Twitterの中のわたし

自分がつくるじぶんをつくるアーキテクチャ

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概要 OUTLINE

概要 OUTLINE

「アーキテクチャ」とは,「建築」「構造」などを意味する言葉ですが,情報社会論の領域では社会における設計や構造として捉えられています.ウェブ・サーヴィスでは,アーキテクチャはサーヴィスを形づくる仕組みやインターフェイスひとつひとつにあたり,それらの構成しだいでわたしたちの行動が規定されたり,変化したりすると言われています.たとえば,Twitterで投稿されるテキストには,ブログやメールなどのサーヴィスと違った独自の特徴が見られます.これを,投稿が140字以内に制限されることや,ユーザがおのおの異なったタイムラインを持つことに代表される,Twitterのアーキテクチャによるものと捉えることもできるでしょう.
「Twitterの中のわたし─自分がつくるじぶんをつくるアーキテクチャ」は,私たちがアーキテクチャにどのように影響されているかということと,それらに対してどのように向き合えるのかをテーマとします.アーキテクチャを考察するための題材として,現在ユーザ層の広がりを見せるTwitterをとりあげます.そして,アーティストや研究者の方々を招いた研究会を通じて思考と実践を行ない,そのプロセスはこのページで公開していく予定です.どうぞご期待ください.

インタヴュー

インタヴュー

Twitterはユーザーを「多重人格化」するのか、それとも?

濱野智史

HAMANO Satoshi

Twitterはユーザを「多重人格化」するのか,それとも?

昨年(2010年)5月にICCで開催されたトーク・イヴェント「リアルタイム・ウェブの現在とこれから」の中で,「Twitter人格」という言葉を僕がぽろっと使ったことがきっかけとなって,今回,研究会の最初のメンバーとしてお招きいただいたとのことで,ありがとうございます.今,さっそく資料を拝見していたのですが,「Twitterを筆頭とするウェブ・サーヴィスの中ではユーザの多重人格性が拡張される」というくだりがありました.まずはここを切り口にして,話を始めてみたいと思います.つまり今,本当にTwitterなるネット・サーヴィスの仕組みが「多重人格性」を押し進めているのかどうか.

というのも,「ネットが多重人格性をもたらす」という議論は,これまで散々やられてきた経緯があるからです.そもそもインターネットが登場して間もない90年代前半くらいの頃,「ローグ」のようなテキストオンリーのネットRPGや,ごく簡易的なチャットシステムのような初歩的なコミュニケーション・ツールしかなかった頃から,「コンピュータ上のサイバースペースがユーザの多重人格化を促す」みたいな言説が,それこそシェリー・タークルロザンヌ・ストーンあたりのメディア学者によって言われていたんですね.当時,「それって本当なの?」という議論が散々やられていたわけですが,それから10数年以上が経過した2010年代の現在,Twitterが「多重人格性」をもたらすかもしれないという議論は,果たしてどれくらい事の本質を言い当てているのか.そこをまずは最初に押さえなくちゃいけない.

僕の考えでは,「多重人格性」云々というのは,何もTwitterに限らないんですよ.何かヴァーチュアルな空間上で,「別のアカウント」を立てることができるサーヴィスであれば,それでもう「多重人格化」はしてしまうわけです.今,むしろTwitterを巡って考えるべきなのは,いわゆる「多重人格化」を促す側面も確かにあるけれど,その逆に,あるひとりの人格としての一貫性というか「自己同一性」を過剰に促す側面,いわば(「多重人格化」とは逆の意味で)「単一人格化」とでも言うべき効果が強まっているのではないか,ということなんです.

ありふれた例ですが,あるTwitterユーザが友達にウソをついて「俺,今日はその飲み会に行けないんだよ」と言っていたのに,別の飲み会に参加していたことをTwitter上でつぶやいてしまえば,回り回ってウソがバレますよね(笑).たとえ本人がつぶやかなかったとしても,周囲の人のつぶやきがフォローされていくうち,「なんだよコイツ,飲みに行ってるじゃん!」みたいなことが瞬時にバレてしまう.つまりそこでは,Twitterを使うことで,多重人格どころか「二つの顔を使い分ける」ことすら不可能になっていく.

そうしたTwitterの性質や影響力を「いい」と思う人もいれば「悪い」と思う人もいるのが,現状です.つまり,Twitterを始めとするソーシャルメディアというのは,「多重人格化」を促すかもしれないけれど,逆に「単一人格化」させるという2つの相反する側面があって,いずれにせよ「自分のあり方」をTwitterが変えてきているのかもしれない,と.ただ,僕が見てきた感じでは,2000年代以降の風潮としては,「多重人格化」よりも「単一人格化」の方が,より顕在化した問題としてフィーチャーされてきた感もします.

たとえば鈴木謙介さんの著書『ウェブ社会の思想』(NHK出版,2007年)の中でも,似たような指摘がなされています.あの本が出た頃は,まだTwitterは流行っていませんでしたが,鈴木さんはそれを「ユビキタス・ミー(遍在する私)」と表現されていました.それはどういうことかというと,今のネット・サーヴィスというのは,たとえばamazonの買い物履歴からお勧め商品が自動的に弾き出されて「お前さんの趣味はこういうものだ」とか押し付けられたり,mixiならプロフィール欄に自己紹介ならぬ他己紹介のコーナーがあって,「○○君は優しい人です」とか勝手に書かれてしまったりするというように,常に「自分」というものがつきまとうのだ,と.これを鈴木さんは「ユビキタス・ミー」,つまり「ネット空間上のあちこちで,先回りをして“自分”が現われてくるから,本当の自分をそれに合わせていかなくてはいけない」といった過剰適応的な機能が働き,それがある種の「宿命論化」を促すのだと分析したわけです.つまり,「自分の人生はこの一個だけしかないのだ!」と過剰に思い込んでしまうような現象が(情報環境の成熟によって)起きているのではないか,という指摘です.

あと,これは『アーキテクチャの生態系』(NTT出版,2008年)の中にも書きましたが,たとえば「2ちゃんねる」は「匿名掲示板」と言われていますが,あそこで匿名と言われているのは決して「人格を捨てる」ということではなくて,よくよく考えると「(コメントを書き込むことで)2ちゃんねらーになる」というサーヴィスなんですよね.つまり匿名といっても,無色透明な人格ではなくて,「2ちゃんねらーって,こういう時にはこういう言い方やふるまい方をするよな」という共通の前提があって,それで書き込んでいる.言い換えれば「2ちゃんねらー」という巨大な一個のアバターのようなものがあって,みんなはそれになりきろうとしているわけです.だから書き込む文体もやたらと似てくる.それがキャラクターの形で具現化されたものが,たとえば「やる夫」(2ちゃんねるで考案された,アスキーアートによるキャラクター)だったりするわけですね.

だから「2ちゃんねる」というのは匿名,匿名と言われながら,あの情報空間内でひとつの人格的なイメージが立ち上がっていて,それこそエヴァンゲリオンの「人類補完計画」じゃないけど(笑),みんなでひとつの姿を支え合うという……旧映画版では綾波レイが人々の魂を吸いとってめちゃくちゃ巨大化するシーンが描かれていましたけど,本当にあのイメージに近いな,と.こうした話題ひとつ取ってみても,「ネットが多重人格化を促す」という話とは全然違うアスペクトが見えてくるわけです.

濱野智史

研究者/情報社会論,情報環境研究.1980年生まれ,慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科修了.2006年まで,GLOCOM(国際大学グローバル・コミュニケーション・センター)研究員として「ised@glocom:情報社会の倫理と設計についての学際的研究」スタッフを務めた後,現在は株式会社日本技芸にリサーチャーとして勤務.2ちゃんねるやニコニコ動画,SNS,ブログなどネット上のコミュニケーション・アーキテクチャを論じる気鋭の若手研究者.2008年,初の単著として『アーキテクチャの生態系』(NTT出版)を上梓.近刊に,東浩紀との共編『ised 情報社会の倫理と設計』(倫理篇・設計篇の二冊組,河出書房新社),佐々木博との共著『日本的ソーシャルメディアの未来』(技術評論社).

過去に参加した展示・イヴェント

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「インターフェイス的主体性」の変容を巡って

先ほどの「ネット空間上の多重人格」の話で思い出したのが,かつて東浩紀さんが『インターコミュニケーション』誌(NTT出版)に(1997—2000年に)連載されていた「サイバースペースは何故そう呼ばれるか」という論文が今度,河出書房新社で文庫化されるのですが,その解説を書かせていただくことになり,今ちょうど読み直していたところなんです.で,まさにその本の中で,先ほど触れたシェリー・タークルやロザンヌ・ストーンの話も出てくるのですが,当時の彼らは「サイバースペースでは(デスクトップ上で複数のアプリケーションを使い分けるように)人格を使い分けるから,ユーザはみんな多重人格化する」と主張していたのだけど,そこでスラヴォイ・ジジェクが「そんな単純な話なわけがない!」と反論をし,「そこでは複数の人格を使い分ける“メタ人格”なるものがあって,そもそもその“メタ人格”自体が,ラカン派心理学で言うところの“主体性の定義”なのだから,そもそも多重人格など存在しない」と反論したんですね.これに対してさらに東さんは,そこで「そもそも現代では象徴界が弱体化してきているわけだから,むしろ人格の複数性みたいなことも容易に起きるようになってきていると捉えるべきでは?」という再反論をしていて,そこからさらなる論考が進められているんです.

そこで東さんは,ジョアン・コプチェクというラカン派の批評家が作った,映像メディアの発展に即した人格モデルの三段階説とでもいうべきものを紹介されています.「写真の時代」「映画の時代」「電子メディアの時代」の三段階になっているのですが,簡単に要約してみます.まず「写真の時代」には,撮る者と撮られる者,つまり主観と客観とが完全に分離していて,「撮ること=風景を見ること」によって明確に主体性が確定されていた.けれど,それが「映画の時代」になると,何かの映像を見るということは,撮影した監督やカメラマンの目線で見るということになるから,そこでは視線が二重化する.つまり,何かを見るということは,誰かの視線を媒介して見ることを意味する.それはラカン派的には,見えるイメージそのものを信じる「想像的同一化」ではなく,見えないもの(象徴的秩序)への同一化,すなわち「象徴的同一化」とイコールである云々……となる.ところが「電子メディアの時代」,つまりパソコンのスクリーン画面(モニタ)になると,どこかに監督がいて,スクリーンが超越論的に規定されているわけではない.東さんによれば,そこでは「イメージ(想像界)とシンボル(象徴界)が同時に現われてくる」と言うんですね.

それはこういうことです.「映画の時代」だったら,何をフレームの中に収めるのかというカメラアイ(=シンボルの世界)が画面の外側にあり,目の前に見えるもの(=イメージの世界)は,スクリーン上に投影されているわけで,シンボルとイメージはきれいに分離されていたわけです.ところがそれが「電子メディアの時代」,つまりパソコンのモニタ画面になると,表面上はアイコンのようなヴィジュアル・イメージが表示されているけれども,その裏側では全部シンボル(記号)の論理的操作でできあがった一種の計算論的な世界が広がっている.たとえばパソコン上で「ゴミ箱にファイルを捨てる」というイメージ的操作というのは,実際には0/1で構成されたデータを消去するというシンボル操作が行なわれているわけですよね.パソコンのインターフェイスというのは,こうしたシンボルとイメージという異なる要素が表裏一体で混在してしまう平面なのであって,従来の写真や映画といった視覚メディアとは全く異なる特徴を備えている.ラカン派精神分析の考える主体性というのは,映画というメディアと構造的に同一だったのだとすれば,パソコンというメディアが普及すれば,これまでの主体性とは異なる「インターフェイス的主体性」なるものが立ち上がってくるはずだ……という言い方を東さんはされていました.おそらく,これを後に言い換えたのが『動物化するポストモダン』(講談社現代新書,2001年)における「データベース的動物」というものですね.

ここではこれ以上突っ込んだ話はしませんが,いずれにせよ,こうした理論の流れからも分かるように,「電子メディアの誕生と普及によって,従来の主体性モデルとは全然違ったものが現われている」という議論は,けっこう蓄積がなされているわけです.Twitterによって人格がどう変わるのかという議論を深めていくには,こうした議論の延長線上で何が起きているのかを考えないといけないと思います.

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「タッチスクリーン・インターフェイス・ネイティヴ」の誕生

その延長線上で言えば,今現在のTwitterブームを支えている要素として,タッチスクリーン・メディアの普及という視点が絶対に欠かせませんよね.これまではマウスとキーボードでデスクトップ上のスクリーンを操作していたのが,スクリーンを直接触って,文字を入力したり操作するようになった.まだiPhoneが出てきて数年しか経っていませんが,これはとても大きな変化だと思うんです.タッチスクリーン・インターフェイスならではのTwitterの使い方,そしてそこに現われるTwitter特有の人格モデル……現時点では想像もつきませんが,そういう研究のアプローチも,ひとつにはあるでしょう.

それでなくても,タッチスクリーンというのは色々と興味深いアーキテクチャ(環境)だと思います.わりと有名なエピソードですが,iPhoneではアプリのアイコンを押したとき,わざと「今,画面を開いていますよ」ということを視覚的に表現したアニメーションが表示されたり,画面をぎゅっと限界以上まで引っ張った時に,もうそこには何もないのに余白が表示されて,元の画面に戻る挙動がなされるというように,「物理的現象」とまで言うと大袈裟ですが,そういう視覚的なギミックを意図的に入れているそうです.でも,プログラマの方に言わせると,それはプログラムを実行するだけだったら本当は必要ないと言うんですね.たとえば,「今開いてますよ」というアニメーションを見せているとき,実際に裏側で演算をしているわけでは必ずしもないらしい.本当はすぐにでもアプリ起動画面を表示できるのに,わざとそういうワンテンポ置いた表示にしている.でも,その方が,操作している人間には「早い!」と感じられるんだそうです.

Androidのスマートフォンを触ってみると,アップルのiPhoneには,確かにそうした独特のUIがたくさん詰め込まれていることが分かります.コンピュータの性能を高める目的なら本来は必要がないのに,それが内蔵されているがゆえに,人間の目にはスムーズに使えているように錯覚されてしまう.本当はわざと遅らされているにもかかわらず,iPhoneを使っている方がイラっとしない,待たされている気がしない.タッチスクリーンには,こうした錯覚の効果が非常に巧妙に仕込まれている.

あともうひとつ,タッチスクリーン・インターフェイス関連の話題として,最近,小さいお子さんをお持ちの主婦層の方にインタヴュー調査をする機会があったのですが(恐らく,みなさんの周囲にもそういうお母さんがいらっしゃると思うのですが),もはや一部の母親層では,iPhoneが「赤ちゃんを育てる時の必須アイテム」になっているんだそうです(笑).

今までならば「テレビ」だったんですよね.新生児にテレビを見せておくと,ひたすら画面を凝視してくれる.それこそ2歳ぐらいまでは「画面の中でアニメキャラが動いていれば何でもいい」という感じなので,要するにテレビを見せておけば,お母さんが家事をする際に楽だったわけです.ところが今ではそれが,お母さんが赤ちゃんの手元にiPhoneを置いて,YouTubeとかを見せておくだけで,それをずうっと見ていてくれるので外出先とかでもすごく助かるんだそうです.

それこそ1歳児とかでも,iPhoneを勝手に操作して,YouTubeのお気に入りの中から「あの動画を見たい!」と再生したりできるらしいですね.まだ言葉も知らなければ,もちろんiPhoneの操作方法なんて理解していないはずなのに「ここを触れば動画が見られる」というのは,触っているうちに学習できてしまう.「お気に入り」という概念は理解できなくても,「この順番で押していけば,面白い動画がまた見られる」というのは自然と理解できる.これってかなり凄いことで,まさに主体性が成立する前から,まさしく「動物的」にiPhoneで情報にアクセスしているわけですよね.「デジタル・ネイティヴ」みたいな言い方がありますが,まさに「タッチスクリーン・インターフェイス・ネイティヴ」が,今後は現われてくるんだと思うんです.これは将来的に相当大きな変化をもたらすことになるんじゃないでしょうか.

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「情報空間における新しい人称」としての「四人称」

さて,また別の方向に話を広げてみたいと思うのですが,櫻井圭記さんという若い脚本家の方をご存じですか? Production I.Gの一員でもあり,有名な作品としては『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』のアニメシリーズなどを手掛けられている方ですが,その櫻井さんが修論をベースにした『フィロソフィア・ロボティカ』(毎日コミュニケーションズ,2007年)という単行本を出されていて,その本の最後の方に,「四人称」という言葉が出てきます.それはアイヌ民族が使っていた言語の中に認められるものだそうで,具体的には「一人称複数(私たち)」と「三人称(彼ら)」を足したような言葉なのだそうです.イメージとしては「大自然を含めての私たち」みたいな感じですね.

そして櫻井さんは,情報空間が発達した現代社会においては,この「四人称」の存在がすごく重要なものとして立ち上がってくるんだと指摘しているんですね.ネット空間はそれこそ広大で,基本的には匿名的だし,すごく真っ平らでみんなが注目すべきランドマークもない.誰もが放ったらかしにされるような広大なフロンティア(開拓地)みたいな場所です.そういうネット空間においては,人々はそれぞれの認知(眼差し)を束ねる帰属先として,第三者的な人称を求めるようになる.それがまさに(アイヌ民族の言う)「四人称」なのではないか……というのが,櫻井さんの考えなんです.

櫻井さんはこの考察を,社会学者・大澤真幸さんの「第三者の審級」論をもとに展開されていて,非常に説得力があるのですが,この本が刊行された当時は,その「四人称」というのがいったい具体的な何に相当するのか,僕もあまりピンと来なかったんですね.同書では,YouTubeやWiiなどが例に挙がっていて,「なぜ動画投稿サイトが「You」だったり,ゲーム機が「Wii(=We)」といった人称を冠しているのか?」というところから,その「四人称」の話に結びつけられていたのですが,実は今なら,もっといい例がある.それが「初音ミク」や「やる夫」なんです.

今から2年ほど前,講談社で実施されていた「ゼロアカ道場」という企画の最終通過者,村上裕一さんは,「なぜネット上では,「やる夫」や「初音ミク」といったキャラクターを媒介として,みんなが物語を紡いだり,音楽制作や表現行為を展開しているのか」ということを,この櫻井さんの「四人称」の概念を使いながら分析されていました.2ちゃんねるやニコニコ動画は匿名的なサーヴィスで,別に(コテハンを)名乗る必要はない.しかしそれでも,いや,だからこそ,匿名的な「みんな(一人称複数)」の創造性を束ねる,「第三者的な身体」が求められる.こうした「一人称複数」と「三人称」を合成した特殊なネット上の身体,それが「初音ミク」や「やる夫」なのだ,と.

