Urbanism_J
InterCommunication No.5 1993

feature

情報都市のパラダイム
電視光学のアーバニズム


彦坂裕


 「情報都市」ということばに立会うとき,私たちはトートロジックなものに直面した際に覚えるある種のとまどいを感じてしまう.なぜなら,都市というものは,本来,情報の高度な集積地であり,多様な情報価値を生産し交換する有機体として,暗々裡に認知されているからだ.にもかかわらず,1960年代から今日に到るまで,位相を変え,文脈を変えながら,私たちは「情報都市」を問題にしようとする.

 そして今日的な観点からいえば,近過去において唱導されたナイーヴな都市認識術や,メディアに見立てたときに生起する都市の価値創造,さらに情報経済の初期的な市場としての都市分析といったものを超え,積極的に新次元での都市形成――あるいは都市再構築――を施行する方法の中に,「情報都市」の問題性が展開されているように思われる.ヴァーチュアルなるもの,デジタルなるもの,遠隔性,非物質性,トランスミッション,ネットワーク,速度原理などが,また同時に,この「情報都市」が語られるパラダイムに,強度のある磁力をもって介入する.

 ここにきて,計画と読解の連帯する至福な創造行為自体も,瓦解の危機に瀕していると言うべきかも知れない.デジタルな伝播性を合理配列したIC集積回路と,超俯瞰の都市組織の親近性を語る想像力も,いまだ機械ヴィジョンを触媒としたアナログ的な射程を脱出しているとは言い難い.「不可視」,「瞬時」,「デジタル」に直截的にアクセスし得る想像力上の類型モデルを,私たちは自らの想像世界の内部に共有していないのだ.デジタルなるものによってレギュラライズされた仮想(理想?)的情報都市と,都市が歴史的に背負い続けるアナログ的なアルゴリズムの累積としての現実都市との裂傷を,創造的読解と読解的創造がすき間なく埋め尽くそうとしているにすぎない.そして「情報都市」は,見えない超テクストとしてその存在形態を露にする.

 1950年前後の情報革命(それはコンピュータの社会利用,マスコミの成立,オンライン制の普及などによって特徴付けられる)後,私見によれば,「情報都市」のアナログ的かつ戦闘的モデルをラディカルに提示したのは,ウィーンの建築家ハンス・ホラインによる一連の非建築的プロジェクトにおいてであった.中でも,メルクマール的意味をもつものは,おそらく,《ランドスケープのなかにある航空母艦都市》(1964年)であろう.

 すでにホラインのモンタージュの中では著名となっているこのプロジェクトは,無名のランドスケープ上に航空母艦が安置されただけのヴィジョンが,ジオラマ的構図の中で提起されている.60年代特有の,飼いならされた近代建築への観念的テロリズムを無視し得たとすれば,ホライン的文脈においては,これを40年前後のマジノ線の地下要塞断面を修辞なしに提起したとしても,その意味するところは変わらなかったはずである.

 その前年に,彼は《コミュニケーション・インターチェンジ=都市》といった機械の,しかしモノリシックに還元されたトランスミッション機構を想わせる計画を展開した.情報伝播の制御をも積極的に非建築的プロジェクトに採り込んでいた流れからすれば,《航空母艦都市》は単なる空想的な軍事プレゼンスというよりも,当代のコミュニケーション回路を集約する「情報都市」の可視的なフォルムの片鱗を予兆させるものであったという方が正確だろう.

 先端的都市を言明するに際し,また再び軍事的メタファーが動員される.しかも空母という,現在,衛星を従えた最高度の情報システムを装備する可動のネットワーク拠点であり,情報戦の枢要なコマンド・キャリア=情報の運搬体=メディア・ヴィークルでもあるそれは,まさしく軍事都市でありながら「情報都市」の似姿に他ならないのだ.この「情報都市」が非局所的(場所を選ばない)ランドスケープに布置される.不動か,軌道=航跡しかそこにはない.かつて啓蒙期の知性主義によって分化した「パヴィリオン・システム」型の母(大地)と父(欲望を内包した建築施設)の関係性――それは自立する施設と自在な配置学をもって近代都市を席捲した――は表層上担保されてはいるものの,建築施設の断続性を結びつけるのは,もはやイマジネーションではなく,即時的なデジタル通信情報のネットワークなのである.父同士は,こうして,上位の軍事ならぬ情事都市を形成する.

