペースだ!」というイメージを持ち非常に興奮しているのですが,その反面,アメリカ主導という意味ではちょうど国連が持っているのと同じような限界もあるのではないか? 結局,それぞれの国のネイション・ステイトや社会の母斑をかなり負ってしまっているのではないでしょうか.例えば日本でも,誰かと知り合いであって,どこかの組織とコネクションを持たないと入れないというような,インターネットに対する熱狂と同時にある種の寡占や独占があります.もちろん,とりあえず普通のネットに入っていればアクセスすることはできますが,インターネットの可能性を全面的に解放し,使用することに関しては,特定の大学や会社による独占の動きがあります.

ユーリック――アメリカでもインターネットにアクセスできるのは,大学など限られたところです.つまりインターネットがどういうインフォメーションを扱うか,そしてそれを利用する人たちがログ・インしたり情報を回収したりするときにお金が絡んでくるわけでどの程度コストがかかるか,ということがオープンさの度合と関係してくると思います.確かに今は閉ざされたネットですが,いずれは開かれていくでしょう.プロディジィ(Prodigy)というネットがありますが,それに近いかたちになっていくのではないかと思います.


コミュニケーション・モードの変更がもたらすもの

上野――現代のグローバルなコミュニケーションのシステムは,確かに,メタ・ステイトに近づいてきて,どんどん国境やネイション・ステイトを無意味なものにしていっている.ただし,だからといってそれぞれの個人が十全に多面的なコミュニケーションを実現しているとは思えない.特定の制度を通して参加できるネットワークにはメタ・ステイトにはほど遠いところがあって,とても,広い意味でのステイト――国家でも状態でもいいのですが――を解体したり,乗り越えるものにはなっていない.個人が一人一人メタ・ステイトのパーツとして機能し,またメタ・ステイトも無数の特異性を保証するのでなければ,コミュニケーション・モードの変革は難しい.いずれにせよ,個人がメタ・ステイトと向かい合う局面は今のところほとんどわずかでしかない.

ユーリック――個人がメタ・ステイトの状態に達するのは難しいということですが,どんな個人について言っているのかによって話は変わってくると思います.私の友人には,権力はなくてもしっかりコネクトしている人たちもいます.そういう人たちには,いち早くいろいろなプログラムが入手できる特典があったりしますしね.
 もう一つは,こういうことを考える時に言えるのは,コミュニケーション・モード自体が変更されてきているということです.例えば,この頃はコンピュータを使ったセックスも出てきています.実を言うと『マラピュータ』の中にもそれを扱った部分があります.

上野――コミュニケーション・モードの変更とは,論理的にはどのようなことかをもう少し説明していただけませんか.

ユーリック――先ほどコンピュータ・セックスということを言いましたが,それを具体的に説明しますと,テレフォン・セックスと似たようなものかと思います.人々は自分のイメージを相手のスクリーンに映し出しながら,コンピュータを通じて会話を持ちます.そして最終的に両側でしていることはマスターベーションです.これがコミュニケーション・モードの変更の例の一つとして挙げられます.
 関連づけて言いますと,『マラピュータの王国』では,ボディ・スーツを出しました.ヴァーチュアル・リアリティではデータ・グローヴとヘッド・ギアをつけますね.それによって実際は触っていないのに触っているかのような感覚を引き起こしたりします.このボディ・スーツは全身を覆っていて,二人の人間が実際には触れ合っていないのに,コンピュータの入出力によってあたかも触れ合っているかのような感覚を持ち,コミュニケートするのです.これはある意味ではファンタジーなわけですが.
 例えば,コミュニケーションの形態の変化がどういう方向に進むかということは,本が最初に導入された時に起きたことと並行して考えることができるのではないでしょうか.まず,本が出てきた時の実際的な影響としては識字率の向上があります.他にも非常に政治的な意味合いがそこから派生してきました.本が広く人々の手にいきわたるということは,聖書一つとってみても大きな変化をもたらしました.もともとカトリックは,教会があってそこに人が行くことで,教会をメディアとして神との対話を成立させていたのですが,バイブルを一人一人が持つことで,神との直接対話が可能になったのです.つまり教会自体の存在を否定するかたちになりました.それは,ご存じのように大きな社会変革に繋がったわけです.あるいはまた,本が導入されたことによって,人間の肉声を通すこととは違うかたちでコミュニケーションが行なわれるようになったということ.これも多大な影響がありました
.  では,新たなテクノロジーをベースにしたコミュニケーシヨン・モードの変更は現在の私たちにどういう影響を及ぼすかというと,今ここではっきりしたことは言えませんが,一つは情報の収集と交換の問題があります.私自身の体験から言うと,会話をする場合,私は常に「何を話すか」という話の内容を重視します.他の人たちも当然,話の中身に興味を持っているのだと思っていたのですが,ある時,実は人々は知識を求めてコミュニケートしているのではなく,コミュニケートすることそれ自体に重きを置いているということに気がついたのです.テクノロジーを媒介にした場合,そういう傾向がより強くなっていくのではないでしょうか.