実際,初音ミクというのはまさに「四人称」的なところがある.一見,それは画面の向こう側にいる「三人称」として存在しているわけですが,その創造行為は基本的には全部,モニタのこちら側にいるユーザが支えているというか,ユーザの誰かが歌わせたり踊らせたりしているわけです.本来であれば,ひとりひとりのユーザが「オレがこの作品を作った!」と堂々と宣言すればいいわけですが,初音ミクの世界はそうなっていない.「あくまでも自分はP(ピー:プロデューサーの略号)でして,ミクが頑張っている」という構図にすることで,生身のクリエーターは一歩後ろに引いておき,初音ミクに創造性を帰属させようとする.これはすごく面白い現象だと思うんです.

いずれにせよ,今日本のネット空間において,こうした「四人称」という人称格が前面に出てきているのだとすれば,これもまた「ネットが多重人格化を促す」というのとは別の議論が立てられるわけですよね.ネットは果たして「多重人格化」を促すのか,それとも「単一人格化(ユビキタス・ミー)」を強めるのか,はたまた「四人称」の擡頭をもたらすのか…….「ネットと人格」というテーマは,実はこのようにさまざまなヴェクトルに拡散していて,それぞれにそれなりの説得力がある.今日はちょっと準備不足なので,ほとんどまとまった考察はできませんけど,この辺りの議論を今後どうやって整理していくのかというのも,重要な課題になるんじゃないかと思います.

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「情報空間における新しい人称」としての「一・五人称」

「ネットと人格」ということで言えば,また別の観点から面白いことを指摘されている方がいました.恋愛シミュレーション・ゲーム『ラブプラス』シリーズを手がけられている,コナミのプロデューサーの内田明理さんが,博報堂が出している『広告』という雑誌のインタヴューの中で,次のようにおっしゃっています.内田さん曰く,「『ラブプラス+』というのは“一・五人称”のコミュニケーションである」と.『ラブプラス』というのは仮想の彼女とデートするゲームですが,そこでの「彼女」というのは要するに「完全な他者(二人称)ではない」.今風に言えば「ボット」のようなものです.でも,そこには「一応コミュニケーションしている,かなぁ?」ぐらいの感じはあって,ゲーム機の電源を入れたら(ゲーム内で設定された彼女のキャラが)つねに話しかけてきてくれるくらいの関係性はある.内田さんは,むしろ今,そういう関係性こそが求められているのではないかという話をコメントされていたんです.

この「一・五人称」というのも面白い言葉でして,相手は動物でもないし,かと言って人間でもない.その中間ぐらいの,「二人称」まではいかないくらいの距離感が好まれているのだ,と.もちろん,それは『ラブプラス』に始まったことではなく,それこそ『たまごっち』ぐらいからずっと見られる傾向だと思うのですが,とはいえ,たしかにこれだけネットが普及して,さまざまなソーシャルグラフ上のコミュニケーションをしなくてはいけない状況の中で,「“一・五人称”の方がコミュニケーションが楽」というか,あるいは「その方がよりコミュニケーションらしい」と感じてしまうというのは,分からなくもないわけです.

実際,内田さんが言うには,『ラブプラス』に登場する女の子のキャラクターはわざとちょっと古くさい「女の子像」を描いているんだそうです.なぜかというと,現実の女性をそのまま模倣しても“可愛らしい”という典型的なイメージを男性ユーザが抱けない.だから,あえて古臭い,ベタベタな「女の子像」にしているんだと.で,そういうゲーム内の女の子とデートしているうちに「やっぱり女性には,こういうふうに気を遣わなくてはいけないんだな」と逆に学習して,「『ラブプラス』のおかげで今の彼女と仲良くなりました!」という感想まで寄せられるというんです(笑).

ちなみに,内田さんの「一・五人称」の話題が紹介されていた記事の中では,「パロ」という医療介護用ロボットについても取りあげられていました.この「パロ」というのは,いわばAIBOみたいな動物型ロボットで,見た目はアザラシの形をしていて,話しかけると簡単なリアクションが返ってくるようにできている.最近とても注目されているようで,アメリカでは医療機器認定も受けたらしいです.これはどういうものかというと,病気で孤独な状態になっている人に,まさに「一・五人称」的なコミュニケーションを提供してくれる玩具なんですね.たとえば「動物との会話」が,孤独な療養患者や老人のセラピーに有効だということはよく知られていたのですが,さすがに老人ホームや病院で生身の動物をたくさん飼うのは衛生的に現実的ではない.だけどロボットならば安心,ということです.これも日本人じゃないと,なかなか出てこない発想だと思うんですよね.

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Twitterを巡る,擬似的コミュニケーションのケース

今の「“一・五人称”的なコミュニケーション」の延長線で,以前,iPhoneユーザの女子大生のひとりを調査していた時の話を思い出しました.ちょうど彼女は「この一週間ぐらいでTwitterを始め,ハマり始めたところです」ということで,どういうふうにハマっているのかをあれこれ聞いてみたら,2つほど面白いポイントがあったんです.

まずひとつには,彼女はとある男性アイドル・グループのファンなんだそうで,「そのメンバーがTwitterを始めたから,私も始めました」というわけです.当然,その男性アイドルのメンバーをフォローするわけですね.そこで彼女がどういう楽しみ方をしているかというと,たとえば男性アイドルが「これからロケに行ってきまーす」と書き込むと,彼女はリプライで「行ってらっしゃ〜い!」と返す.そうすると,彼女が使っている「TwitBird」という有名なiPhoneアプリの画面上では,まるでお互いがメールで会話をしているかのように,彼のツイートの真下に彼女のリプライが表示される.彼女からすると,それは「まるで彼とカレシ/カノジョの関係で会話をしているみたいに見えるから,イイ!」というのです(笑).

でも当然,そこでは一切会話は成立していないんですよ.彼女が勝手に一方通行的に話しかけているだけです.でもまさに「Twitbird」というiPhoneアプリのアーキテクチャというか,表面上の視覚的なインターフェイスによって,そこでの一方通行的なコミュニケーションが,あたかも「会話しているみたい」に錯覚される,と.これは従来の芸能人ブログのコメント欄などでは味わえない感覚なわけですよね.ところがTwitBirdを使うと「私と彼だけの関係みたいに見える!」って力説されて,凄いなぁ,って(笑).つまり,ここで彼女にとってTwitterは,もはやコミュニケーションのサーヴィスですらない.擬似的にコミュニケーションが成立している“ふう”になればそれでいいというわけなんです.

あともうひとつ,彼女の例で興味深かったのが「この一週間でハマったのが,ボットだ」という話なんです.彼女のフォロー先の一覧を見せてもらったら,本当にボットばかりでした(笑).で「この北野武ボットが,なかなかイイことをつぶやくんですよ」とか,「孫正義ボット」はフォローしているのに,孫正義さんご本人のTwitterはフォローしていなかったり.「何でフォローしてないの?」って聞いたら「え? 孫さんってTwitterやってるんですか?」って…….それも知らずにボットだけフォローしてるなんて,ある意味凄いですよね(笑).

でも,彼女がこういうボットばかりをフォローするのも,ある意味分かるというか,合理的だと思うんです.彼女にとって,自分がすごく愛している男性アイドル以外の芸能人や有名人は,結局のところ面白いことを言うかどうかが全てであって,別にその人の日常生活には取り立てて関心がないという割り切りがある.だったら,「名言」とかだけ集約してくれた方が,面白いわけですよ,そりゃ.ここからも,彼女がある種の擬似コミュニケーションとしてTwitterを楽しんでいることが浮かび上がってくるわけです.

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人気のTwitterユーザに共通する性格

さきほどの女子大生の例とはまた別ですが,「ここ一年間ぐらい,ずっとTwitterでフォローしていた相手が,実はボットだった」という記事が,以前ネット上で話題になったことがあります.確かそこでも「人間なのかな,と思っていたけれど,正体はボットだった.でもボットと分かった後でも,オレとあいつは友達だと思っている」という主旨の結論になっていて,こうした「擬似的コミュニケーション」というか,「コミュニケーションならざるコミュニケーション」が随所で起きているのも面白い現象だと思います.

そもそも,これはよく言われることですけど,Twitter界隈で有名になる人って,自分自身のことをある種のボットのように演出できる人なんだと思うんですよね.つまり自分のキャラを確立させ,それがブレずに常につぶやける人.そういう人であるからこそ,ネット空間内でも「こいつ,面白いなぁ」と認知される,という道筋がある気がします.つまり,そもそもキャラ立ちしている人というのはボットみたいなものなんですよ.そういう逆説的な事態を,Twitterは明らかにしている.

ちなみに東浩紀さんがTwitterにハマった理由として,以前こんな話をされていました.旧来の掲示板やブログは「この場所でこういう書き込みがこれだけ続いて,こういうメンバーがそれを見ている」というコンテクストが発生しているから,そこでの空気を読んで発言する必要があった.ところがTwitterの場合,自分のことをフォローしている人がいて,ただパッとつぶやくだけだ,と.つまり,特定の場所に向かってつぶやくわけではないわけです.そうすると,自分のつぶやきのコンテクスト,つまりフォロワー達の画面にどういう順番だったりどういう状況で表示されるかは,一意に決まらないし,確定できないわけです.ただ,ハッシュタグやリストとかはそれとは別で,実は掲示板的な性質を帯びてしまうわけですが,でも基本的には,みんなバラバラのタイムライン上でツイートを読んでいる.よってTwitterではコンテクストは原理的には確定しえず,ゆえにTwitterは気楽である,と.

東さんの場合は,Twitterでアニメの話題も政治の話題もどんどんつぶやくわけですよね.いちいちTwitter上で,「これはアニメの話題だからこの人達に向けてだけつぶやこう」といった使い分けはしないし,Twitterのアーキテクチャ上,できないわけです.要は「読者共同体」みたいなものを意識しなくてよくなるから,気楽に書けるんだと.だからオタクとしての東さんも思想家としての東さんも作家としての東さんも,全部オープンにすることになる,それによって,読者がバラバラに分断している「島宇宙化」の状態を気にしなくてもいいから,それが結果的に,これまで接点のなかった共同体同士を横断的につなげていく,ということが起こる.これは先ほどの言葉を使えば,「単一人格化」されるTwitterの効果を,非常にうまく発揮されているパターンだと言えると思います.その点については津田大介さんも似たようなことをおっしゃっていて,「Twitterというのは,ひとりの人間の矛盾したところや色々な側面を,一個のアカウントに集約しちゃうからこそ,いいのである」と.

これは実は,Facebookの創設者,マーク・ザッカーバーグの理念にも近いところがあって,最近出たドキュメント本(デビッド・カークパトリック著『フェイスブック 若き天才の野望』日経BP社,2011年)によると,それは個人というものを洗いざらいネット上にさらして,可視化させることなんだというんですね.ビル・ゲイツたちが「コンピュータをパーソナルなものにする」という理念を持っていたとすれば,ザッカーバーグのそれは「パーソナルなものをオープンにする」とでもいうか.そこではもはや,個人のプライヴァシーというか,「自分には◯◯という側面もあって,××という側面もある」といったような“顔の使い分け”をせずに,完全に一個人としてさらしてしまおうよ,というわけです.それは言い換えれば,近代的な個人,首尾一貫した自己というある種の近代社会以降の人間学的フィクションを,アーキテクチャによって徹底させる思想と言えるかもしれません.少なくとも日本では,こうした過剰なまでの個人主義というのはなじまないとよく言われますし,僕もそうかなと思うんですが,とはいえ日本でも,スター性が強いカリスマ的な人たちの間では,こうした「強い主体」というか,「ネット上での単一人格化」が進んでいく動きが見られるわけです.こうした動きが今後どこまで人々の間で浸透していくのかというのも,興味深い論点だと思います.

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ボットを設計することで,Twitterと「わたし」を再考する

先ほどの「Twitter上の有名人は,自分自身をボット化できる能力の持ち主である」という話に立ち戻りますと,それって要するに,ある特定のパターンでつぶやけたり,コミュニケートする能力があるということですよね.つまり,ある程度自分をキャラ立ちさせることがうまい人というのは,「自分自身をボット化するのがうまい人」でもある.ある意味,お笑い芸人の「キャラ」に近いものといえる.そこには,ユーザの間で安定して予期されるつぶやきのパターンが共有されるからこそ,そこに愛着が湧いたり,「ツッコミ」を入れやすくなるという構図があるわけです.

当初ICC側で「Twitterの中のわたし」というテーマを掲げられたとき,この研究会の方向性として想定されていたのは,おそらく「Twitterユーザの無意識を顕在化する」仕掛けを作ろう,的なものだったのではないかと思うんです.でも,そもそもTwitterをうまく使えている人というのは,「無意識を消している」と言うべきなのか,あるいは「自分を(無意識的に)ボット化できている」と言えばいいのか……そのあたりは自分もまだ考えが詰まっていませんが,そういう傾向があることは間違いない気がします.

そもそもボットって,Twitterのはるか以前から,IM(インスタント・メッセンジャー)IRC(インターネット・リレー・チャット)の頃から……いや,もっと源流を辿れば,それこそELIZA(イライザ)の頃からあったわけで,新しいコミュニケーション・サーヴィスが始まると必ずや,人はボットを作ろうとするという謎の現象が起きるのも,いったい何なのでしょうね.ボットと人格の違いとは何か.はたまたそれは,実は「キャラが確定している=パターンが共有されている」という点で,本質的には同じなのか…….こうした問いというのは,古くて新しい問題というか,そこには何か手掛かりがあるような気がしています.

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Twitterそのものの“アーキテクチャ”を変えてみる

Twitter投稿用のウェブ・アプリを新たに開発して,結果を分析するというアプローチがある一方で,Twitterそのものの構造や仕様,いわば“アーキテクチャ”の部分をいじってみるのも面白そうですね.これもよく言われることですが,ブログの記入欄のフォーム・サイズを変更するだけで,発言内容まで大きく変わってくるという話があるくらいです.つまり,フォーム・サイズひとつ変えるだけで,がらりと行動パターンや発言パターンが変化するということはありうるわけです.

たとえば@(アットマーク)の見せ方とか,DM(ダイレクト・メッセージ)やリプライの見せ方をいじるだけで,もとのTwitterと全く同じ情報量しか表示されていないのに,その情報の見せ方や表示のタイミングが違うだけで,普段と印象が全く違ってしまう.ユーザの側でそれが自覚できるようなサーヴィスが提供できれば,それだけでもけっこう批評的な試みになるのかもしれません.まさに「Twitterのアーキテクチャ=インターフェイスが,あなたなりの人格を形作っている」という議論が,そこから開けてくる可能性だってあるでしょう.つい最近,Twitterの公式インターフェイスが新しいヴァージョンに変わったのですが「新しい表示だと,なんだか自分の発言じゃないような気がする」という人もけっこういるみたいで,それも先ほどの話と関係がありそうです.

でも,どんな感じのインターフェイスを作ればいいんでしょうね.考えるにTwitterというのは,リアルタイム・ウェブと言われるように,非常に脊髄反射的というか,レスポンスの早い世界なわけですよね.たしかに2ちゃんねるの書き込みやニコニコ動画のコメント,Twitterのつぶやきなどは,もう何も考えずに,とにかく思いついた言葉を即座に書き込むわけです.僕も以前,「ニコニコ動画のコメントは,いわば声みたいな文字なので,今までの普通の文字とは全然別物なのだ」といった趣旨の原稿を『インターコミュニケーション』誌に書いたことがあります.そこにはもはや,無意識の逡巡すら認められない.

だとするならば,その逆に,あえて書き手に脊髄反射ではなくて「熟考」や「逡巡」をさせるようにアーキテクチャを書き換えるというアプローチがありうるかもしれません.思いつく限りで言えば,そもそもの「140文字まで」という制約を無理矢理解体して,長文しか投稿できなくするとか,投稿してもすぐには表示されずに一日ぐらい寝かされて,その間は自分のマシンのモニタ上に投稿内容が表示され続けるので,嫌が応でも推敲せざるを得ない……とか(笑).いわば,「脊髄反射的なリアルタイム・ウェブを,過剰にモダニズム化させる」というか,「近代的自己」向けのアーキテクチャに改変させる,みたいな感じでしょうか.そうした実験も,この機会にやってみる価値はあるのではないでしょうか.

[インタヴュー収録日:2011年1月7日]

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つくるという行為,生成されるもの

ドミニク・チェン

Dominique CHEN

付記:当談話は東北関東大震災の発生した3.11よりも2ヶ月ほど前に行なわれました.この項が公開される現在,私も東京で震災を経験していますが,TwitterはFacebookやニコニコ動画,Ustreamと並んで非常時の貴重な情報源,公の情報の検証の場所,そして創造的なコミュニケーションの場として驚くべき性能を発揮していると感じています.震災前と震災後で私の考えも色々と変わりつつありますが,平時と非常時の思考の違いが浮かび上がるのも価値があることだと思うので,あえて談話当時の考えをお伝えします.[ドミニク・チェン]

TwitterにTypeTraceを埋め込んでみたら

「TwitterにTypeTraceのシステムを埋め込んでみたら,面白い発見があるのでは?」という発想から,TypeTraceの開発者のひとりである僕にお声掛けいただいたようですので,まずは最初に,その可能性について,思ったことをざっくばらんに語らせていただきます.

この前,NHKの番組に作家の町田康さんが出演していました.彼の文体ってすごく独特なテンポなんだけれど,どうやってあの文章になるのか,前からずっと気になっていたんです.で,これはけっこう有名な話のようですが,町田さんはすごく早起きだそうで,夜の10時には寝て,朝の4—5時には起きて,一日2—3時間ずつ毎日コツコツと書き進めているらしい.でも文章は躍動感に溢れていて,そういう地道さを感じさせない.そのように躍動感溢れる文章の裏側に,地道に執筆している過程があることを知るのは,一読者としても非常に有意義だと思うわけです.そういうふうに文学が書かれ得ることを知ることができるのも,ひとつの文学体験だと思うから.だからTwitterにしても,ずっと草生やしてる(ネット上のスラングで,掲示板やチャットなどの書き込みに"(笑)"の省略形である"w"の文字を"wwwww"のように連発させること)ような奴が,実はその"w"の数をひたすら調整していて,めちゃくちゃ推敲していたとしたら,面白いよね(笑)とか.まぁ,実際にはそんな奴はいないと思うけれど.

僕の考えでは,ただ,やはりTwitterはリアルタイム性を強調しているし,その部分をオプティマイズしているサーヴィスだから,「このスピードだから言える」という,ある種「2ちゃんねる」的なヴァリューがあるんだと思います.そこで「どういうふうに(テキストを)書いているのか」というのは,たぶん長期的には,サーヴィスを提供する側が見たいのかな,という気もしますね.たとえばマーケティング・ツールとしても,すごく使えると思う.