 上へ下へ,横へ,斜めへ,という空間=時間的拡張は,内へ,外へ,という拡張と密実化の優位性にとって代わられた.都市の物理的外貌は,稠密に自己組織化された内部を梱包する,たまさかの身体的なインターフェイスにしかすぎなくなる.

 建築や都市を対象にする空間計画者は,こうした「情報都市」的文脈においては,不可視のコミュニケーションをめぐるシステム・エンジニアになるか,あるいは情報の集約的な高度交流地なる場を先進的に創造することの中に,そのアクティヴな役割を見出すしかない.それは今世紀初頭のウジェーヌ・エナールを代表とする交通複合体構想から,近年のテレポート計画,衛星システム計画まで,テクノロジーとアーキテクチュアの稀有の共犯を可能にしている領域のひとつでもある.巨大資本が投下され,当代の先端テクノロジーが駆使された昔の教会堂が高度な情報空間であったように,情報伝播のトランスミッションを司る場は,あたかも聖地を恢復せんとばかりの古典的情熱をもった,祝祭的でヒステリックな空間であり,情報宮殿や情報都心としてまつり上げられるのだ.

 情報の集積という結果や,情報の発受信の効果が問題なのではない.問題は,情報の伝播や流通回路を支えるテクノロジカルな道具立てであり,情報なるものを運ぶ何ものか(メディア・ヴィークル)の様態なのである.教会堂という場においては,肉声と可視的な空間そのものが媒体の道具立てであった.近代化とともに,それは文字や図の印刷術,そして後に鉄道・道路をはじめとする輸送交通に,さらに電信が道具立てとして人工環境を刷新してゆく.私たちの現時点では,電子テクノロジーによるデジタル・メディアが,この回路を仮借なきまでに侵犯しようとしているのだ.媒体の道具立ての変容は,コミュニケーション・システムの変容を惹起し,都市の可視・不可視の形態を変える.

 電子テクノロジーによる情報流通系がコミュニケーションのインフラとして登場し始めたとき,「情報都市」が語り始められる.なぜなら,デジタル・メディアがもつTele(遠隔的)でリアルタイムな特性は,これまで都市が基体としてきた空間=時間的連続の場としての実体――それはかつてパトリック・ゲデスが想起したように,生物身体的な組織性をもつ――を解体してゆくからである.その意味で,「情報都市」は,都市ではない.  このように措定された「情報都市」には,いくつかの基本的な問題が,必然的に露出してくることになるだろう.

 第一に,これまで伝統的に空間を制御し,秩序を形成する役割を担っていたスケールの概念が捨象される.空間的・時間的な秩序系を構築するスケールは,一体,何によって代替されるのだろうか.

 第二に,しかしそれでもサバイバルしていくであろう古典的(もしくはヒューマニスティックな)身体性をもつ時空間は,いかなる意味変換がなされていくのだろうか.そこに批評性をもつ情報価値が生成され得るのだろうか.

 第三に,今世紀にめざましく発展を遂げる情報理論によるコミュニケーション・プロセスの分析・解明は,コミュニケートされるイデオロギー性をことごとく稀薄化してきたことは周知のことがらである.おそらくは,経済×テクノロジーの定式で支配される「情報都市」における政治的イデオロギーの顕現とは,一体,どのような形態をとるものなのか.それとも,そのようなもの自体が失効してしまうのだろうか.

 第四に,電子情報網化された社会において,絶えずネットワーク上を移動し続ける中心/特異点は,いかなるソフトウェア/ハードウェア上の動力によってもたらされるものなのだろうか.それが「情報都市」における拡大や密実化のダイナミズムや,権力の問題といかに関与していくのだろうか.それと同時に,「情報都市」に境界ないし閾は存在しないのだろうか.

 最後に,電視光学のアーバニズムの所産であろうとする「情報都市」は,神の都市,遍在する電子の眼をもつ神の所有物となり得るのか.そして,その神という名の主体は?

 だが,私たちをめぐる楽天的な状況は,こうした幾つかの問題設定をもいささか性急に過ぎるものとして,当面,宙吊りにしてしまうかも知れない.


(ひこさか ゆたか・建築家,環境デザイナー)
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