上野――ちょっと話が逸れるかもしれませんが,ハイパーネットワーク社会というのは,どんどん境界がなくなっていく社会であるとも言えますね.にもかかわらず,実際にはアジアやECといったブロック化のような,ある種の囲い込みが起きてしまう.情報主義社会が,ハイパーネットワークと言いながら,実際はコミュニケーションが閉じられてれていく方向に向かうのはなぜかということです.

ユーリック――一方では境界崩壊,もう一方では囲い込みといった両極端のことがなぜ起きるのかという問題には,直観的にお答えする以外にはないのですが,一つには人々が怖がっているのだと思います.今まであったものとまったく違うものが出てくるわけですから,新しいものに飛び込んでいくのが怖いということです.さらに習慣や惰性と闘っていかなければならないのですから,多くのエネルギーも必要とします.まったく両極端のもの――一方では分散化が進むと同時に,他方で中央集権化が進むこと.またアイデンティティにしても民族的・文化的・国家的アイデンティティがある一方で,個人的アイデンティティがあること――こういうことはなぜかと言われても即答はできません.
 最近,E・O・ウィルソンという人の書いた『Diversity(多様性)』という本を非常に面白く読みました.これは生物学的進化についての本ですが.ある一つのグループがあると,結局そこでは突然変異によって,一つの種から様々な亜種が生まれて,数が増えていきます.これは生物学的見地から言っていることですが,それを社会的なレベルで,現実世界の私たちに適応できるのかどうか.先ほどの分散と中央集権化ということと,結びつくのかどうか,非常に面白く思っています.というのは,ひとことで言えば,人間の中では過去から離れていこうとする欲望と,過去へ戻りたいという欲望とがせめぎあっているわけですから.非常に直観的な答えになってしまいましたが,現在ではこういう答え方をするしかないと思います.
 今,ふと思ったのですが,コンピュータが最初に導入された時,年とった重役たちなどはコンピュータ化に非常に抵抗しました.ところが若い人たちはまったく抵抗を示さなかった.これは,習慣というものに取り込まれている度合いを示しています.あるいは,ニューヨークの株式市場で,コンピュータを導入するかどうかでもめたことがあります.もちろん,ニューヨークのストック・エクスチェンジでは,人間同士の株のやり取りが重要だといってコンピュータ導入に抗ったわけです.これも今までの習慣と新しいものに対する抵抗の関係の一例です.
 もう一つ付け加えると,国境あるいは境界線がなくなっていく傾向というのは,実はずいぶん前から起こっていました.それは,政治的・国家的な観点からも言えますが,もっと小さなレベルで,例えば市場というものを考えた時,すでに非常に分散化していたのです.例えばロックを好きな人は,ロック好きの生活スタイルを取りますから,そこに焦点を合わせたマーケティングが行なわれます.つまり,興味が非常に分散していて,結局はそれが全体としての分散化を生み出すという状況があったということです.  それから,今,思ったのですが,コンピュータをやるのは男の人の方が多いんですね.