ウェブ・アンケートとかも,今はマクロミル(http://monitor.macromill.com/)のようなネットリサーチに特化した会社があったりして,バイト感覚でできる(報酬つきの)アンケートがウェブ上に無数あって,その調査結果を元にしたプレスリリースなどがITmediaとかに出るわけですよね.だけどあのウェブ・アンケートって,みんなどんな顔をして入力しているのか,分からないじゃないですか.しかも,本当のことを書いているのかどうかも,分からない.TypeTraceを埋め込むことで,そういう「隠れた本音を吸い取る」みたいなことも可能になるかもしれません.

でも,TypeTraceによって「ツイートのタイムラインを見る」ことが可能になったとして,全てのツイートをTypeTraceで再生できるようになると,それを読み解く行為自体が重たくなってしまうでしょう.時々しか見たいと思わせないような機能だったら大丈夫でしょうが,いつも見られちゃうシステムだと,それこそユーザの「ツイート疲れ」みたいなことを加速させてしまうかもしれない.

たとえば文学作品とか掌編小説だとか,そういう「作品」と向き合う時には,ちょっと背筋が伸びますよね.そのモードで接する時にはTypeTraceもアリかな,と思います.もともと背筋を伸ばしている状態だから,より深いプロセスと向き合うという意識がユーザ側に準備ができている,というか.

TypeTraceのプロトタイプを色々と模索していた中で,「俳句を作るプロセスを見てみる」ということをやってみました.それこそ「五七五」という形式は,ものすごく凝縮されているじゃないですか.それは作品として(背筋を伸ばして)受け取れられるものだから,「どういうふうに作られたんだろう」という過程を見てみたかった.だから,俳句の研究をされている方の意見を参考にさせていただきました.

俳句をしたためる方法としてよくあるのが,散歩に出る時にメモ帳を持ってゆき,風景を色々な言葉に写していく,というやり方だそうです.カメラで写真を撮るのと同じように,気になったものを言葉としてメモ帳に書き留めていく.たとえば夕焼けの空の色とか,目に入った植物の形とか,子供の歓声とか「テニスの音がする」とか......そうやって情景描写の素材をどんどん並べていく.
 この(TypeTraceの)プロトタイプも,そうやって俳句の素材となる言葉を入力していって,その中からマッチする言葉を組み合わせ,俳句にしていくのだけれど,「五七五」の部分を解析すると,作る過程でどういうふうに変わっていったのかが見えてきます.試しに言葉を打ってみて,「違うな」と思って,新しいメモを追加したり......というプロセスが記録されます.なので,俳句を書く人同士がそのプロセスを互いに見て,どう思うのかを調べてみよう,みたいな話を当時していました.これは「五七五」という超ミニマルな「作品制作」にTypeTraceを適応させてみた例ですね.

ドミニク・チェン

1981年東京生まれ.カリフォルニア大学ロサンゼルス校卒業,東京大学大学院学際情報学府修士課程修了.2004年より日本におけるクリエイティブ・コモンズの立ち上げ活動に携わり,2007年7月よりNPO法人クリエイティブ・コモンズ・ジャパン理事.NTTインターコミュニケーション・センター [ICC]研究員,日本学術振興会特別研究員[東京大学大学院]を経て,2008年4月に株式会社ディヴィデュアルを共同設立.2008年9月よりウェブ・コミュニティ「リグレト」の企画・運営・開発に携わる.タイピング記録ソフトウェア「TypeTrace」のウェブへの発展形の提案で2008年度未踏IT人材発掘・育成事業スーパークリエータ認定(2009.05).2007年と2008年のアルス・エレクトロニカ デジタル・コミュニティ部門のInternational Advisory Boardを務めた.著書に『いきるためのメディア—知覚・環境・社会の改編に向けて』(共著,春秋社),『Coded Cultures: New Creative Practices out of Diversity』(共著,SpringerWienNewYork).

過去に参加した展示・イヴェント

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ファスト・フード的なコミュニケーションがもたらす「現在疲れ」?

次に,現状の「Twitterの使われ方」に対する僕自身の懸念というか,心配事をお話ししておきましょう.「Tweet(ツイート)」という,より無意識に近い言葉に「つぶやき」という日本語を当てたのはすごく秀逸な翻訳だと思います.そういう「つぶやき」が,既存のジャーナリズムやマスメディアに影響を与えたり,社会的にも新しい局面を形成していることには100%同意したうえで今,欧米のマーケッターやSEO業者などが共通解として言っているのは「Twitterをニュースフィードとして使おう」ということです.つまり,影響力を持っている人がいて,その人物やその周りにいるコミュニティのフィードを自分のタイムラインに流すことによって,いち早く情報を探知できるツールとして使っていければいいよね,みたいな話です.

でも,それが本当にTwitterの最適な使われ方なのか,個人的にはまだ分からないところがあります.Twitterって「今」というところに集中させるメディアですよね.もちろん,過去を掘り起こすこともできるけれど,ほぼ全ての行為が「今現在」に向けて発信されている.ファスト・フード的なコミュニケーションというと語弊があるかもしれないけど,コンテンツもどんどん集まってくる.そういうところが,それこそ「mixi疲れ」じゃないけれど,「現在疲れ」みたいな状態を引き起こしやすいんじゃないかと思います.かたやTypeTraceはその反対で,「今」というよりは,何かが作られようとしているプロセスに目を向けていて,ある程度時間がかかる行為を対象にしているわけです.

最近では子供同士の社会でも「3分以内にメールの返信をしないといじめられる」というようなことも含め,「現在疲れ」みたいなことが既に起こっている気がします.それもあって,恐らく「全てのコミュニケーションがTwitter的なメディアに集約されていく」というのは,将来的にもないような気がします.
 さらにそこで僕が「ちょっとイヤだな」と思うのが,結局,既存のメディアと構造がそんなに変わらないんじゃないか,というところです.ハブとなるような影響力を持つ有名人がいて,その周りにはフォロワーが,それこそ女王蜂に群がる蜂のように集まってきている.重要なコミュニケーションのほとんどは,この少数の人たちが占めているような気がします.

もちろん,Twitterによって「それまで声を持たなかった人たちが声を持つことができた」ということは革新的だとは思います.たとえばアメリカでは,ブログは一種の政治的表明を発表する場,一種の政治参加の場として使われてきた実績があるけれど,Twitterもそれを継承したマイクロ版ブログとして機能している側面があります.政治利用,商業利用,個人の主義主張の......つまり社会的合意を皆で作っていく民主主義的なツールである,という意識が元にはあったような気がします.だけど日本では,ブログもTwitterも,既存のメディアの重力圏にすっぽり覆われちゃっている部分が強い気がするんです.

僕自身は,もう「Twitter疲れ」しちゃって,自分でも書かないし,他の人のツイートを読むのも疲れます.でも「読むのも疲れる」ってどういうことなんだろう,と.同じようなことが,RSSフィーダーを使っていた時にもありました.ある瞬間,登録しているフィードが多過ぎて「こんなに追えない!」って言って,全然見なくなった.でも,最近フィードを整理したら,また見るようになりましたが.

個人ブログって「何らかの意見が表明されている」とか「何らかの情報がある」というのが,ある程度フィルタリングされているから,ある程度良質なコンテンツを落ち着いて拾えるというのが,今さらながら再確認できたのですが,これがTwitterだと,誰かがひたすら心情を吐露しているだけだったり,その人とのソーシャル・グラフの微妙な距離によってはフィルタしたい内容も多い.

あと,これはTypeTraceでやろうとしていたことでもあるのですが,時間が経過する中で「インプットとアウトプットの整合性」が取れればいいな,と思っています.だって自分の興味は常に変わってゆく.たとえば僕がある瞬間,Aさんをフォローしたとする.その時の僕はAさんにとても興味があった.でも,Aさんも僕も人間だから,変わってゆく.一週間後のAさんはまるで別人のようになって,芸能人の話しかつぶやかなくなるかもしれない.その時に僕が「違うな」と思っても,一旦フォローしているがゆえに,タイムラインに(彼のつぶやきが)入ってきてしまう.そこを人為的に管理しないといけないというのは,将来的には改善できる部分かと思います.問題は「自分自身の移り変わってゆく興味関心がどこにあるのか」というところで,そこがトラックできればいい.それに応じて,僕がフォローすべき人がその時々に自動フォローされたりとか,そういうことが実現すればいいな,と思います.実際にそういうシステムを考えている学生が,慶應大学にいました.

だけどそれって,ソーシャル・ネットワーク全般に言えることです.Facebookは承認モデルですよね.僕があなたに「友だち承認をお願いします」って言って承認される.そこが一種のセキュリティ・フィルターになっているわけですが,その時は仲がよかったから承認したけれど,極端な話その後急に2人の仲が悪くなったとします.でも,何もしなければ残るし,削除するとさらに険悪になる(笑).

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次に待望されるのは,ソーシャル・グラフのレイヤー化?

だから,ソーシャル・グラフもレイヤー化できればいいと思う.たとえば,今いっしょにプロジェクトをやっている人やそれと関係している人とかが,ある程度アグリゲート(凝集)されたりリコメンドされたり,というような.Amazonの「おすすめ商品」のメタファーが一番分かりやすいと思うのですが「この本を買った人はこの本も買っています」というような,協調フィルタリングですね.「今あなたがやっていることは,こんな人もやっています」みたいなシステムを作るのは,ツイートの解析次第では可能ではないかと思います.

もともとアウトプットを見て「人の意識の移り変わり」の部分をTypeTraceで理解しようとしていたので,そういうことがTwitterにも反映されると,すごくリアルなんじゃないでしょうか.今後,ウェブはそういう方向に行かないといけないと思うし,検索エンジンもそうですよね.あれも一種の重力圏を作ってしまうと言うか,「いかに新陳代謝をよくするか」はGoogleとかが抱えている重要課題だと思います.かたや,TypeTraceで僕らがやりたかったことは,自分が書いている内容をトレースするのはもちろんのこと,「読む」という行為自体をどうトレースするか,ということなのです.

たとえばある特定の部分にアノテーションするということは,だいたい時間軸上のどの文章のブロックに対して僕がコメントを書いているのかが分かるわけです.「コメントを書く」ということを「読む」ということの近似として見るという形なのですが,そういうことをやっていくと,書き手と読み手の相同が,いわゆる承認形式じゃない形でできてくるのではないかと思います.

たとえば,僕がある文章を書いてウェブ上に投稿してから3年ぐらい経って,そのトピックに関心を持った人が読んでくれて「話が聞きたい」というメールをくれたとする.それって根源的に嬉しい話ですよね.ただ,それは検索したり,模索しないといけないし,人為によっている部分が大きい.僕が放ったコミュニケーションの種が誰かにくっついて,その人からまたこちらに投げかけられる......それが非同期で起こるということは研究者なら頻繁にあるでしょう.研究論文の最後には参照文献が載っているから,参照元をすぐに辿れる.でも,もっと他愛のない形式の「こんなことがあったらいいなぁ」という空想や表現,コンテンツ同士が,ある程度自律的にくっつき合うというのは,ぜひ見てみたいですね.

その一方,「有名人がいて,みんながそれをフォローしている」今どきのTwitterの図っていうのは,結局は既存のメディアの構造を継承しているだけです.それを僕は「重力」と呼んでいるのですが,そういう重力場が発生して,そこからまだ抜け出せないでいる状態のような気がします.その大きな理由は人間の注意と時間が有限であることが主だと思いますが,コンテンツ同士が互いを発見し合う,みたいなことが実現すると,また面白くなるのではないでしょうか.たとえば僕が書いていたことを(僕の気づかないところで)見知らぬ誰かが書いていたりする.今はまだ,それは検索してみないと分からないことだけれど,そのコンテンツ同士がお互いに相同し合って,リンクするようになる.そういう遇有性の部分をアルゴリズミックに支援してあげられたら,面白くなるでしょうね.

2008年の秋,『SITE ZERO/ZERO SITE』という人文・社会科学雑誌の2号目で「情報生態論──いきるためのメディア」という特集をやったのですが,その中で中嶋謙互さんというMMORPG(Massively Multiplayer Online Role-Playing Game:「多人数同時参加型オンラインRPG」)を作っていた方がいて,彼にTypeTraceを見せたら面白がってくれて,さらに「WorldTrace」という概念を出してきました.MMOとか,メタバースの中の行動というのは全てログに残る.でも,それをどう活用するかはまた別問題だったりする.たとえばTypeTrace的な発想でユーザの入力記録を取ってゆくことで,犯罪防止に役立てられるかもしれない.つまり「こういう挙動の奴は犯罪を起こす率が高い」みたいな感じでサーヴィスのユーザを追跡できる.とはいえ,実際の社会でそれを実施すると相当ヤバいので(苦笑),あくまで思考実験のひとつですが,そのような「権力を増長させかねないシステム」でも,使い方によっては,個々のユーザや情報同士の繋がりを推進させるように転換できるのではと思います.

TwitterやFacebookの台頭で注目されるようになったソーシャル・グラフって,結局は現実社会に既にあるものをマッピングしているように思えて,何と言うか,全く「新しいもの」は作っていない気がします.「既にあるもの」を可視化してはくれるけれど,現状では,まだまだ人間の自然とは遠いものだと思う.先ほどの(Facebookやmixiの)友人登録の件のように,移ろいゆく「人間同士の繋がり」や「ミームの繋がり」を,もっと反映させることができれば,より新しい価値が生まれると思います.

たとえば,今僕があるソーシャル・アプリのゲームにハマっているのですが,現実世界ではほとんど会う機会がないのに,そのゲーム内ではほぼ毎日会っている人がいて,お互いに協力してプレイしている.それも,ヴァーチュアルな社会関係が,そのゲームという部分に実装されているわけです.そんな形の人との関係って,これまで存在しなかったし,そういう新しい人間同士の繋がり方がもつ可能性もある.いわゆる「SNS的な人の繋がり方」というのは,ある程度定着してきた.今後どのような新しい価値の繋がり方が生まれていくかということに興味があります.

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ユーザ自身がアーキテクチャを(能動的に)作り替える

先の『SITE ZERO/ZERO SITE』No.2「情報生態論──いきるためのメディア」の中で,「批評家は作り手でなければならない」とか「能動的に作らなければ批評もできない」といったメッセージを僕が強調していたことにもご関心を持たれていたそうなので,次にそこの話を補足しておきます.たとえば今の日本に100万人のTwitterユーザがいたとすると,それこそ100万人分のTwitterの受け止め方があると言っても過言ではないと思うのです.

たとえばペンと紙がある......僕も色々と持っていますが,無印良品の「4コマメモ(4コマ・マンガの枠線だけが印刷されたメモ帳)」に書けることと,普通のメモ帳と,いわゆるチェックリストとで,それぞれ書ける内容が違ってきますよね.これはアーキテクチャというものを一番身近なところで説明できる喩え話だと思います.「4コマメモ」だと自然にパワポやKeynoteのスライドみたいな感覚で書いていくとか,普通のメモ帳だと印刷されている線からなるべくはみ出さないようにするとか.だけど,紙のノートブックを自分流にカスタマイズしたくても,印刷代もかかるから,そうそう作れない.でもウェブだったら,サーバ1台借りればいいだけだから,「キーボードで入力する画面」なんていくらでも改造できる.入力欄が通常2段になっているのを,たとえば10段に増やすとか,A3サイズのぶち抜き版みたいな入力欄を作って世に出したとしたら,それこそが「批評」なのではないか,と思うわけです.

どうして僕が「作ること」と「批評」を接近させて考えているかというと,インターネットが本来的に備えている「作り替えやすさ」という価値が着実に浸透してきているからです.特にWeb2.0以降,CGMって騒がれているけれど,APIを公開するという業界の慣習がある.もちろんそれは正確にはただの慣習じゃなくて,サーヴィス同士の覇権争いのひとつの結果ですが,そのおかげでエンドユーザにも能動性が与えられてきた.たとえばYouTubeから動画を取ってきて,Flickrから写真を取ってきて,自分のWebページを作るというようなことは,今なら誰でもできますよね.そうしたことが「ユーザがコンテンツを投稿している」行為の先にあるのだと思うわけです.それこそ義務教育レヴェルで「Twitter改変講座」とかやってもいいくらいです.クリエイティブ・コモンズ・ライセンスを使った,著作権的に流用可能なコンテンツを他の人のところから引っぱってきて,それをリミックスして公開するという行為と,ウェブ・サーヴィスを自分なりに作り替えるという行為は,イコールではないにしても地続きだと思います.

確かに「音楽の楽曲数と同じくらいサーヴィスの数を増やしてどうするんだ?」というツッコミもあるとは思うのですが,それこそ「自分専用のメモ帳やペン」みたいに,情報と接する道具を自由に作り替える職人になれる環境は整っている.あとはその必要があるかどうか,というところなのでしょう.

でも今は「口で言うよりも作った方が早い」ということもある.今までは「口で言ったものを専門家が作った方が早い」というのが支配的だったけれど,今では作るコストもどんどん下がっているので,小学生でも中学生でも,作れる子は作っちゃった方が早いし,新しいものができることによって多様性が生まれることがすごく重要だと思うんですよね.

今,検索エンジンの世界はほぼ単一文化で,Googleが支配的な中,Bing(http://www.bing.com/?cc=JP)がちょっとあるかどうか,という感じですよね.SNSでもFacebookが世界の主要国のほとんどで最大手になっている.もちろん,時代の流れで一極集中した後で拡散して,また集中して......という波があるとは思うけれど,どちらにせよ,個々人がツールを作ったり改変したりするようになれば,「批評」という言葉が持つ意味も変わってくるだろうし,「批評の構造」そのものも変わってくると思います.今はウェブ・サーヴィスの話をしているので,機能とか目的ということに分解すればイメージを拡げやすいのではないでしょうか.たとえば,「最速で世界中の人々の考えをまとめる」ウェブ・サーヴィスを作ろうということに対して,既存のTwitterというサーヴィスがどこまでそれを実現できているのだろうか,と考えてみること.実現できていないとすれば,こういうふうに作ってみるといいよね,とか.新たに作ったものと既存のものを足したら,目的が達せられるかもしれない.それは「批評」というよりは,オープンソース(ソフトウェアの著作者の権利を守りつつ,ソースコードを公開することを可能にするライセンスを指し示す概念)に近い話かもしれない.外野の人が入ってきて,改良していける,ということが全般化するイメージでしょうか.自分が入っていたコミュニティの指針が気に入らなければ,いったんそこからフォークして,新しい分岐を作る.そういうことが許されている文化を「批評」というように,より人文科学的に捉えるのであれば,文学作品やアート作品の批評にも......特にメディア・アートの場合,けっこう面白いことができるのではないかと思っています.

たとえば,Aさんの作品を「批評した」とする.批評という行為には色々な機能がありますが,一番大切なのは,その対象物をある共通の歴史に組み込んでいくことだと僕は思っています.ある種のサンプルとして共通のヴォキャブラリーにしてゆき,歴史を作っていくプロセスが批評だと思います.あと,その作品を「文章で論ずる」こと自体が,言葉というメディアを使った批評であり,ひとつのリミックスだと思っています.だけど適切なリミックスの仕方って,時と場合によって違いますよね.たとえば,おいしい料理をご馳走になった時,お礼にひとつ詩を吟じるとか,それも一種のリミックスであり,批評行為だと思うわけです.つまり何らかの「ギブ・アンド・テイク」や経済が,そこに発生しないといけない.それは「有名な批評家がレヴューしたお陰で,ある無名のミュージシャンが売れっ子になった」というのとは,また全然違う話であり,それってある文化の中での,一種のクオリティ・コントロールというかセレクションをしているわけですが,そうではなくて,もっと対等なレヴェルのことです.

だから「言葉で感想を言う」っていう行為も,本来はものすごいことだと思うんです.批評の言葉によって,言葉じゃない何かを作っている人物の意識の中で何かが芽生え,それが作るものに反映されることもありうる.僕も実際にアーティストやエンジニアとの交流でそういう経験をしたことがあるし,あるいは「言葉に対してソフトウェアで返す」ということもできるでしょう.

今は「作る」という行為,イコール,いわゆる「モノ作り」だと,ひとり歩きしちゃっているけれど,言葉というものも「モノ作り」の一種だと捉えられる.そうやって世の中のCGMとかを見ると,色々な創造のプロセスが大量に走っているのだけれど,それらを「創造」として,まだ認識できていない気がします.それをさっき言ったような承認モデルではなくて,コンテンツ同士が繋がることによって,人間の側が気づいてゆくということができないのだろうか.コンピュータが得意なことはコンピュータに任せ,人間が得意なことを人間がやった方がいいので,それをうまく使いこなすことで,互いの創造性に気づいていけるようなウェブ社会になったらいいな,と思います.

僕が「能動的」と言うのは,そういう意味ですね.というか「能動的じゃないこと」って存在しないですよね.能動性のゲージがあったとして,0-100%の数値で図るとしたら,ダラーっとしながらテレビのリモコンを押している状態だって,能動性1%ぐらいと言えるかもしれない.そこにはグラデーションがある.脳神経学者によると,人間のニューロンって「発火するか/しないか」なんだそうで,つまり「グッとくるか/こないか」だけで,人間の認知構造ってできているわけです.だから「面白い/面白くない」と二分化されてしまうのも,言わば人類の宿命みたいなところがある.

全然関係ない話ですが,たとえばお笑いの世界でも,ダウンタウンの松本人志は一種の天才だと思うのですが,彼って「笑う」のも上手なんですよね.彼が笑うと,何か面白いことが起こっているような気になってしまう.つまり「承認している」わけです.言わば彼は,笑いの評論家として笑っていて,彼が笑ったら周りも引きずられて,笑ってしまう.そこにはトレンドセッターとしての松本人志がいて,彼の重力場がある.それがいい悪いは別として,僕たちの社会では「人それぞれ」という部分も,実はそういう人たちによって意見が集約されているところがある.それによって判断する手間を省いているわけです.「レコメンデーション(お勧め)に従う」というのは,自分で意思決定するコストをアウトソース(外部委託)しているんですよね.「あなたの言うことに従ってみるけれど,もしもそれがダメだったら,もうあなたの言うことは聞かないよ」という,人間の判断ってそれくらい「1か0か」というところがある.

でも,Amazonの「おすすめ商品」のような協調フィルタリングが出てきて,いわゆるロングテールのヘッドの部分だけが今までは売れていたのが,尻尾の部分に人々をちゃんと誘導しているというのは,今までの社会ではなかったことなので,素朴に面白いと思います.そこにソーシャル・グラフを使ったレコメンデーションとかが入ってきているわけだけれど,先ほど僕がグラデーションと言ったのも,そういうところですね.ロングテールの尻尾の部分の,普通だったら切り捨てられるところも有効活用される.つまり「集約化されてない人々の興味」がそこに渦巻いているのを見るのが楽しいんですよね.

「皆が好きなもの」って,たいてい面白くない部分が必ずあるのだけれど,ある種の最大公約数的な嗜好として「皆が好きなもの」という機能を果たしている.でも,僕以外だと世界で10人しか好きな人がいないものが存在していたら,それはそれですごく嬉しいことです.これを一種の肯定的な意味でのガラパゴス化として捉えていけないか.

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肯定的な「ガラパゴス化」としてのローカライズの可能性

そういう「個々人がサーヴィスをカスタマイズしてゆく」ことで多様化が進むという展望を,ある種の理想として設定できるのではないかと思います.前の打ち合わせの席で,確か「ガラパゴス化を肯定的に捉えよう」みたいな話をしたかと思いますが,そもそもこの「ガラパゴス化」という言葉はどの観点から見るかによって,肯定的にも否定的にも捉えられます.

日本の「ガラパゴス・ケータイ」で一番問題なのは,世界の標準から大きく逸脱してしまったということ.たとえばインターネットにはRFCという文化があり,「プロトコルはこうあるべきだ」という基本仕様書みたいなものがあって,お互いのコミュニケーションに支障がないように設計されている.でもNTTドコモの「iモード」ひとつ取っても,このRFCを無視している仕様がけっこうあって,開発者やエンドユーザに負担を強いている部分がある.加えて経済的に問題なのは,世界中で売れない,ということ.売るにしても相当なカスタマイズが必要になるので,コストがかかる.Androidみたいな世界標準が出てきた時に,そこでの覇権は握れなくなってしまう.

かたや,Googleが常にやろうとしているのは,上流の部分をキープすること.検索エンジンにも一種の「広告の生態系」があって,それをどうやって効果的に配信するのかというところで,彼らは独自のOS(Google Chrome OS)を作った.OSというのもiPhoneみたいなプロプライアタリー(独占的)なものではなくて,オープンソースにしてやっていくことにした.そこさえ押さえておけば,世界中のどのケータイにもGoogleの広告が配信される.これはガラパゴス化の正反対ですが,共通のプロトコルを持たないと異なる価値が相互作用できないのでとても重要ですね.

なので,ケータイのガラパゴス化は肯定できませんが,たとえば文化面で言うと,「クール・ジャパン」なんて超ガラパゴスじゃないですか(笑).「アキバ」というブランディングでメイドとかアニメとかを,日本の経済産業省が海外に売ろうとしているわけで,それって凄いことだと思いませんか? 文化の吹き溜まりとしての極東ジャパンのガラパゴス化.だから,ハードウェア・サーヴィスというのは,それ自体が目的じゃなくて,目的を果たすための手段や機能なので,たとえばiPhoneがバカ売れしたかと思いきや,それがAndroidに切り替わるとか,そういう覇権争いが起きる.もちろん経済でも単一文化はあって,独禁法でマイクロソフト社が訴えられたけど,今ではGoogleが標的になっている,みたいな話が出ています.そういう意味では,ユーザにとって複数の選択肢があった方が,競争が起きて機能の改善がされ,全体が向上するという意味でも,いいと思います.

でも,文化そのものは,ガラパゴス化していった方が,より面白いと思う.先ほどの「お笑いの話」に戻ると,たとえば関東圏の笑いと関西圏の笑いのツボが違うということはありますよね.それって,入れ子状態になっていて,究極的に突き詰めて行くと個々人までブレイクダウンしていって,そこまでガラパゴス化と言えると思うんです.さっき僕が言った「世界で10人しか愛好者がいない」というのも超ガラパゴスだけれど,そこに最大公約数との差異が生まれ,ヴァリューが生じる.つまり,いまは誰も見向きもしていないものだけど,それが集まることによって全体にフィードバックするものが必ず拾えるわけです.それって確率論ですよね.

たとえば現在の中国の人口は推定10億人だから,確率論的にも優秀な人材がその中に多数含まれているはずだし,文化的にも変なことを考える人が今後増えてくるでしょう.個々人が持っている「変なもの」が捨てられたり潰されたりするのではなくて,新しいものとしてコミュニティに受け入れられるポテンシャルを持つ,という展望です.「目利き」というのは「こんなツボもあるしあんなツボもある」というのを分かりつつ,状況に応じてどちらかを選択できる人だとすれば,色んな固有のツボが生まれつつもそれらが接続したり相互作用するためのプロトコルが必要になる.

かたや,ウェブ・サーヴィスのガラパゴス化というのを考えると,まず「ローカライゼーション」という言葉がありますね.あと「ポーティング」(porting:移植.あるシステム向けに開発されたソフトウェアを別のシステムで動作するよう修整・再構築すること)という言葉も,クリエイティブ・コモンズの文脈で使っています.つまり,アメリカのクリエイティブ・コモンズ・ライセンスはアメリカの著作権法に従って設計されていて,アメリカと日本の著作権法は,国が違うので,内容ももちろん違う.だから英語のライセンスを単に翻訳しただけでは日本では機能しないから,日本でも使えるようにライセンス自体を書き換える必要がある.この場合は,機能がはっきりしているから,移植の手続きも分かりやすいですよね.

じゃあ,たとえばTwitterを日本に持ってきた時のポーティングを考えてみると,先ほども言いましたが,「Tweet(ツイート)」という言葉を「つぶやき」と訳したのは,立派なポーティングだと思うし,あとは日本語だと140字で長文が書けてしまうことによって,津田大介さんから「tsudaる文化」が生まれたり,というのも,日本のコミュニティ内におけるひとつの固有なクリエイティヴィティが発揮された多くの例のひとつでしょう.

昨年秋,Twitterの表示レイアウト自体が変更されましたが,今後は「日本のマーケットはこのデザインが最もアクティヴ率が高い」とか,国ごとのデザインやレイアウトの違いみたいなものがより意識されてくるのではないでしょうか.ソフトウェアって機能だけじゃなくて,デザインやヴィジュアライゼーションの部分を含んだコンテンツのレヴェルでも考えないといけないので,文化圏によって「これはダメ」というのが普通に入ってくる.

たとえばメキシコだと死を意味する色が,別の国だと高貴の色を表わす,というレヴェルで違いはありますが,それこそFacebookやGoogle,Twitterが世界各地で直面している現象だと思います.ただ,それを言いだすと,たとえば「アジア的なコンピュータって何だろう」とか,そういう意味で言うハードウェアのガラパゴス化にも,一方で面白いことがあるのかもしれません.しかし機械の場合,流通コストがまだものすごく高いから,多様性の実現には一定の制限がある.でもソフトウェアの場合,サーバのデータセンターが世界中にある限り,誰でも書き換えができるから,それぞれのTwitterクライアントやGmailクライアントを作ることは可能ですよね.

今はまだ,無限の奥行きの可能性を目の前にした作り手側が「こうするのがユニヴァーサル的には,いい!」という決め方をしているんですよね.でも,それこそ国レヴェルとか都市レヴェルとか街レヴェルとかで統計が集まってくるようになると,それもまた変わってくるのかもしれない.たとえば,京都三条通りのスターバックスは他の店よりも色遣いが黒っぽいとか,マクドナルドの看板の色が渋いとか,それと同じように「関西だとTwitterが3ペインだ」という発想だって生まれてもいい.

もしかすると近い未来に,今まで自分が使ってきたサーヴィスの使用歴データから自分専用のGUIを自動的に生成してくれる新しいソフトウェアが出てくるかもしれない.それだと,様々な新興のサーヴィスが最初から自分好みにスムーズに使える,とか.現状はデヴェロッパーや企業側が,まだそこまで細かく分割してローカライズする手法を低コストで実現できないわけですが,そうしたノウハウをアウトソースする会社が出てきたら,そこを基点にした経済も生まれるのではないでしょうか.

[インタヴュー収録日:2011年1月22日]

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インタヴュー

「Twitterの中のわたし」ワークショップを終えて

徳井直生×田所淳 聞き手:ICCスタッフ

Nao TOUKUI × Jun TADOKORO

ワークショップ1日目(思考編)を振り返って

徳井:まず最初に,全体を通しての感想なのですが,ワークショップの中でTwitterのサーヴィスを積極的に使ったのがよかった.初対面の人たち同士で話をすると,なかなか喋りづらかったりするのであまり盛り上がらないかな,と思っていたのですが,実際,ワーッと声が出たような時間はそんなになかったとしても,Twitter上で議論が出たり,それがきっかけで実際の会話が始まった場面などが見られましたから.

田所:そうですね.個人差もあるでしょうが,初対面でいきなり話すのはそれなりに勇気が要る.だけどタイムライン上なら,意外と書き込みやすい.結果として,それがよかったのかも.

徳井:あとワークショップの最初にやった「他己紹介」が意外とよかった.「××××に勤めています」みたいな表向きの情報じゃなくて,個人的な趣味の話とか「食事が偏りがちだ」とか(笑).

田所:自分以外の参加者のことを能動的に「知ろう」と思うので,互いに仲良くなれた.「左利きです」とか,履歴書には書けないようなプライヴェートなこと,その人の日常に近い情報が得られるから,面白かったのでしょうね.

徳井:で,ここからが改めて初日(思考編)の反省ですが,1日目はどうしても僕の主観的意見が強くて,参加者の皆さんがどういう反応をするだろうかと心配していました.そもそもTwitterのワークショップなので,基本的にはTwitterに興味がある人,要はヘヴィユーザが集まっているのに対して,どちらかというと僕は「Twitterのよいところ」に関しても意識的に疑問を投げかけるスタンスだったので,彼らの反応が気がかりでした.
 でも,意外と共感してくれる人が多かった.アンケートでも「改めてTwitterの問題点を考えるきっかけになった」とか.ワークショップ用のハッシュタグ上に表示される参加者たちのツイートを見ていても,共感してくれてなおかつ少し違った見方をしてくれたりもした.予想以上にやりやすかったですね.あと,田所さんもタイムライン・フォロワー役をやってくれましたし.

田所:実際にやってみると,けっこう大変でした.より大量のツイートを投稿している人……たとえば津田大介さんって,凄いんだなぁって思った(笑).

徳井:そう,「tsudaる」意味なるものが,今回ようやく分かりました.

──ちなみに今回のワークショップでは,最初に相互でフォローしてもらうことで,参加者各自のタイムライン上に他の参加者のツイートが表示されるようにしたうえで,「#icc_ws」のハッシュタグでつぶやいてもらったのですが,各自が最初にそこをフォローしたことで,たとえハッシュタグがなくても各自のつぶやきが表示されました.だから,必ずしもハッシュタグに頼らずにTwitterの議論ができた点もよかったのかもしれません.逆に相互フォローなしでハッシュタグだけで各自がつぶやいていたら,ちょっと辛かったかもしれませんよね.

徳井:あと,これは副作用として,ワークショップ終了後でも,フォロー先の発言をチェックして,「あー,彼は今,こんなことをしているんだ」ということで,その人と微妙につながっている感覚が持続する.

田所:いまだにフォローしている人もフォローされている人もいますから.もちろんサブ・アカウントでやっている人は関係なくなっちゃうけれど,残っている人は残っている.それって他のワークショップにはない,今回に独特の副産物かもしれませんね.
 あと,参加者の1日目の感想の中で,「いわゆる社会学者が講師をつとめるセミナーとは違うし,かといって『Twitterをどう使ったらいいのか』というようなハウ・トゥものでもなかった」という指摘がありました.従来のTwitter関連の関心事って主にその両極だったと思うのですが,ちょうどその「中間地点」にアプローチできたのが新鮮だったのかもしれませんね.

徳井:基本的に社会学者の人って,「すでに起きたことを解析する」ことに興味があるわけで,「未来を自分の手で作る」という立場ではない.だけど僕らは,やはりモノを作る側だから,そういう「立場の違い」はあるんじゃないですかね.

徳井直生

株式会社Qosmo代表取締役.東京大学工学部卒 同工学系研究科博士課程修了.工学博士.ソニーコンピュータサイエンス研究所パリ客員研究員,国際メディア研究財団研究員などを経て現職.人工知能/進化計算などの知見を軸に,ユーザの創造性を刺激するソフトウェアの開発に一貫して取り組んでいる.著書に『iPhone×Music iPhoneが予言する「いつか音楽と呼ばれるもの」』(共著,翔泳社),『ユメみるiPhone—クリエイターのためのiPhone SDKプログラミング』(ワークスコーポレーション).

過去に参加した展示・イヴェント

田所淳

1972年千葉県生まれ.1996年慶應義塾大学政策メディア研究科修士課程修了.ウェブサイト制作から,openFrameworksを使用したアプリケーション開発,最近ではKinect Hackまで,インタラクションをテーマにデザイン・プログラミングを行なう.また並行して,コンピュータを使用したアルゴリズミックな作曲や,即興演奏を行なっている.現在,多摩美術大学情報デザイン学科非常勤講師,千葉商科大学政策情報学部非常勤講師.2011年度より東京藝術大学非常勤講師.著書に『Beyond Interaction —メディアアートのためのopenFrameworksプログラミング入門』(共著,BNN新社).
http://yoppa.org/

過去に参加した展示・イヴェント

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「タイムラインを使った」ワークショップの是非

徳井:先ほどの「(ワークショップ参加者のやり取りに)Twitterのタイムラインを使ったのがよかった」という話に戻ると,参加者から提出いただいたアンケートにも書かれていたように,「(タイムライン上のツイートか,実際の口頭での対話か)どちらで話していいのかが分からなかった」という人もいましたから,そこだけは最初に決めておけばよかった.「ここは一切無音にして,喋ってはいけない.とにかく全部タイムライン上でやる」という極端な形の方が,実はよかったのかもしれない.

田所:一生懸命書き込んだつもりなのに「何かありませんか?」って口頭で聞かれるとちょっと,みたいな(笑).あと,ワークショップをやる立場でも,タイムラインをずうっと眺め続けているわけにもいかないので,「眺めつつ/聞きつつ」というのが,意外と難しかったですね.書き込みオンリーの時間帯があったりすると,こちらもタイムラインをじっくり見られたのかも.

徳井:「無言のワークショップ」というのも,面白いかも.

田所:会場がシーンとしている時とか「本当にワークショップやってるのかな?」と,見学者の人たちには異様に見えた瞬間もあったかもしれませんね(──参加者の感想アンケートを読み返して──)うーん,凄いですね.「Twitter合宿をやろう!」って言う人もいました(笑).あと,実際にウェブ・サーヴィスを作っている人もけっこういたみたいですね.

──勤務先で面白そうなサーヴィスを作ろうとしても,企業活動は利益追求が優先されるので,完全に自分の思い通りには作れないというジレンマがあるのではないでしょうか.でも,こういうワークショップであれば,自分の素直な欲求をぶつけることができるのでは?

田所:Twitterで広告的にやっているサーヴィスって,だいたいは「登録すると自動的にタイムラインにつぶやく」とか,そういう感じなので,工夫する余地はあまりなさそうですし.

徳井:ふだん僕たちが接する人って,どうしてもIT業界のプログラマやウェブ・デザイナーなどに偏りがちですが,今回は意外とそうじゃない人も参加者の半分ぐらいはいましたよね.