上野――たしかに,その点については狭義のフェミニズム批評を超えた文脈からの分析が必要ですね.ただ情報操作の主体としての「男」にも,ある種のタイポロジ−がありますね.僕にしてもユーリックさんにしても,昔の文学や神話や物語の中に情報論的な要素を見出すことへの興味があるわけですが,どんな時代にも,ファウストにはメフィストがいて,ダンテにはヴェルギリウスがいて,プロスペローにはエアリエルがいる.主人公が媒介する他者とガジェットを使ってダイレクトに情報を動かして世界を変えるように働きかけているところが興味深く,情報都市やテレコミュニケーションの世界に通じるものがある.ここにもやはり何かコンフリクトやストラグルを生むような,非対称のあるいは水平ではない関係がそこにあるのではないでしょうか.

ユーリック――インフォメーションがパワーであるという考え方は太古から,例えば旧約聖書にも出てきます.神が人間を創るにあたっては,天使たちが非常に反対した.なぜならそこには善悪を司る「知恵の木」があったからで,ここに知識というものが登場しています.それから,ヨブが苦難に見舞われた時,神がヨブに向かって「この世界が創られた時お前はどこにいたか」と言う.つまり「お前に何が分かる」というわけです.ここにも知識が出てきています.すべての文学,神話に知識,すなわち情報操作というものが深くかかわっているのです.


エレクトロニック・デヴァイスが拡張する読むこと,「書物」

上野――それと同時に,「本」というものの形式が再び重要になると思います.マルチメディアの文脈において「本」の概念が広がってきた部分があります.そこで,広い意味でのエキスパンデッド・ブック――ボイジャー社のものではなく――,拡張された書物というものをハイパーカードから様々なハイパーテクストまで考えると,単に本が用ずみになるということではなくて,メディアとしての本が変わりつつあります.しかしそこには持続しているものもある.ボードレールが『人工楽園』においてハッシシの魅力をド・クランシーにそくして語った時,あるいはフロイトがマジック・メモについて語った時のように複数のテクストが互いに重なっているということは,実はそんなに珍しいことではなかったと言えます.そのような,本というメディアの持続している点と変わりつつある点についてお聞きしたい.

ユーリック――まず変わった点としては,今まで莫大な時間がかかっていたものが技術によって瞬時にできるようになったことですね.以前私は,カードを何枚かセットにしたものを作っていたのですが,それぞれのカードが持つ情報によって位置を変えた穴をあけておくのです.あることに関する情報が欲しいと思ったら,その情報の穴に針を通します.そうすると,その情報をもったカードだけが針に貫かれて,他のカードはバラバラと抜け落ちるという仕組みです.これはハイパーカードの概念とまさしく一致するのですが,これをやり続けるには莫大な時間がかかるわけです.それが今やコンピュータによって簡単にできるようになりました.
 その概念自体はそれほど新しいものではなく,古くはラビたちが作ったタルムードがあります.これは中心にテクストがあってその周りに註釈,解釈が散りばめられていますが,その中で「目」というものが非常に大きな比重を占めています.つまりはヴィジュアルであるということで,これもまさにコンピュータのスクリーン上で行なわれることを彷彿とさせます.
 先ほどの,針で情報を抜き出してカードを使うやり方ですが,実はマージ・ピアシーとロバート・クーヴァーも同じ方法を使っていました.ロバート・クーヴァーは現在,ブラウン大学でハイパーテキストを研究しています.当時クーヴァーも同じシステムを使っていましたが,結局,使う人間が違うので情報も私と彼ではかなり違っている.ではいっそのことお互いにカード・デッキを交換して,自分にはあって相手にはない情報をつけ足してエキスパンドし,元に戻して使おうではないか,と提案したことがあります.ところがクーヴァーは,情報を独占したかったのか,拒否されてしまいました(笑).
 概念と技術というということで言うと,コンピュータというものが最初に私の視野に入ってきたのは1948年頃のことでした.MITの卒業生が私の学校に転入してきたのです.コンピュータばかりいじっていてつまらなくなったからということでした.その人と一緒に考えていたのは,例えばペインティング・マシン,つまりある画家の技法やタッチをコンピュータに読み込ませて,その画家が描いたであろう絵をコンピュータ上に作り上げるというもの.あるいは,モーツァルト,バッハなど様々な音楽家たちが書いた音楽をコンピュータに読み込ませて,今は亡き音楽家たちが書いたであろう交響曲を作り上げたら面白い,などという話を当時からしていました.もちろん,実際のコンピュータへのアクセスはなかったわけですから,コンセプチュアルに遊んでいただけですが.