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キャラ化するTwitterユーザの仕組み?

徳井:そういえば参加者の中で「自分のアイデンティティとネットがどれくらい深くつながっているかで,Twitterの使い方も違ってくる」と仰っていた人がいました.

田所:なるほど.前に言ってた「フォロワーが多いほどキャラ化していく」みたいな話に近いですよね.本当にリアルなままで,あまり分裂していない人もいますし,(リアルとツイートでは)全然別の人もいますよね.

徳井:たとえば「普段は食品会社でサラリーマンをしている人」がいたとして,彼にとっては「Twitterの中の自分」と「社会の中の自分」が全然別物で,きれいに分かれている.だけど僕らみたいな仕事をしていると,そこらへんがけっこう曖昧になってしまう.

田所:僕なんかも「ネット上の自分」の方が,割合としては逆に大きくなっている感じがする.なにせ人にあまり会わない生活なので(笑),最近では人と触れ合う機会が,ネットの方が多くなりつつあります.それがよいことかどうかは微妙ですが…….それはともかくとして,普段は演劇系の人や研究者とはあまり会わないので,なかなか聞かないような意見も出てきて,面白かったです.

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「ツイート情報」は売買されている?!

田所:あと,普段知らなかったようなことが,けっこう1日目でも出てきましたよね.たとえば「ツイートの情報が売られている」とか.今まではそういうことを意識していなかったけれど,「自分のツイートには価値がある」ことが分かったのは,新たな視点でした.今まではTwitterって,どちらかというと消費している感じでやっていたのですが,実は「誰かが必要としている情報を提供しているのだ」という視点がとても新鮮でした.

──あれは衝撃的でしたね.徳井さんご自身はああいう情報を,どこから入手されるのですか?

徳井:最近の僕の興味は,「ネット上で色々な人が無意識に作り出している情報をたくさん集めることで,何か新しいことが分かったり/できたりすることがあるのではないか」ということと,「今,実際にネット上で,どういうことが行なわれているのか」の2つなんですね.
 ちょうどこの2月にアメリカに行ってきた際,オライリー社主催のカンファレンス(http://strataconf.com/strata2011)に参加してきたのですが,あの会議のメイン・テーマもそのような趣旨でして,「ツイート情報が売買されている」という話は,そこで聞きました.とある参加者が,ツイートが売られているとか,データ・マーケットみたいなものがすでにあるという話を,「ソーシャル・メディアの中でのプライヴァシー」みたいな論点と絡めて発表したんです.結局,自分のプライヴァシーを(投稿内容に)ちょっぴり絡めることで,ある種の利便性や発信欲を満たしているわけじゃないですか.そのバランスが今後どうなっていくのか,という話ですね.

田所:「得るもの」が少なくて「奪われる」一方だったら,みんなやらなくなっちゃいますものね.今だと,発信するだけのメリットがあるから,みんなやっていますけど.

徳井:昨日,たまたま証券会社と仕事をしている人が話してくれたのですが,彼は言語処理を専門としているのですが,意外なことにそこでもツイートの解析をやっているらしいのです.でも「実際の現場で株を売買している人の間では,ツイートの情報はそこまで重視されていない」とも言ってました.
 たしかに(相場や市場の情報は)衝撃的なので,ネット上でも話題にはなるけれど,実際に株の売買をしている人は他に情報源を持っていますから,そこまで間接的なツイートの情報を買わなくてもいい.それなら「いろんなアナリストを雇う」とか,現地の生の情報だって,金さえ払えば入手できる.だから現在の金融市場におけるツイート内容って,まだそこまで重視されていないみたいです.
 ただ今後,今のシステムが進化していって,今よりもさらに情報量が多くなり,しかも最近の北アフリカやエジプトやリビアで起きている民主化運動のような感じで,今はまだそこまでつながっていない国民たちも,さらなるモバイル機器の普及によって今後どんどん連帯してゆくようになった時には,また変わってくるのではないでしょうか.

田所:今やツイートの母集団の数も億単位なので,従来ならば簡単には調査できなかったことに誰でもアクセスできるようになってきてますから,特定のキーワードを指定するとグラフみたいになるGoogleトレンド (http://www.google.co.jp/trends) みたいな仕組みを,Twitterにおいても誰かが開発してくれると,それだけでもだいぶ変わってくるでしょう.

徳井:だけど「解析専門」の会社って,日本にももういくつかありますよ.

田所:「好意的な評価がこのくらい」とか? なるほど,そういう情報が欲しい人はいくらでもいそうですよね.

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ソーシャル・ネットワーク上の未来予測?

田所:そういえば最近「ソーシャル・ネットワーク分析でアカデミー賞を予測しよう」というイヴェントをやっていたみたいですが,結局あれは当たったのかな?

徳井:かなり当たってましたよ.主演男優賞(コリン・ファース『英国王のスピーチ』),主演女優賞(ナタリー・ポートマン『ブラック・スワン』),あとたしか,作品賞(『英国王のスピーチ』)も…….

田所:じゃあ,『ソーシャル・ネットワーク』(デヴィッド・フィンチャー監督,2010年,アメリカ)が本命だったけれど,対抗馬の『英国王のスピーチ』(トム・フーパー監督,2010年,イギリス=オーストラリア)の方が受賞するだろうというところまで当たったわけですね.けっこう当たるものですね.

徳井:それが株とかになると,また違うのでしょう.エンターテインメントだと,みんなが意見を言いやすい.

田所:たとえば,まだ公開されていないハイテク分野のニュースをつぶやく人は,さすがにまだいない.だけど,選挙予測あたりには使えそうですね.

徳井:選挙なんかは,個人の意見が結果に一番ダイレクトに反映されますものね.ただ,年齢層が偏ってくるかもしれない.Twitterだと,ユーザがどうしても若年層に偏りがちだから.ただこれが,今ネットに慣れ親しんでいる若い人がだんだん年を取っていって,人口比の多数を占めるようになると,もう完全に逆転しますよね.

──Twitterや2ちゃんねるとかでも,政治の話ってけっこう出てくるのに,実際の選挙の投票率が上がらないのはどうしてなのでしょう?「祭り」をやっているエネルギーが実際の投票に結びつかないのは,何とももったいない気がします.ネット上での盛り上がりを少しでも実際の投票率に反映できるようなシステムができたら,いいですよね.

徳井:誰かが「そういうのをやらなきゃ!」と言っているのでしょうが…….

田所:少しずつ変わっていくのかな,とは思いますが.たとえば今は,Twitterでつぶやけば反応があったり,Facebookだと「いいね!」とか,自分の行動に即座かつダイレクトに反応が返ってくるわけですが,選挙における「投票」って(たしかに意義はあるけれど)「自分の一票」に対する手応えがダイレクトには返ってこない.それが,政治に対する無力感につながっているのかもしれません.

──でも選挙投票って,全部が終わってから結果が公表される仕組みだから…….

田所:しかも「全体の中のこんな小さな自分」というものを実感してしまうと,ネットほどには反応がない感じがしちゃうのかも.

──日本だと,ネットでの選挙投票も,まだできませんよね.

田所:いまだに「選挙期間中はブログの更新禁止」とか,いろんなルールがある国ですから,実現はまだまだ先の話じゃないですかね.ここ当分は変わらなさそうですが,「電子投票」が実現したら,ずいぶん変わるんじゃないですか.

──さらに「電子投票」を飛び越えて,エジプトやリビアみたいなクーデターが日本に起こる可能性はありませんか? 平和的な選挙で政権を覆すことができなくなっているので,ネットでガーッと盛り上がったことが一気に行動に行っちゃうから.

田所:でも,人口千人くらいの村だったら,全員がTwitterで議論とか,できそうですよね.直接民主制も可能かもしれない.かといって,それでよい意見が増えてくるかどうかも,やってみないと分かりません.

徳井:Twitterの話をすると,こういう社会全体の話に結びつきやすいのも面白いですよね.それって(従来のウェブ・サーヴィスには)なかなか無かったことですからね.

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ワークショップ2日目(実践編)を振り返って

田所:2日目の「実践編」に関しては,導入部分の「六次の隔たりゲーム」を初めてやって成功する確率って半々ぐらいかなと思っていたのですが,意外とうまくいきましたね.
 ものすごく早く(つながりを)見つけちゃう人がいて,ビックリしました.基本的にウィキペディアとTwitterで探してもらったのですが,最終的にはけっこう短い距離で全部つながったので,意外と面白かった.想像以上に世間が狭いということが実感できました.参加者のレヴェルも高かったのでしょう.今度,大学の授業でもやってみようと思いますが,たぶんあんなに早くは見つからないんじゃないかな.

──「ひとつ上の階層や大きなカテゴライズを見て,探してみると見つけやすい」というアイディアが,田所さんや徳井さんからではなく参加者の方から出てきて,実際にそうしてみたら本当に辿り着けました.あのアイディアが実際にその場の参加者から出てきたのが素晴らしかったです.

田所:あえて欲を言えば,あれをパッと視覚化できるようなツールがあれば,もっとよかった.なかなか合いそうなツールがなくて,一から新たに作る時間もありませんでしたから…….もしもあれが,つながりをその場でパパッとグラフ状に見せていくことができたなら,視覚的にも訴えられたのですが,今度同じようなことをやれる機会があったら,ぜひトライしてみたいですね.

──そういうソフトがあったら,話題になりますよね.

田所:たとえば「ケヴィン・ベーコン・ゲーム」みたいなことをTwitter上でやれるツールって,まだないんですよ.そういうのがあればよかったのですが.

徳井:なんか,テレビの深夜番組でやりそうな企画ですね(笑).

田所:「まったくランダムに選んだ他人とのつながりを探せ!」みたいなイヴェントで,一番早く探した人には賞品が……というふうにやると,盛り上がるかもしれません.

──まったく相反する二項目を包括的に含むカテゴリを見つけるのって,まるで「脳内ソーシャル・グラフ」みたいですね.

田所:あの「切り取り線」は凄かった.あそこで任意に選出された沖縄のYさんという女学生とある参加者のつながりを探せ……ということで,両者がつながったきっかけが,その「切り取り線」というサーヴィスだった.

徳井:(自分のPC上の最新のタイムラインを見ながら)あ……Yさん,今日卒業式だそうです!

全員:お〜!!

田所:……って感じで,彼女の一生を見守ったりしてね.おりにふれて「そろそろ2年生かな?」とか(笑).こんな調子で,勝手にランダム抽出した人のツイートを長期的に見守り続けるというのも,なかなか面白い.

徳井:勝手にブログに書いたり,本人写真とか載せたりもできますからね.

田所:「あの娘もついに結婚したか!」とか(笑).それこそ「リアル育てゲー」みたいな話で,架空の物語だって作れちゃう.でもYさんからしたら,一面識もない他人が自分のブログを勝手に作ってて,ある日偶然それを見つけて「うわっ,恐い!」みたいな(笑).ちょっとしたホラー小説並みの恐怖ですよね.

──それこそ前に話題になった,「Twitter上のデータで,どこまでその人のことが判明するのか?」みたいな話題にも觝触しますよね.

田所:『トゥルーマン・ショー』じゃないけど,本人だけが知らされていなくて,実はみんながその人のことをウォッチしている,みたいな話も恐ろしいですよね.「明日は入試だね,がんばれ!」みたいに勝手に応援されても(笑).

徳井:Twitter版「トゥルーマン・ショー」……言わば“トゥイーマン・ショー”というのも,たしかに面白そう.(笑).

田所:しかも本人が公開している情報や素材だけで組み立てているわけだから,全く違法じゃないというか,プライヴァシーを勝手に暴いているわけではないですから.

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「ボットを作る」セクションを振り返って

田所:「ボットを作る」のセクションは順番通りにうまくできて,最後には公開まで辿り着いたのでホッとしました.とはいえ,ほとんど出来合いのものを組み合わせただけで,新しいものは何も作っていないのですが,それでも自分のキャラクターがボットになるのがタイムライン上で実際に見えるだけで,そこそこ楽しめました.
 今でも時々リストにして見ているのですが,たまに見ると面白いですね.ただ,今回マップを作って思ったことは,アイディアしだいでもっとヴァリエーションが作れそうですよね.「自分のキャラクターを活かしたサーヴィス」って,もっと可能性がある気がする.

──たとえば「1年前の自分のツイート」をフォローするサーヴィスをその場でやってみて,そのタイミングで出てくるものに対して議論するだけでも,かなり面白いかもしれませんよね.

田所:初期の『インターコミュニケーション』誌(NTT出版)の初期の原稿って,一部はネット上にテキストデータがアップされているじゃないですか.たしか藤幡正樹さんかどなたかが「こうやって文字として残していくと,将来意味がある」みたいなお話をされていて,たしかに今振り返ってみると,その通りだと思います.
 だからTwitterで交わされる無数のツイートも,10年後ぐらい経つとまた別の価値が生まれてくるのかもしれない.それこそ徳井さんが仰っていた「歴史上の人物のツイート」というパロディ企画がありましたが今後はそういうのが,よりリアルな形で出てくるでしょう.たとえば今回のエジプトで起きた民主化運動のツイートを10年後に見直してみると,また新たに見えてくることがあるのかもしれません.

徳井:「このツイートで歴史が変わった!」とか,教科書に載ったりしてね.

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「いつ・誰が・どうやって」ツイートをまとめるのか?

──ちなみに,その膨大量に及ぶツイートをどうやってうまく編集したらよいのでしょうか? 今回,自分もワークショップのレポートをまとめるのに,タイムライン上で並べれば文脈が分かりやすいかな,と思ってやってみたのですが,やっぱり断片的になってしまいます.自分で文章を書いて補足するところと,実際の生の声(ツイート)を使うところのさじ加減が難しい.ひとりの人が話しているわけではないから,文脈がバラバラだし…….

田所:話の流れ自体が一本ではなくて,複数の話題が同時並行に展開しているから.

──ブログもそうでしたが,今まではひとりのユーザの視点からまとめられたテキストが表示されていたわけだけど,Togetter(Twitter上のツイートをまとめるサーヴィス)とかハッシュタグでまとめられた画面とか見てみると,いろんな視点があって面白いけれど,結局は誰かひとりの視点でまとめざるをえない.でも,考えてみれば,歴史だって同じことですよね.だからこそ,全てのデータをちゃんと見られるような環境が必要なのかもしれません.Togetterも,誰かが(人為的に)まとめ作業を入れてくれないと使い物にならないし.

田所:リプライ同士だったらまとめていくことも可能でしょうけれど……でも,あのタイムラインって,全体の雰囲気の中で,互いに色々なことを勝手に言っているだけなので,たしかにまとめづらい.

──「歴史の検証にTwitterが使われる」というアイディアはたしかに興味深いのですが,結局のところ,任意のワン・ツイートだけ引っぱり出されても,判断が難しいですよね.

田所:まぁでも,全体の傾向をグラフとして見るだけでも,得るものは十分あるかもしれない.

徳井:たぶん自分が文章を書く時も,アイディアや言葉や文章の断片が最初にあって,それらを組み合わせて,ひとつのリニアな流れを形成するわけじゃないですか.そういう,個人が頭の中でやっていたことを,先日のワークショップの場では,参加者のみんなが協同してやっていたのかもしれませんね.各自が断片を持っていて,それをリニアに組み合わせていくと最終的にひとつの流れになる,みたいな.たぶんそれって,編集部とか編集者の立場の人の役目なのかな,とも思いましたが.

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ソーシャル・ネットワーク時代の情報収集&整理術

──では,ワークショップの振り返りはこのくらいにして,ちなみにお2人は普段,どういう手段で情報を集めていらっしゃるのでしょうか? あるいはどうやってアンテナを張られているのか…….

田所:自分独自の情報ソース,ということですか?

──今だったら,インターネットだけでもある程度の情報は集められちゃうのですが,よりコアな部分とか,まだ誰も言っていない部分は,自分の経験や友人関係などのコネクションから得られるところも多々あるだろうし,どこかしらその場に直接いないと得られない部分も,まだまだある気がします.今は何でも「ググれカス」(「それくらいGoogle検索で調べろ,このカス!」の略)みたいな雰囲気がありますが,一方ではネット検索だけでは分からない情報や知識もたくさんあるでしょう.そういうところから,お2人のアンテナの張り方を(差し支えない範囲で)教えていただけませんか?

田所:僕はもの凄くフツーなんですけど…….たとえば「Googleリーダー」で分野ごとに集めたり,あとはRSSをシェアしている人の情報とか.けっこういろんな人とシェアしていますけど,他人のフィルタがかかっているRSSって,情報としてもかなり面白いものが多いです.で,「面白い!」と思ったら,僕もそれをシェアする…….

──それって,徳井さんが以前仰っていた「情報の受動性」の話に近いですね.

田所:あとは,Tumblrが大好きなので……Tumblrの面白いエントリーをリブログしたり,とか.

──Tumblrには全然ハマらなかったというTwitterユーザもいると思いますが,個人差があるのでしょうか?

田所:たしかにツールとしては,微妙なところもありますね.だから「Tumblrで情報を得よう!」とかは全く考えていなくて,むしろ現実逃避(笑).作業に行き詰まったら,Tumblrのダッシュボードを見ちゃう.いろんな人の書いている文章をつまみ読みするのが好きなんですよ.

徳井:RSSのシェアとか,Tumblrでフォローしたり,田所さんはけっこうシステマティックな感じですよね.ちなみに僕は,自分でTumblr投稿はしていますが,ひとりもフォローしていません.

田所:Tumblrって地道に続けていると,フォローしてくれる人が出てきて,そういう人をフォローし返すと,自分と趣味が似ている人が分かってくるんですよ.ほら…….

──ほぉ……(PC画面を見て,フォロワー数)448人ですか.

田所:そうです.3000ポストしていますね.立派なTumblr中毒(笑).

──ちなみにTumblrには「いいね!」ボタンはありますか?

田所:ありません.その代わりがリブログです.Facebookもそうですが,よくできているなと思うのは,「いいね!」とかつけてくれたりリブログされたりすると,何だかそれだけで嬉しくなってきて,どんどん投稿しちゃう.共感してくれる人がいると「自分のファンがいる!」みたいに錯覚しちゃうの(笑).その「すぐに反応が返ってくる」ような設計になっているのがうまい.

──徳井さんはいかがですか?

徳井:僕は気分によって,バラバラですね.紙の新聞とiPadとかでニュースを見たり読んだり.ニュース・アプリはiPhoneとかにけっこう入れているので,ランダムにそれを立ち上げています.
 最近新聞を読んでて思ったのは……近頃僕は,なかなか家に帰れないことが多くて,そうすると3日分くらいの新聞がすぐ溜まっちゃうんですよ.昔だったら3日前の新聞なんて,情報が古いから読まなかった.でも今だと,3日前の新聞も普通に読めたりするんです.なにせ最新ニュースはネット上でいつでも見られるので,もはや即時性を紙の新聞に求めていないからだと思います.むしろ社説の部分とか書評欄とか,ネットにないような記事をよく読みますね.

田所:特集記事とかコラムとか,ネット版には載っていない記事も紙の新聞には多いですよね.紙の新聞に存在理由が残されているとしたら,案外そちらの方なのかも.

徳井:あとは(いやらしい言い方かもしれないけれど)他の人と差をつけるには,他の人が見ていないところを積極的に見た方がいい(笑).

田所:ウェブサイトは,誰でもすぐに見られますからね.

徳井:だから僕は,ラジオをけっこう聞いたりします.音楽を聴きたいわけじゃないので,AMラジオの方が多いのですが,海外の放送を含めて色々聞いていると,切り口がネットとは全然違う.あとラジオ放送も,海外の方が質がいい.ニュース番組とかも,日本だとお笑いみたいになっちゃうけれど,海外のは討論番組もよくできています.

田所:たとえば「radiko」ってあるけれど,あれはその地域で聞けるラジオ局に限定されているじゃないですか.あれで全国の放送を聞けたら,きっと面白いんだろうなと思いますね.ただし権利上,なかなかそれは難しいらしいのですが…….わざわざAMラジオを買ってきて,チューニングを合せるのもちょっと面倒だけど,radikoが出てきてから,僕もまたラジオを聞くようになりました.

徳井:それもまた「情報の受動性」の問題と思いっきり絡んでいますね.何でもネット上で聞けちゃうようになると,今度は何にも聞かなくなる……というか,新しい音楽とだんだん出会わなくなる気がしません? だって,自分のハードディスクの中に膨大な数量の楽曲があって,それである程度満足しちゃうところがある.でも,ラジオを聞いていると「あれ,この曲って何?」というのが,たまにありますから.

田所:たしかに「ラジオを聞いていなければ絶対に触れなかっただろうな」という音楽もありますよね.あと,Flipboardはどうですか? 各種サーヴィスから自分の興味がある事柄だけを抜き出して,雑誌っぽい感じできれいにレイアウトして表示されるのが好きなのですが.

徳井:Flipboardの面白いところは,TwitterやFacebookとかで友達が挙げている情報もあるのですが,専門のエディタがちゃんと編集しているものもある.その両方が並列で存在するのが,面白い.見た目もきれいですし.

──よく,Evernoteとかを使って,ネット上にある情報をスクラップし,きれいに整理して仕事に活かす,みたいな話がありますよね.でもそれって(自分で撮った写真や文章を整理保存するというニーズは多少あるでしょうけれど),結局はインターネット上の情報が殆どですよね.そこに,紙の新聞やラジオなどのマスメディア情報も入れ込むことができて,初めてまともな情報収集ツールと言えるのではないでしょうか?

田所:とはいえ,やりだすとキリがない.ひどい時は一日中そればっかりやってて「あぁ,今日は(情報整理以外)何もやってない!」となる(笑).とはいえ,ハマりだすと,それが楽しくなっちゃうんですよね.かたや,たとえばコンピュータ分野の最新情報を常に網羅していて,もの凄く詳しい人がたまにいるじゃないですか.そういう人がどうやって情報を集めているのかは,たしかに興味があります.

徳井:「興味関心のあり方」の部分もあるでしょうね.ある分野に集中すれば,できるのかもしれない.まぁ,人によりけりでしょうが「情報の間口はできるだけ広くしておいた方がいい」ということは,少なくとも言えるのではないでしょうか.

[インタヴュー収録日:2011年3月1日]

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インタヴュー

クラスターがつくる多様化する「土地」

福嶋 麻衣子

FUKUSHIMA Maiko

アイドルたちにとってのTwitter

Twitterは,今から4年くらい前に登録して使い始めたのですが,何が楽かって「余計な文章を書かずに単刀直入に要件をつぶやける」ことですね.その意味では告知ツールとしても,Twitterにはかなりお世話になっています.

私の周囲の女の子も,アイドルをやっている子が多いせいでしょうか,「いかにして自分のファンと接点を持ち続けるか」という,ファンとの接点を維持するためのツールとして活用してます.それこそ「Twitterのフォロワー数=ファンの数」みたいな感じで,互いに競ったりしていて,「今日も活動しています!」とか「今度はこんなイベをやるよ!」とか,一生懸命アピールしています.

これは私の周囲だけの話なのかもしれませんが,ある時期を境に,mixiからTwitterに女の子たちが一気に移行しました.ちなみに,現在では弊社(モエ・ジャパン)のアイドルにはmixiの使用を禁止しています.というのも,mixiはパーソナルなメッセージをやり取りする機能が充実していて,そのせいか,けっこう内に籠もっちゃいがちなサーヴィスなんです.だから,管理者側からすると,その中で何が起こっているかが全然分からない.たとえば,事務所の目の届かないところでのお客様とのトラブルや,不特定多数のネットユーザと何かしらの問題が起きるのを未然に防ぐことも難しいんです.だけどTwitterだと,フォローしていなければダイレクト・メッセージを送れないし,「全員に公開」モードなら返信も外から見えますので,すべて事前にチェックできる.だから,トラブルを未然に防ぐことが比較的容易なんです.

でも,そういうお仕事的な使い方ばっかりかというとそうでもなくて,Twitterは女の子たちの「かまってほしい!」みたいな心情を満たしてくれるツールでもあります.たとえばある子が「つらい」ってボソッとつぶやいたら,絶対にファンの誰かが「大丈夫だよ!」って慰めてくれる.そういう意味では,使い方しだいでは「傷の治りが早い」というか(笑),心情的に楽になれるツールでもあります.

福嶋麻衣子

株式会社モエ・ジャパン代表取締役社長.東京藝術大学音楽学部音楽環境創造科卒業.秋葉原にてアイドルが働くライヴ&バー「ディアステージ」とアニソンDJバー「MOGRA」を経営.レーベル・プロダクションDearStageRecords.を運営する.近刊にいしたにまさきとの共著『日本の若者は不幸じゃない』(ソフトバンク新書,2011年).通称「もふくちゃん」.

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クラスター的集団としてのTwitterユーザ

先ほど説明しました「mixiとTwitterの比較」については,この本(『日本の若者は不幸じゃない』共著,ソフトバンク新書,2011年)の中にも書いたのですが,どちらかというと「mixiはコミュニティ的」で「Twitterはクラスター的」だと,私は考えています

先ほどの話と若干重複しますが,「コミュニティ」ってすごく内に籠ってしまう可能性があって,その集団の中で何が行なわれているかが見えづらい.その中で独自のルールが生まれ,エスカレートして,取り返しがつかなくなってから初めて過ちに気がつく,みたいなところがあるので,ビジネス的にも怖いです.

それに対して「クラスター」というのは,一瞬のお祭り騒ぎ=「文化祭」みたいなものです.しかもそこでの流れが,傍で見ていてもだいたい分かるから,危険なことになりづらい.そもそも,そこまでグツグツ煮込まれるほどには濃厚にはならないのがクラスターの特徴だと思います.その場のノリで気軽に参加できて,しかもコミュニティのような一体感や高揚感も得られる.そういう側面がクラスター的集団の特徴であり,優れたところだと思います.

MOGRA(モグラ)」という秋葉原のクラブでは,毎週末にイヴェントをやっていて,それを全部Ustream(ユーストリーム)中継しているのですが,そのUstreamが毎回すごく盛り上がっています.「MOGRAクラスター」って呼ばれるような人たちが集まって,ほとんどチャットみたいに交流している姿って,見ていてすごく安心するんですよ.参加者が何を考えているかも分かるし,もともとそれを楽しめる人しか参加しないから,ネガティヴな書き込みや悪意があまり生まれない.

対して2ちゃんねるやmixiとかは,全部が全部ではないとしても,ネット上のネガティヴな要素が生まれやすいところがある.もちろんネガティヴな話題に対してクラスターが集まってきてワーって騒ぐようなことが全然ないわけではありませんが,比較的前向きな討論が多い.そういう意味で,コミュニティよりもクラスターの方が気楽だなって思うんです.

最近では,若い女の子ほど「××なう」とか「何食べた」とか,本当に「ダダ漏れ」みたいにTwitterを使っている子も多いです.食事の間もずうっとiPhoneの画面を見てTwitterをやっているので.やはり不特定多数の人が反応してくれる面白味とか,誰かが自分に対してメッセージをくれる,しかも比較的安全にみんなの目に留まるように……というのが,女の子としても安心して自分のアイデンティティを出しやすいのでしょうね.

福嶋麻衣子インタヴュートップ

「学園祭ビジネス」としてのウェブ・サーヴィスの可能性

もうひとつ説明しないといけないのが,私が「学園祭ビジネス」と名づけたもの.ウェブ上のネットワーク・サーヴィスにそれをあてはめて考えると,たとえばニコニコ動画(http://www.nicovideo.jp/)やpixiv( http://www.pixiv.net/)とかが思い浮かびます.そういったサイトって,極めて「学園祭ビジネス」的だなって思います.

今は本当に,ユーザが主体となって作り上げられる文化が多くて,学園祭的なサーヴィスとすごく相性がいい.ユーザが自由に振る舞えてなおかつオープンに開かれているサーヴィスは,今後たくさん出てくる気がします.

私の中ではニコニコ動画とpixivが,すごく近い感じですね.たとえばニコニコ動画の盛り上がり方って,「演じている側」と「見る側」の関係性がほぼ同一な感じがします.あとpixivでもユーザ同士のやり取りの中で物語が作られていったりするんですよ.たとえば『pixivファンタジア』という企画なんかには,ユーザが主体となって作り上げられた世界観があって,まるで大作RPGのように,こういうキャラクターがいて,こういうお城があって……みたいな細かい設定が決められたり,ユーザの妄想からストーリーが生まれたり.それってほかのネットワーク・サーヴィスではあまり考えられなかったことですよね.

2ちゃんねるから流行りだした「アスキーアート(AA)」のような文化をさらに引き継いで,なおかつ学園祭ビジネスとして発展させたら,すごく面白いことになりそうです.だから今後人気が出るであろう学園祭ビジネス的なウェブ・サーヴィスの基本って「双方向性」だと思います.いかにしてユーザにウェブ上での創造意欲をかき立てさせ,仲間同士で盛り上がれるか.Twitterの「ハッシュタグ(#タグ)」とか「@(アットマーク)」にしても,そうですよね.ユーザが「自主的に作れる」余地が残されているところがミソなのでしょうね.

福嶋麻衣子インタヴュートップ

「クールジャパンが好き!」

毎週末のMOGRAのUstream中継の様子を見ていると,アキバのアニソンとかって海外でもすごい人気なんだなって思います.同時に数千人が視聴していて,Ustreamの世界ランキング・ベスト5に食い込んだ時もありました.この間,世界各国からどのくらい視聴されているのかを,Googleの国別アクセス数を基にランキングを作ってみたところ,上位にはアメリカ,フランス,台湾,シンガポールなどで,けっこう予想通りだったのですが,おおむね「クールジャパンが好き!」って言っているような国のファンがアクセスしていますよね.彼らは毎週末,MOGRAのUstream画面の前で待機してるらしいんですよ(笑).

チャットとかも,外国人同士で勝手に盛り上がっています.
ニコニコ動画といっしょで,DJが何か新しい曲をかけると,Twitter上の「#MOGRA」で「○○○キタ━━━━━━(゜∀゜)━━━━━━ !!!!!」って(笑).誰が一番最初に曲名を当てるかで,どうやら盛り上がっていたり,そういうお祭り騒ぎが毎週末に開催されているわけです.ちなみにUstreamのウィンドウって,Twitterのような外部サーヴィスのコメント画面と,Ustream会員同士のチャット画面の2つが表示されますが,MOGRAの場合,Twitterの方は日本語ばかりで,なぜかチャットの方に英語のコメントが集まるんですよ.外国のファンの方もみんな,日本語で曲名入れてくるんですよ!

福嶋麻衣子インタヴュートップ

もはや単一の「神」を崇める時代ではない!

この「Twitterの中のわたし」の中で,他のインタヴュイーの方から「ユーザ側のニーズの多様化,あるいはネットワーク・サーヴィスのローカライズ(広義の「ガラパゴス化」)に対応したサーヴィスの誕生をどう肯定していくか」みたいな話題があがったと聞きました.また,これは私ではなくて,『日本の若者は不幸じゃない』の共著者いしたにまさきさんの持論ですが,「ネット発で盛り上がるムーヴメントも,最終的には"実際の土地"に立ち戻り,そこに縛られるだろう」と彼は仰っています.そういう「ローカライズ」や「土地」というトピックと,私が根ざして活動してきた「実際の土地」である秋葉原のカルチャーを絡めると……今はもう,何かひとつだけの「神様」を崇める時代じゃなくなっているのではないかと感じています.

たぶんインターネットがここまで普及したせいで,そうなったんだと思うのですが,「ユーザが隣を見なくなった」と言いましょうか,他人の趣味嗜好をあまり気にしなくなってきたことは確かです.「周囲に自分を無理矢理合わせなくなった」と言いますか…….かつてギャルのカリスマだった,安室奈美恵さんにしても浜崎あゆみさんにしても「××ちゃんが『好き!』って言ってたら,アタシも好き!」みたいな「右へ倣え」感覚での共感もあったと思うのですが,ここ10年ぐらいでそれが完全に崩れてしまった.

だから,今大人気のAKB48とかEXILEみたいな大人数グループって,本当に時代に合ったマーケティングなんだな,って感心します.あれだけ人数がいるのは,つまり「たった一人の神はいない.だったらチョイスできるようにしておこう」ということなんですよ.で,その「チョイスできる」ことがユーザの参加感を満たすのでしょう.たぶん今の子達は昔みたいに「あゆ!」とか「アムロちゃん!」みたいに煽られると,逆に応援する気がなくなっちゃうんでしょうね.「え? アタシが浜崎を応援したからって,世界の何が変わるっていうの!」みたいに.そのような「右に倣え」を否定するようなところが今の若い子たちの面白いところで,それはある意味,ユーザ全員が「ガラパゴス化したい!」って思っているような状態とも言えるのかもしれません.となれば,今後もユーザのニーズは多様化・先鋭化して,ガラパゴス化はさらに進んでいく気がします.

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ニッチな嗜好にマッチした「土地」を用意する

たとえばmixiもTwitterも,言ってみればネットワーク上の「土地」ですよ.土を耕して,住みやすく居心地のいい土地を作ってあげれば,住民がたくさんやって来る.それはリアルな現実のお店でも,ネットワーク上のサーヴィスでも,とにかく我々が「可及的かつ速やかに考えるべき」課題はそれだと思う.

で,そういう「居心地のいい土地」って,ほとんど全てがユーザに委ねられています.逆に言えば,全てをユーザに委ねないとみんな満足しない.実際問題,ユーザって凄くうるさいですよ.「アタシは背景がピンクじゃないと,絶対にイヤ!」みたいな(笑).それこそ「自分好みにカスタマイズできる」とか「アイドルといっしょに何かできる」とか,そういう体験ってすごく満足感が高いので,一度でもそれに慣れてしまうと,もうそれ以外では満足できない.
 だから,私の仕事の次なる課題は,ある特定のクラスター向けの土地をいかにして用意してあげられるか,です.どんなにニッチな商売でも,本当にちょっぴりのお客さんはいます.その人たちに100パーセント入れ込んでもらえる土地を作りたい…….たとえばうちのMOGRAは,言わば「クラブもアニソンも大好きクラスターが100パーセント全力で打ち込んで楽しめる箱」というのが,その「土地」のコンセプトだったわけです.

もう一方の「ディアステージ」も「オレたちがこれからアイドルを作っていくんだ!」っていう,本当に濃いアイドル・ファンが住みやすい土地をめざしていたわけだし…….だから,そういう特殊な「ガラパゴス島」みたいな土地をいくつ作れるかが,今後のビジネスの鍵なんだと思っています.

それはネットワーク・サーヴィスも同様です.ガラパゴスがものすごく大きな土地に化けることだってあるかもしれない.たくさんのガラパゴスが生まれたとしても,一個一個のガラパゴスが黒字になっていればいいんですよ.たとえ10人向けのサーヴィスでも黒字だったら,それを100個やればいいじゃん,って(笑).「10万人に向けたひとつのサーヴィス」を考えるのはた大変だけど,「たった10人だけが喜ぶサーヴィス」って,意外と考えやすいんですよね.単純計算だけど,それを1万個作れば,結果は同じかそれ以上になるんだという気持ちで臨んでいます.

今は本当に厳しい時代ですよね.特に大企業ってすごく大変だなって思いますよ.実は今年に入って,ディアステージの女の子たちがトヨタ自動車の広告に進出しているんですよ.つまり大企業もガラパゴスを狙ってきたわけで,今後はそれがより盛んになっていく予感がします.広告代理店も気づくものがあったんだろうな,って(笑).かたや,同じ車を何十万人に買ってもらうビジネス・モデルも考えないといけない,すごく厳しい時代だと思います.

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「プロ意識」系アイドル VS 「ダダ漏れ」系アイドル

最後に「Twitterの中のわたし」というタイトルを受けて,現実社会での「私」とTwitter上でつぶやいている「私」が同じか,意識的に切り分けているかをお話ししておきますと……まず,社長っていう立場が,すごくつぶやきづらい(笑).やはり色んなビジネス上のしがらみがあって,それらの網の目の潜りながら,ようやくつぶやいている,みたいな.

以前,ホリエモンがライブドアの社長をやっていた頃,彼のブログ記事が食べ物の話ばっかりになっちゃったじゃないですか.でも本当に社長って立場になると,それくらいしか自由に言えることがないんですよ.本当はもっと自由気ままにツイートしたいんだけど,私の一言が大きな影響を及ぼす可能性があるわけだから,それは責任を感じますね.結果,「出してもいい情報=宣伝」ばかりになっちゃって,自分でもそういうのはつまらないな,って思うことはあります.だったら公式アカウントとは別アカウントを新たに持とうかなっていうくらい,内心では欲求不満が溜まってますよ(笑).

だから自分としては,その「Twitter上でのキャラ」みたいなものが,確かにある気がして,「不特定多数からこう思われている」みたいなことは意識しているのかもしれない.だから他のアイドルの子を見ていると「自由でいいなぁ」って思いますもの.中でもプロ意識の高い子は,絶対にネガティヴなことは書きません.裏で泣きながら「ちょっ,超楽しい〜!」とかつぶやいてる.まさに「Twitter上での私は笑顔なんですぅ〜」って(笑).そういうのを見ていると,偉いなぁって思います..

でも,アイドルの子にも2種類あって,等身大組っていうんですかね,そういう子たちのツイートは「アタシに共感して!」みたいな感じで,ほとんどダダ漏れ系ですね.そういう書き込みを見つけると,私は一言「プロ意識が低い!」って言っちゃうんだけど,でも,そういう子が好きなお客さんもいるんですよ.「オレが癒してあげたい!」とか(笑).