上野――今ではそうしたエディットはすっかり一般化してしまったわけですが,単に「読む」ことに限っても,グラフィカル・ユーザー・インターフェイスだけではなく,エキスパンデッド・ブックでもそうですし,マッキントッシュでもウィンドウズでもいくつかのフェーズの重なりを操作,組み換えることができる.折目をつけるとか,付箋を貼る,線を引く,めくるということが,コンピュータの操作をやさしくしたり,イマジネーションを増やしていきます.そのように,さわったりヴィジュアル化する部分に鍵があるというのは書物というメディアの本質に関わると同時に,それを乗り越える契機をふくんでいるのではないでしょうか.

ユーリック――問題は,ブックがどうこうというよりもインフォメーションのプロセスの方で,むしろそちらに重要な部分が潜んでいるのではないかと思います.本というのは,それが出来上がった時代には最高のテクノロジー・デヴァイスだったわけですが,それはたまたまその時代のテクノロジーの結果であって,同じ彼らがコンピュータを持っていたらもっと別な何かができていたかも知れない.とにかくポイントはいかに情報を操作し,いかにそれで遊ぶか,ということです.

上野――エキスパンデッド・ブックの試みの一つとして出されているものに『白鯨』など,小説の創生期に比較的近い時期の作品がたくさんあって,それにユーザーが自発的にノートをつけたり,線を引いたり,それまでは書かれていなかった情報を書き込んでいくということができるようになりつつある.さっきおっしゃっていた1948年のアートにおける試みと同じような実験がそこで行なわれている.古典的な小説を使いながら,全然違う小説を生み出しかねない.エキスパンデッド・ブックはまだそこまでいっていませんが,その可能性はあると思うんです.

ユーリック――今,『白鯨』を挙げられましたが,それは非常に適切な例だと思います.というのは,『白鯨』は哲学的な瞑想の物語であると同時に,産業的経済的様相を含んだ「船荷」を扱った物語であり,何よりもこの小説が特徴とするのはそれが索 引であるという点です.実にいろいろな哲学者や思想家についてのコメントを提供しているでしょう?
 その点でメルヴィルは,すでに1800年代からハイパーテキスト・ゲームをやっていたと言うことができるかもしれません.例えば『白鯨』は聖書のヨブのお話に対するコメントであり,あるいは『ファウスト』に対する攻撃であり,結局考えていることはコンピュータがあろうとなかろうと同じで,コンピュータは単にそれを効率よくこなしてくれるだけなのかもしれません.私も,『白鯨』の物語を使ってハイパーテキスト・ゲームを試みたことがあります.どういう物語を作ったかと言うと,ある船乗りが『白鯨』の物語を現代の出版社に持ち込むのですが,その『白鯨』は私たちが知る物語とはぜんぜん違っているのです.『白鯨』ではエイハブ船長が主人公で乗組員は全員男なのですが,この新しいヴァージョンでは全人類が船に乗っていて,それがエイハブに対して謀反を起こすというものです.出版社はそれが気に入らず,なんとかして船乗りを言いくるめて,私たちが知る『白鯨』の話へ持っていこうとする,そういう物語です.