従来なら,メジャーなアーティストには「こういうプロ意識を持って登りつめてきた」っていうストーリーがあった.でも今は,ダダ漏れでものぼりつめちゃう子まで出てきている.最近のニコニコ動画界隈だって,そうですよね.全然グダグダで,プロ意識のかけらも感じさせないけど,キャラだけで人気が出ちゃう子って,たくさんいますもの.ネットがこれだけ発達して,プロ意識という価値観自体がすでに崩れちゃったんでしょうね.

今はプロ意識系とダダ漏れ系の両方を育てています.将来的には,プロ意識系がダダ漏れ系に駆逐される時がやって来る予感もするのですが,現時点では両方ともやっておかないと,という思いがあるんです.だからプロ意識がある子は厳しく育て,ダダ漏れ系はダダ漏れ系のやり方で育てる.逆に,そういう2種類の方法論でアイドルを育てているタレント・プロダクションって,ほかにはないと現状を肯定的に捉えていたりします.今は時代の移り変わりの時期だから「どちらも可能性はあるんだよー」って辛抱強く育てるしかないように思っています.

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正直者だけが,ダダ漏れ時代を生き残れる!?

ダダ漏れ系の子たちのネットの使い方って,今までとは全然違いますね.昔のアイドルだったら(心情的にも物理的にも)見せられなかったプライヴェートを平気で公開しちゃう.言わば彼女たちこそが「新人類」ですよ(笑).かといってプロ意識系の子たちは,従来どおりのキャラクター・ビジネスのネットワークを使っていて,それもいまだ有効だと思うし…….

ブログが流行りだした時にも,「ブログの女王」みたいなタレントさんが人気になりましたけど,Twitterはブログよりももっと瞬発的にダダ漏れできちゃうので,タレントさんはさらに身近な存在になりました.でもその分,怖さもあります…….先日の大学受験を巡る「携帯カンニング事件」とか見ていても,本当に怖い時代ですよね.

言わばTwitterって「ウソがつけないツール」じゃないですか.基本的に私はネットワーク社会が進化して,本当にいい時代が到来したと思っていて,ウィキリークス(WikiLeaks)とかの話も「なるようになったな」って思っています.そうやって,ウソがつけない時代になってきた.それって怖い面もあるけれど……やっぱり最初からウソをついていない人は,たとえTwitterでダダ漏れしまくって,ネットで晒されたとしても,平気なはずなんですよ! 逆に,自分に非があることをやっている人って,最後にはインターネットで暴かれてしまう……そういう意味では,ネットって「正直者に福がある」システムだなって.

とはいえ,やっぱり……怖いこともありますよ.テレビやラジオの時代は,スターとファンの間に十分な距離があったから,いくらでも虚像を演出できたけれど,たぶんそれが今,どんどん引き剥がされている.それこそ「あいつは陰でタバコ吸ってるんだぜ!」とか言って,「アイドル・ウィキリークス」みたいになっているじゃないですか(笑).でもそういう時代だからこそ,本当にダダ漏れ系が勝利する時が,ひょっとしたらすぐそこまでやって来ているのかもしれません.

だから自分にも子供ができたら「正直者じゃないとダメなんだよ」って教えないと……って,今から悩んでいます(笑).GPSとか普通にあるわけで,どこに行っててもバレちゃう.一億総パパラッチ時代ですもの.なので,素顔や本音からして素晴らしい子だけが,このネットワーク時代を勝ち残れるのではないでしょうか.

[インタヴュー収録日:2011年3月8日]

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インタヴュー

目の前にあるネットワークの捉え方 聞き手:ICCスタッフ

関口敦仁

SEKIGUCHI Atsuhito

ネットワーク・システムから漏れてくる情報

──アーティストであり,教育者,研究者でもある関口さんは,ソーシャル・ネットワーク・サーヴィスやそれらのサーヴィスを可能にするツールやデバイスについて,そもそもどのような印象を持たれていらっしゃるのかを最初に伺って,本題であるTwitterの件につなげていけたらと思います.

関口:ソーシャル・ネットワークのシステムについては,各ツールが抱えているコミュニティの現実的なエリア……と言いますか,それは「ユーザがたくさんいる」ということではなくて,どれくらいの大きさ=スケールを持っているかという感覚が,それぞれで違うということがある.
 現実的な話,あるネットワークを介して「今の自分は,これくらいの人たちと接続しているのだ」という感覚は,人間が世界と対峙している限り,必ずあると思う.その「世界との接続感」をネットワークに置き換えた場合,「このシステムだったらこれくらいのスケールだな」というふうに,ある程度見当をつけているわけです.ただ,それを本当にリアルに実感する瞬間って,どういう時なんだろう……という疑問も,あるにはある.
 ただ面白いのは,Facebookはちょっと分からないけれど,mixiが流行った時よりもTwitterが流行った時の方が,そのネットワークの外部に漏れてくる情報がすごく多いじゃないですか.もちろんそれは,各ネットワーク・システムが抱えている一種のポリシーや仕組みによって変わってくるわけだけれど,もともと「漏れてもかまわない」情報をおのおのが抱えていて,それがやり取りされているのって,すごく面白いですよね.

──システムから漏れてくる情報をキャッチすることで,先ほどおっしゃっていたような「世界との接続感」のようなものを感じる,ということですか?

関口:というか,自然の中でボーッとしていても,光とか温度とか風とか,自然界のさまざまな情報を拾ってしまうのと似たような感じですね.情報は拾えるけれど,ある程度一定量にならないと,その世界観までは分からない.そういう意味では,今までのコミュニケーション・ツールの中でも,Twitterが一番「毛色が違うな」という感じがしました.

──「漏れ聞こえてくる」というよりは,あちこちでつぶやかれている言葉が自然と耳に入ってきやすい,という感じですね.それは,ネットワークの世界が普段生活している現実の環境に溶け込んできているからでしょうか?

関口:少なくとも僕個人にとっては,すでにネットワークそのものが現実空間と(透明なレイヤーで)完全に重なっている感覚がある.それが情報社会に直接つながるようなネットワークなのか,それとも自然界につながるネットワークなのかは分からないけれど,ネットワークと実社会は,あまり区別がない感じで捉えています.だから,学生のメディア・アート作品とかを見ていても,そこのところを巧みに感じさせてくれるような作品を提示されると「ああ,面白いな」と感じられるのですが.

──情報空間と物理空間の境目……みたいなことでしょうか.ネットワーク空間と言いますと,一時期はメタバースみたいに「完全に別の空間を構築して,その中に人が入り込んでいく」感じだったのですが,当コーナーの最初のインタヴュイーだった濱野智史さんによりますと,Twitterとかmixiのようなコミュニケーション・ツールを使っている今の若い人は,それらのコミュニケーションのためにわざわざ「情報空間の中に入っていく」という感覚ではもはやなくて,「ただ(コミュニケーションのための)ツールを使っている」という感じのようです.そういう意味では,現実空間とネットワーク空間の区別が無化したところまで,来ているのかもしれません.

関口:「情報というものはオーグメンテッドな(拡張された)環境の中,すべてにある」と考えれば,別に(現実空間とネットワーク空間を)区別する必要はない.逆に区別しないところから始められるインターフェイスのあり方やユーザビリティなるものが,絶対にあるはずでしょう.

──それこそ濱野さんの「昔はサイバースペースという言葉があったけれど,いつしか,そう言われなくなってしまった」という談話が思い出されます.今ではもうシームレスというか(現実空間とネットワーク空間は)分断されたものではなくなってしまった,ということですか?

関口:はい.時代的にも「理想のコンピュータ」というイメージを持たれなくなっているわけで,基本的にどこにでも偏在している「ユビキタス・コンピューティング」みたいなことが現実化してきた時に,感覚的にもそういうところにシフトしていかないと,何か新しい作品やツールやコンセプトを作り出す時に,そういうものに対応できなくなってしまう.以前とは全く視点を変えて,ネットワークというものを考えないとダメだと思います.
 「ネットワーク」なるものが,自分の世界の中でどういう状態にあるのかというイメージを持っていられるか否かで,だいぶ違うと思う.たまに私がやるのは(瞑想というわけではないけれど)ジッと目をつむって,自分が何と接続しているのかを,手を葉脈みたいにして,バーッとつながっていく姿をイメージしてみたり……まぁ,あくまでも遊びでしかないけれど,そこで明らかに「こういう感じだな!」と思ったら,それをずっと持ち歩くような状態にする.そうすると,やがてそれに引っかかってくるものが必ずあるから,それをまた整理すればいい.
 ネットワークって,あくまでも現実的なインフラとして実現されている社会構造ではあるけれど,でも,ひとりひとりの人間にとっては,あくまでもイメージの問題でしかない.だから,そのイメージにつながるところで,ある程度一致させればいいのかな,と思っています.

関口敦仁

情報科学芸術大学院大学(IAMAS)学長,同大学院メディア表現研究科教授,美術作家.1958年東京生まれ.東京藝術大学美術学部卒業および大学院修了.2001年4月より岐阜県立情報科学芸術大学院大学メディア表現研究科教授.2009年4月,同大学院学長に就任.メディアを利用した視覚造形認知の研究,メディア・アーカイヴ研究,また,身体におけるインタラクションを活用した表現研究などを行なっている.

過去に参加した展示・イヴェント

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見せたくない“私”が漏れ出てしまうシステム

──今回のウェブ企画では,“私”なるものの多面的な部分がTwitter上でどう現われてくるかに注目していたのですが,冒頭でも申しあげましたように,関口さんはアーティスト,研究者,教育者等々,さまざまなお顔をお持ちです.ちなみに関口さんご自身は,それら全部をひっくるめた“自分”と,さまざまな場面,あるいは各種ツールを使った際に個々に現われてくる“自分”が,どのように重なっていると,あるいは,異なっているとお考えですか?

関口:結局は個々の「ネットワーク感覚」に関連することではないのかな.「個人が世界とどうつながっているか」という,世界との接続性のようなものを一種のアナロジーとして,実際するネットワークに被せていくような感覚,とでも言いましょうか.ネットワークが発展していく過程で,人はそういうアナロジーをいくつも持つようになってきた.
 個人的に常に持っているネットワーク感覚というのは,今までは存在論的に「私」と「世界」という関係性で見ていたのが,ネットワークが発達したために「接続性」という部分で考えられるようになったこと.一連のツールでつながることで,コミュニケートしている自分の姿を初めて確認せざるをえない状況になっている.そこで初めて,ツールそのものが持っている特長や特性に合わせて,“自分”というものを意識的に変える気がなくても,たぶん違った形で“自分”というものが現われてしまうだろうから,そういうネットワーク感覚によって,ツールの選択を,さらにはツールの是非ということまで,ある程度は選択している気がします.

──ちなみに関口さんご自身は,ソーシャル・ネットワーク系のサーヴィスをあまりお使いにならないそうですが,その理由は?

関口:必要な時には使うけれど,そうでない時まで,自分の生活の中に持ち込んではいない,というのが現状ですね.だからツールの選択までも,到達していませんよね.

──そういうサーヴィスやツールを使うことで,自分の見せたくない側面が(意図しないところで)漏れ出てきてしまうからでしょうか?

関口:ネットワーク上に現われる“自分”を他人にどう見せたいかって,それは人によりけりだけど……ある種の美学的・審美的な価値基準として,そういうこだわりはあると思う.それに気づいていない人もいるし,気づいたうえでそれを忌避している人もいるでしょう.ある程度“公式な自分”をどう見せたいか,通信システムの中での“自分”の見せ方を考えるのが普通の感覚だと思うけれど,そういうものに一切無頓着で,ツールの特性によって,本当は自分でも出したくないような“自分”をさらけ出してしまうことも実際にあって,問題が多いですよね.
 Twitterにもそういう側面がある.もともと僕は,馴れ馴れしくてネチョッと喋っている感じの“自分”がすごく嫌いなんだけれど,Twitterだとそれがつぶやきに出ちゃうんですよね.それは見せたくない“自分”だから,すごく嫌.たぶん,このインタヴューでも同じ事を感じてしまうかもしれない.

──では,ブログ記事みたいに,一度下書きして,推敲して,それから投稿する分には,どうでしょう?

関口:いや,それもでも微妙ですね.「納豆を小出しにするか,パッケージにして出すか」という程度の違いで,納豆であることには代わりはないもの.

──ブログはザッと書いてから推敲するけれど,Twitterはそこを飛ばしちゃうから,より納豆っぽい性格が出やすいのかな……と思ったのですが.

関口:その人が考えているコミュニケーション観って,ブログよりもTwitterの方がはっきりと出る気がします.テキストを書いている人が,世界に対してどのようなモノの見方をしているのかが,(本来発信すべき情報にプラスされて)つぶやきの端々にすごく出ちゃうじゃないですか.自分としては,そこの部分をあまりあからさまにしたくない,という意識が明らかにあるわけです.

──その「端々」って,ポロッと出てしまう批判的な言葉とかですか?

関口:いや,意見とか意思じゃなくて,もっと性質的なもの.人の本性,性質が出ちゃうところがある.それも,別に見せっぱなしで本人も気づかなければいいかもしれないけれど,過去ログを見た途端「あっ,オレはこれを見たくないな!」と思ったら,やっぱり無理してはやらないわけですよ.昔だったら,自分がダラダラと喋っている声をテープレコーダーで録音して,後で再生して聞いた時の嫌悪感みたいなものに,すごく似ているところがある.
 あと,あるツールを使わないことと,それを使っていないからといって(そこでの)接続感の有無というのは,また別問題ですからね.ただ,Twitterを使っているうちにそういうものが見えてきて,嫌になって止めてしまった人というのは,少なからずいるような気がします.

──なるほど,今の「テープレコーダーの喩え」は,すごく分かりやすいですね.特に本人だと,そのネチネチ感が余計に分かってしまう,みたいな?

関口:むしろ,他人は自分のことを,あらかじめ「こういう人だ」って知ってるから,逆にあまり気にしないのではないか.だけど,本人的にはそこが自覚できちゃったら,ちょっとつらいツールだという気がします.
 たぶんTwitterって,情報をやり取りするにはとても貴重なツールだし,実際に役立つとも思うけれど,その特徴的な部分に対して「嫌だなぁ」と思ってしまう比率が,明らかに目に見えて高そうな感じがする.となると,情報だけほしいのならば,Twitterをよく使っている人の傍にいた方がよほど楽ですよ(笑).いつも同じ人が傍にいてくれるわけではないだろうけれど,基本的に情報を発信したがる人って,やっぱりTwitterユーザだったりする.すごく大事な場面になったらそういう人を発見して,その傍に張りついて……みたいな使い方もあるでしょうしね.

──Twitterの投稿文には最大140文字という制限がある中で,言葉じりとかにその人らしさが出てくるのかな,と思う程度だったのですが……より本質的なものがそこから感じ取られてしまう,ということですか?

関口:「感じさせる」のではなくて「含んでいる」から.感じるのは人それぞれだけど,その人の「ものごとに対する考え方」が,とても短いテキストに凝縮される.ブログであれば,たとえば1000文字ぐらい書くところが,Twitterだと最大140文字でしょう.1000文字だったら色々と体裁も整えられるし,ある程度は正装もできるけれど,140文字だとそうもいかない.「とりあえず靴下と下着ぐらいは履いた」という感じだから(笑).じゃあ「何色のパンツを,そして何色の靴下を履いているのか」という部分は,おざなりになる.ちゃんとした背広を着る余裕は,到底ない.
 そんな「よそ行き」ではない情報が,発言内容にチョロっとだけ含まれている.その「何となく見えちゃう」感じ自体は面白いのだけど,「オレは靴下だけの丸裸で外には出ねえぞ!」みたいな気分はありますよね(笑).そこはやはり,自分自身の言葉を伝えるうえでの(先ほどは「美学」と言いましたけれど)ある種のこだわりのようなものが,絶対に関わっていると思う.

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観念モデルとしての「ネットワーク感覚」

──あと「ネットワーク感覚」の方は,いかがですか?

関口:「ネットワーク感覚」というのは,もう少し概念的なものの中で,人間にもともと内在している関係性や接続性のことで……たとえば「親と自分が」あるいは「高校時代の同級生と自分が」どうつながっているのかを思い浮かべると,想起する対象の顔が思い浮かんだ時に,本来なら接続感も同時に感じているはずですよね.誰かとか何かとか,対象物として考えないで,それらと自分がどういう関係性があるのかを漠然と思い浮かべる,そういう感覚は誰もが持っていると思います.
 ただ,それが当人にとって,何が代表的なネットワークとして目の前に現われているもので例えるならば……その「何が」ということまでは答えられるけれど……でも,それはもう存在論的/観念論的な問題になってしまうから,完全に哲学の領域になってしまいますよね.
 ただ,インターネットを筆頭として,ネットワーク・インフラがここまで発達したので,そういう接続性やネットワークについても,ある程度は同じプロトコルでつながっているんだな,という感覚は,現状より持ちやすくなった気がします.その接続感の観念モデルが「ネットワーク」という言葉なわけじゃないですか.それがブツとして出てくると「ネットワーク・インフラ」になる.そこで実際に行なわれていることは「双方向性のコミュニケーション」なわけでしょう.単純にそういう状態を把握したとして,それがツール化した時に,どういう特性がその全体に包まって入ってくるのかも含めて,おそらくそういう映し込みをしているはずなんですけどね.
 ただネットワーク全体に関しては,それを観念モデルとして考えれば,それほど難しくないし,イメージの世界でやることと,それがパッと現実化したときにどうなるのかは,僕自身の中ではわりと簡単に結びついている.今はインターネットもケータイもあるけれど,それがない時代……つまり電話だけの時代には,じゃあ「ネットワーク感覚」がなかったかというと,あったわけでしょう.電話のない時代には,どうしていたのか? 単純に情報のやり取りの仕方は違っていても,ネットワークの相手先とか,どういう人とつながりを持っているのかという感覚は残っている.それがそのまま,ネットワークの観念モデルとしてあるわけです.

──研究や技術開発にも流行り廃りがありまして,たとえば10年前だったら,ヴァーチュアル・リアリティ(VR)という言葉がもてはやされ,「セカンドライフ」あたりが「次なる新しい世界観である」というように言われていました.その昔はVRにネットワーク感覚を感じていたけれど,今ではAR(Augmented Reality:拡張現実)の方にネットワーク感覚を感じている人が多くなってきているような気もするのですが,いかがでしょうか?