上野――ディケンズが鉄道や銀行,相続のことに触れていることは,ユーリックさん自身が『メタトロン』で指摘しています.彼はたくさん書いていて,機械を作ることで社会がどんどん発展していって,人間関係が変わるとさらに経済的な関係が人間のコミュニティに入り込み,これを変えてしまう.あるいはジョイスを見ても『ユリシーズ』の登場人物は電話ばかりかけています.「ユリシーズ」の世界での理想はマシンで,声をエクリチュール化し,さらに増殖するような試みです.生身の声の中に,実はつねに「テレフォニックなテクノロジー」がはたらいており,独白や告白にみえるものにも,距離や差異がうがたれていることを示すことに,あの小説は成功している.今日,使われている電子的ガジェットについても同じことが言えるでしょう.本号の特集では様々なサイバーガジェットが問題になるわけですが,マシンと人間の間には新しい組み込みやアジャスマンが生じていく.このことをいちばん鋭敏なかたちで考えていたのがマルクスの『経済学批判要綱(グリュントリッセ)』だと思います.『経済学批判要綱』のマルクスは,機械と人間がただ単に対立するだけではなく,人間が機械に慣れて,機械の一部になってしまうことをクリティカルに描いています.しかし,そのようにテクノストレスやショックによるアリエネーションを語る一方で,それを新しい社会のあり方として見ていたというか,機械と人間のアジャンスマン,組み込みを,ただ否定的にではない捉え方をしていたと,僕には見えますが.

ユーリック――機械によってストレスが生じるのは,主としてその機械が導入された時に限られているのではないでしょうか.慣れればそこにあって当然の,風景の一部になってしまいます.先ほどのディケンズ,それから『ユリシーズ』のブルームのお話も非常に面白い指摘です.電話に関して私は今まで気づきませんでしたが,ブルームはセールスマンですから当然電話とは切っても切れない関係にあったわけです.
 それからマルクスについてですが,人間が機械の一部になり,それによってストレスが生じるのは,あくまでも労働経済に関係することで,作業自体の単調性という側面から捉えられています.ですから,ゲームとして行なうような現在のハイパーテキストやコンピュータを使った様々なデヴァイスの場合とは若干違うと思います.ただし,現代の場合ストレスとは異なりますが,いろいろな身体的障害というのは出てきているのかもしれません.例えばカープル・テンドン・シンドローム(手根管シンドローム)というものがあります.これは腱鞘炎とも違う手の障害で,タイプライターの時代にはなかったものです.昔のタイピストたちは腱鞘炎にはなりましたが,少なくとも紙を入れ換えたりする時に必ず指の動きを止めて間合いをとることができました.コンピュータは打っている間は紙の入れ換えは必要なく打ち続けるわけですから,これまではなかったような症状,手の神経の周りにある組織が炎症を起こすようなこの「手根管シンドローム」が起きるのだと思います.
 そういう肉体的なシンドロームは出てきていますが,マルクスの言うストレスと現在のコンピュータ・ストレスとは少し違います.
 マルクスは非常に啓発的で,しかも一種の天才でした.『資本論』の第一巻に,わずかに註として記されているのですが,「最良のコミュニケーションを持つものは,最高の人口を持つ」という部分があります.つまり,どんなに人口が多くてもコミュニケーション手段を持たなければ,その人口は力とはならないということです.ここでマルクスがやっているのはインフォメーションと人口を等価に置くということです.そこから剰余価値の問題なども新たに読み直すことができるかもしれません.つまり先ほど申し上げた資本の中に死者の霊が含まれている,ということですね.

上野――かつて『経済学批判要綱』を情報論として読むという企てをなさったと聞いていますが…….

ユーリック――読み換え,再解釈を具体的なかたちで表わしたことはありませんが,一つ言えることは,『経済学批判要綱』のマルクスは非常に挑発的だということです.『資本論』よりも挑発的なのではないでしょうか.
 善きにつけ,悪しきにつけ,結局マルクスはそれまでとはまったく違うフレームワークを提示しようとしました.それはインフォメーションに関するフレームワークと言うこともできます.その新しく提示されたフレームワークに対して,人々は拒絶反応を起こした.このことからインフォメーションだけではなく,それを取り囲む周りの状況というものが視座に入ってきます.メタ・ステイトの概念は,実は『共産党宣言』にその萌芽を見ることができるのです.


神話と情報社会を往還する思考

上野――ユーリックさんは情報論を展開する時に,カトリックや,ユダヤのタルムードやギリシア悲劇など,西欧の物語の祖型,物語のモデルを縦横無尽に使っていますね.日本の伝統の中にも,例えば『古事記』のようなものもあるし,神話やフォークロアの中に情報論的に使えるモデルがたくさんあります.それを使おうと思う時もありますが,やはり情報というのはトライバリズムを持ちながらもグローバルなものであるから,普遍的なモデルを使ったほうがいいと考えたり,伝統的な自分の社会のものを使うと,テクノ=ミスティシズムに落ち込んでしまうように感じて,躊躇する部分があります.ご自分の文化の伝統を最も新しい情報のフェーズでお使いになっているユーリックさんとしては,どうお考えでしょうか.

ユーリック――私たちはえてして,遥か遠くまでたどり着いたと思いがちです.私が古いものを持ち出すのは,そのことによって実は昔の人たちの考えとさほど変わりがないことを示すためなのです.例えば,アガメムノンの帰りを待つクリュタイムネストラは,彼を殺そうと画策しているのですが,アガメムノンが近づいてきたことを狼煙で知らせるように手配します.これはコミュニケーシヨン・システムですね.それから,エルサレムから追放されたユダヤ人たちは,祈りを捧げる時,特に金曜日の祈りはとても大切なものだったのですが,その儀式を司るのは聖なる都であるエルサレムに残ったユダヤ人にしか許されていなかった.ではどうするかというと,やはり火,狼煙の一種を使うのです.これもコミュニケーション・システムです.あるいは,アテネに入ってくる商船がある時,船があるポイントを通ると入港を声で知らせ,それがポセイドンに伝わって,市場の準備がなされるようになっていました.これもコミュニケーション・システムと言えます.つまり昔から様々なコミュニケーションの手段があり,その部分では昔も今も変わらないのです.ですからいろいろなナラティヴを持ち出しています.
 あらゆる創世神話というのは,コミュニケーションに深く結びついています.例えば文化英雄,カルチャー・ヒーローは,それまでなかったものを人間にもたらすことによって大きな変革を起こすわけですが,このカルチャー・ヒーローは人類創世の時代から存在していました.私たちが現在直面している問題というのは,ある意味では昔と同じ繰り返しなのだということを人々は忘れがちですが,それを思い出して欲しくて,神話から現代へと行ったり来たり(shuttle back and forth)を続けています.

上野――インフォメーションに関しては前へどんどん進んでいくという部分も,もちろん必要なわけだけれども,それだけに忘れられている部分もたいへん大きいので,行ったり来たりという方法はいちばん必要とされているのではないかと思います.実際,ハイデガーがかつて「退歩(zuruckschritt)」と評していた身ぶりもそうした思考の運動を指していたわけです.
 今ここに存在する身体,モノ,集団を別のかたちに組み替えたり,何らかの変更された形式によってストックするという試みは人類史においては一貫して行なわれてきたわけです.政治にプロステティクス的,もしくはサイボーグ的な要素があるのはこの意味で自明のことですし,神話や物語のなかで特殊な生体が現われるのも,政治の代補性,そのつどの社会関係の情報論的形式のフィードバックされた形象と言えます.メタ・ステイトを志向することは,テクノロジーの現在的な進展のなかに歴史的な地平との横断性を見出し,過去の物語的な類型にテレコミュニケーションへの欲望のかたちを読み取ることではないでしょうか.その意味で,今日要請されているのは,「情報の宇宙論」ではなくて,「情報の政治学」だと思います.


[1993年12月4日,東京にて]
(ソル ユーリック・作家/うえの としや・社会思想史)
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