関口:結局はVRもARも,人はそれらをインターフェイスとして見ているわけで,技術的なシステムとしては,もっといろんな出方が本来ならあったわけでしょう.「VR,ARはこういうものだ」といった一種の窓口として捉えているだけで,実は仮想現実として目の前に見ているものは,世界の全体を表わしているものではなくて,ある特定のモデルをグラフィカルな一面として提示するインターフェイスでしかないわけですよね.
 ただ,技術革新によって新しい技術が提示された時に,そこにどういう利便性があるのか,それらを含めた期待感というものがある.その期待感が現実運用された時,その運用と現実が一致しなくなることが起きる.その時に(流行り廃りではなくて)「現実の運用にそぐわない」とか「今の自分の要求にそぐわない」というところで,結果的に流行らなくなってゆく……という流れは,実際にあると思う.
 ただ,仮想現実に現われているのは,あくまでもモデルとして表象されているものだから,それは「入り口」ではあるけれど,それ自体をネットワーク感覚だとは思っていないですよね.「PostPet」とかも,色々とつながっている要素をひとまとめにして,1枚のインターフェイスにして「こういうモデルです」ってやっているわけだけれど,あくまでもインターフェイスの入り口へと導入しているだけなので…….ただ,そういうものが作り出す世界に対して期待感があるうちは,やはりさまざまな接続性を持ったものとして期待するでしょうね.ただ(先述したように)実運用した時に現実にそぐわないものになっていけば,自然と使わなくなる.そういう話でしかないと思う.
 あと,あなたが最初の方で「空間」と言っていたのは,あくまでも三次元空間の話だったのかもしれないけれど,別に一次元でも二次元でも,三次元でも四次元でも,五次元でもn次元でも,ネットワークというものは存在しているわけです.その感覚を持っているのと,目の前に現われているインターフェイスを現実の空間の入り口としてネットワークとつながっていく感覚を持つのとは別物で,後者で現われているインターフェイス“自体”がその裏側にあるものをどれくらい表示しているかは,それぞれ別問題ですから.

──「モノがあって,ようやくつながりの感覚が持てる」みたいな感じで,自分の中では「サイバースペースがあって,初めてネットワークができあがる」ようなイメージがあったわけです.でも関口さんから「そうではなくて,そんな道具がない時から,人間はつながりの感覚を持っていた」というお話を伺ったのが,衝撃的でした.

関口:サイバースペースそのものは,別にあなたの「心の中にある世界」なわけだし,それを取り出して「こういうふうに見ている」というのも,あなた独自のネットワーク感覚なわけで,他人にとっての“それ”は,現実のレイヤーとして存在しているかもしれない.だから,それはまた別物ですよね.構造的にネットワーク感覚は持っているけれど,それを完全に仮想のものとして取り出して,「自分はいつも客観的に見ている」というふうに感じる人もいるし,その中にどっぷり浸かることで「つながり」を感じている人もいるでしょう.それは同じ空間内の話というだけで……そこにあまり差はないと思う.今,現実にそういう中にどっぷりと浸かっているのなら,あえてわざわざ仮想化して,無理に客観視しなくてもいいのでは.

──自分はそれこそ「サイバースペース」というものでモデル化していたのかもしれないのですが,今の人はそういうモデル化をしていないのでしょうか?

関口:いや,意識的であろうがなかろうが,必ずやモデル化をしないと物事を考えられないし,関われないと思う.だけど,それがどうなっているのかまでは気づかない,というだけの話です.ただ,サイバースペースというものを忘れているのは,本当は自分がサイバースペースのど真ん中に立っているはずなのに,その感覚を意識しないようにして,自分というものが存在しない「空虚なサイバースペース」を作り出すことが良しとされていた……というか「それが未来だ!」みたいなイメージを,みんなが抱えていた時期があったような気がしたけどね.たとえお風呂を湧かしても,湯船に浸からないと「暖かい」とか「気持ちいい」とかの感覚が分からないのに「どうして風呂に入らずにそういう感覚が分かるの?」みたいな話で,本来だったら「そこ(サイバースペース)の中央にいるはずなのに,どうしてそこにいないフリをしてるの?」ってことですよね.

──この「Twitterの中のわたし」という言葉を拡大解釈してみますと「タイムラインに残されるログにこそ,自分というものが反映されている」ということではないかと思ったのですが,いかがでしょうか?

関口:インターフェイスとして,そこに「Twitterならではの世界観」があって,その中に自分が存在しているわけだし,一応の存在証明にはなっていると思うけれど…….

──そこでのネットワークを「形あるもの」として捉えるのではなくて,「モデル化された世界に漂っている」というか…….

関口:あくまでもそれはツールの特性でしかない.情報の存在の仕方とか提供のされ方とかが,Twitterというツールの特性として,そういう状態を持たせるように設計されている.だからといって,その状態を何か言い表わすような手段があるかというと,必ずしもそうではないような気もする.
 同様のツールが3つ,4つと出てきた時に,Twitterだけではない,そういう情報の存在の仕方が可能であれば,何か別の呼び方がありうるのかもしれない.だけど,今のところは「ツールはツールじゃない」ということ.つまり「サイバースペース」じゃなくて「サイバープレーン」というか……基本的には鳥瞰図的平面なんですよね.ある程度,目に見えている関係性の世界の中で,たとえば自分のログであれば,それは“自分”という形で常に見えているから,そこは明らかに違うけれど.
 「Twitterの中での仮想の感覚」と「現実の中の私の感覚」が,実際にTwitterを使ってみて初めて重なったということは,Twitterによって初めて「ネットワークの中の自分」に対して感覚を持った証しだとは思う.
 だけど,そこから色々なものにどうつなげていくのかというのは,また別の話ですよね.ただ,今の質問を聞いていると,そういう感覚をその時点で持ったということは,以前のネットワーク感覚に対して疑問を持ちはじめている自分がいるのだろうな……とは思うけどね.今まではやや違和感を持っていた「インターフェイスの中での自分」という感覚が,Twitterによって初めて,存在価値のある何かに変わったのだ,というか.
 でも,そういう部分は,僕みたいな者にとっては,その「生っぽさ」が辛いところでもある.その「生っぽい感じ」にはちょっとタッチしたくない,という感覚がありますから.逆に,普通のメールの中からそういうログ的な感覚=Twitter的な発言の要素が,本当に減ったと思います.昔だったら,メールの履歴をバーッと見ていけば,そういう流れがある程度は読めたのだけれど,今はそういうものが一切消えてなくなって,みんなTwitterの方に移行しちゃっている.メールそのものは今,即時性がどんどんなくなっている…….

──「今のメールには“私”というものが,あまり表われていない」ということですか?

関口:「表われていない」ということはないけれど,そういうものが「出てきてしまう」機会は,確実に減っているように思う.メールだと「こういう装いで表に出ていく」というマナーというか,そこでのモードが多少は決まっている.だけどTwitterの場合,とにかくものを言いたいわけだから「あッ!と表に出たらパンツ一丁だった」みたいなケースが,まだまだありますから.

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大まかな全体像を把握するツールとしてのTwitter

──今回は「Twitterの中のわたし」というタイトルですが,さらにそれを敷衍すれば「情報環境の中のわたし」という,より漠然とした問題設定が現われてきます.早い話が,この現代社会の中で,Twitterを筆頭としたコミュニケーション・ツールやサーヴィスのアーキテクチャによって,自分でも意識しないところで何かをさせられていたり,何かに操作されたりしているのではないか……という不安感のような(大袈裟に言えば,映画『マトリックス』の世界観のような)ものを想定した時,自分のようなちっぽけな個人はそれに抗うことができるのだろうか,という問題設定です.
 まあ,さすがにそこまでは行かないとしても,現代社会において無意識的に行動を制御されている側面なんて多々あるわけで,少しでもそこを自覚すれば,ネットワーク感覚や世界観もまた変わっていくのではないか,という気がするのですが,いかがでしょう?

関口:でも,「このツールを使うぞ」という自分の選択が,ある種の誘導に導かれていたとしても,どこかしらで「自分の姿」がそこに反射して,見えているはずだけど,それに「気づく/気づかない」は,もう個人の問題ですからね.
 目の前に映っているものが鏡の中の自分の姿なのか,それとも映像なのか……という判断は,それこそ個人に委ねられているでしょう.「風呂に入る前には全裸になるのが当然だと思って入っていたら,実はパンツを履いたまま風呂に入る人もいたことに気づく」みたいな違和感を,そこで感じることだってある.
 たぶんTwitterの中にそういう人が出てくると,違和感を憶えるユーザもいるでしょうね.その「いつもパンツを履いて風呂に入る人たち」が別の集団のモードに引きずられていくのかどうか,というポイントもある.今でもそうした(ゆるめの)グルーピングはあると思います.たとえば政治家がTwitterをやっているのだって,明らかに一般のTwitterユーザとは別の意図があるわけだし.

──Twitterってただの流行もののようにも見えますが,この盛り上がり方を見ていると,決して一過性のものではないのかも,という気もするのですが.

関口:アンケートといっしょで「100人に聞いたら100人が返してくれる」わけでは決してない.アンケートを返してくれる人の比率とTwitterをやっている人数の比率って,あまり変わらない感じがする.それが全部じゃないから全体を現わしていないかというと,そうでもない.反対に「極めてきれいに全体を現わしているようなコミュニケーション・ツールかもしれない」という気がします.だからTwitterに出てくる情報を見ると,ある程度はそこでの状況の全体像が把握できる感じがする.言ってみれば「選挙速報の出口調査」みたいなものですよ.
 でも,Twitter上の発言なのか,それとも個人の発言なのかが分からない情報って,日常会話の中にもたくさんあるし,本人もその区別がつかずに喋っている場合だってある.本来的にはTwitterだって「One of them」の情報でしかないはずだけど,でも何となく「これってみんなが考えてることだろうな」という,まさに「One of them」として直感的に聞く場合とそうじゃない場合があって,人間の能力がけっこう凄いのは,そういう判断をある程度瞬間的に把握できたりするんだよね.
 そういう意味では,Twitterの一番面白いところは,今現在の不特定多数/過半数の人が,「だいたいこういうふうに考えているだろう」というような最新の意見が,ある程度はそこに反映されているという部分でしょうね.実際に得られた情報が「あ,やっぱりそうだよね」って思わせるものは……ブログやホームページや他のソーシャル・ネットワークではなくて,Twitterの中でポロッと出てきた言葉だったりする.今現在,そういうアンテナに一番引っかかりやすいのが,Twitter上の言葉ですね.

──それは「フレーズ的なキャッチーさ」で,ということですか?

関口:いや,キャッチーさとは違います.結局のところ,コマーシャルでも製品でも作品でも,「やっぱり自分はこう考えていたんだ!」と気づかされるような言葉や情報って,その中に内在しているでしょう.そういう言葉や情報って,過去の文献や資料から探してくるのとは,また違うところがある.だから繰り返すと,Twitter上では過半数意見のひとつとしての「情報」を拾いやすい気がする.でも,なぜそうなるのかは不思議なのだけれど……でも,そこの違いは,Twitterが他のツールとは決定的に違っている部分であり,面白さであり,新しさだとは思いますが.

──では最後に……メディア・アートとTwitterって,何かつながる部分があると,関口さんは思われますか?

関口:メディア・アートというよりは……基本的にツール自体が社会を表わすものとか,コミュニケーションを表わすものとして,ある程度共通の立場を持ち始めた時には,アーティストはそれを利用して何か新しい世界観を打ち出すでしょう.そういうふうにアートの中で利用はされるけれど,だからといってTwitterそのものがアートに変換されるかというと,それはまた別の問題.ただ,社会を表わすひとつのツールにはなりつつあるわけで,その時点でアートの記号として使う分には十分だと思う.
 あとは,Twitterの特性みたいなものをどこまでアーティストたちが拾い出してアート作品にしていくのかは,まだよく見えないところがある.今は反応の早さとか,文字数が少ないから扱いやすいとか,即時性で変化させたりできるという部分でもって使われているようだけれど,それ以上のアーキテクチャに関わる部分も含めたTwitterの特性までアーティストが使い切れるかどうかは,正直よく分からない.
 以前だったら,ネットワークを何らかの表現に使ったとしても,反応がなくてあまり機能しないということも多々あったけれど,Twitterの場合,とりあえず数の確保はしやすいツールであることは間違いないですよね.だってサクラでもいいから,5—6人でバーッとやり始めれば,一気に人が集まってしまうわけだから.でも,どうせやるならば,それ以上のことをやってくれた方が楽しい気がしますね.

[インタヴュー収録日:2011年3月19日]

関口敦仁インタヴュートップ

インタヴュー

アーキテクチャ論をめぐって

鈴木謙介

SUZUKI Kensuke

ウェブ空間に〈偏在する私〉と「Twitterの中のわたし」

『ウェブ社会の思想──〈偏在する私〉をどう生きるか』(NHK出版,2007年)を書いたのは,まだTwitterがブームになる前の話でしたが,そこで僕は「“私”という存在がヴァーチュアル世界の無数のデータとなって,それが現在のあらゆる場所に現われるようになる結果,“私”は(従来通りの)“私”でいられるか?」みたいな問題提起をしました.かたや今回のウェブ企画「Twitterの中のわたし」の問題設定は「Twitterの流行以前と以後で,“私”なるものの認識に何らかの変化がもたらされたのか? たとえばユーザの多重人格的な側面が,そこでは強調されるのか,否か?」といったものでした.そこでまず〈偏在する私〉というトピックを足がかりに,お話ししてみます.

まず「現代人が多重人格的な構造を取りがちである」というポイントについて,それってインターネットに限らず,総じて現代社会って,そういうものですよね.たとえば今,インタヴュー収録をしている“私”は,当然のことながら,先週末に友達と酒を飲んでいた時の“私”とは全く異なったパーソナリティです.さらに,今日の取材を上司に報告する時のあなたは,今現在とも休日のあなたとも違った顔をしているはずです.このように現代社会に生きるわれわれは,ただでさえさまざまな役割に縛られているし,その時々の役割に応じて,いろんな人格を使い分けなくてはいけない.

こうした「複数の人格の使い分け」がうまくできずに,完全にバラバラになってしまう状態が,心理学用語で言うところの「乖離」です.普通の人はそれでは生きていけませんから,何らかの形で折り合いをつける.たとえば,学生時代はバイト先で働いている時の自分が「ウソの自分」のような気がしたけれど,社会人になり仕事にも慣れてゆくと,仕事中の自分もプライヴェートで友達と会話している自分も,いずれも“自分”の別の局面なのだというふうに,「統合された存在としての“自分”」を認められるようになってゆく.

その「いろんな自分」を眺めつつ,統合的なひとつの自己としての“自分”を認められるようになることを,自己同一性=「アイデンティティ」の獲得と呼ぶわけですが,この「役割によって少しずつ違うけれど,いずれも本当の“自分”なのだ」という確信を,人はどうやって獲得するのか.名だたる心理学者や社会学者たちの関心の中心はそこにありました.

かたや『ウェブ社会の思想』中では,またちょっと違った話をしていまして……平たく言えば「ウェブ社会における“私”なるものは,普段の自分が意識的に……たとえば友達の前,あるいは上司の前で,提示しようとしているような“私”とは,もはや関係がなくなりつつある」というのが,僕の主張です.

大量のログ・データがネット上に蓄積されてゆく将来,ある人が“あなた”を見る時に,たとえば「20代の女性だ」とか「過去に鈴木謙介の本を4冊購入している」とか,そういう蓄積されたデータで作られたプロファイルの中から生成されたあなたのプロフィールの方が(好むと好まざるとに関わらず)見られるようになる.ネットワーク空間のあちこちから,そういう人物像が噴出してくるわけです.

たとえばAmazonのデータから見えてくる“あなた”と,職場の同僚が認識している “あなた”とでは,全くの別人ということもありうる.「Amazonのデータから見えてくる」“あなた”というのは,登録している住所やクレジット・カード番号,購入履歴,etc.イコール“あなた”ということです.

と言うのも,Amazonがそうした個人データをただ蓄積しているだけならまだしも,彼らはそれを使って個々の利用者に色々な情報を提供するサーヴィスも行なっているからです.これが高度に発展したウェブ社会=ユビキタス社会の正体です.最近の話ですが,東京都の一部で「高齢者が通ると自動的にその信号だけが(青信号の)点灯時間を延長する」というシステムができました.備え付けカメラが高齢者の姿を察知すると,自動的に延長される仕組みらしいのです.そのようなシステムが津々浦々に普及することで,そこかしこに「高齢者としての私」が勝手に現われてしまう.それこそが「ユビキタス・ミー(偏在する私)」の正体です.

つまり,自分が自分をどう表現したいのかという意思や事情や都合とは全く無関係に,従来の自分のさまざまな活動履歴,あるいは自分で登録したデータ情報等に基づいて,いろんな“自分”がウェブ空間上に勝手に現われてくる.ただ(『ウェブ社会の思想』を書いた)その時点では,ユーザが「他人に自分をどう見せたい/見られたい/振る舞いたいのか?」ということにまでは触れていません.だけどTwitterは,どちらかというとそちらの部分にとても関係の深いツールだと思います.

鈴木謙介

社会学者,関西学院大学准教授.TBSラジオ「文化系トークラジオLife」,NHK教育テレビ「青春リアル」のメイン・パーソナリティを務める.インターネット文化,若者文化,消費文化などの観点から現代社会に対する鋭い分析を行なっている.著書に『カーニヴァル化する社会』(講談社現代新書),『ウェブ社会の思想ー〈遍在する私〉をどう生きるか』(NHKブックス),『〈反転〉するグローバリゼーション』(NTT出版)),『サブカル・ニッポンの新自由主義』(ちくま新書)など多数.愛称はチャーリー.

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Twitterのコミュニケーションで有効なこと/苦手なこと

いくつかの補助線を引いてみましょう.Twitterは有名人や芸能人が積極的に使ったことも話題になりました.では,なぜ芸能人たちはTwitterを使い始めたのか? ブログにせよ,2ちゃんねるにせよ,匿名のネットユーザは芸能人の中にもたくさんいました.でもTwitterは明確に,芸能人の営業情報やイヴェント告知,あるいはファンとの交流を目的としたツールとして使われる傾向が強い.

まぁ,中には匿名でひっそりとネットを使っている芸能人もいるのでしょうが,巷で話題になっている芸能人のTwitterブームは,言わば(事務所公認の)公式アカウントでやっているわけですね.その理由はTwitterが「統一的なキャラクターを持った個人のタイムラインとして読者に読まれやすいから」です.言い換えれば,芸能人の24時間の日常生活から,出したい情報だけをつまみ食い的に提供できるツールだから,タレントとしての“自分”をアピールするのに,とても都合がいい.

だから芸能人ブログ・ブームの時もそうでしたが,人気絶頂の大スターよりも一部で局所的な人気があるタレントの方が,そういうネットワーク・サーヴィスを積極的に使っている印象があります.もちろんタレント自身,投稿するのが楽しいからやっているのでしょうけれど,やはり大きな理由としては「自分をタイムライン上で都合よくアピールできる」ところがポイントでしょう.

これが本当に24時間中断なしでウェブ中継されちゃったら,さすがに困る(笑).ブログのように,気軽に更新できるツールだということもありますが,その前段階として,自分のプライヴェートやオフショットを,ネット上に細切れに出していくことで,あたかも当人の一日が分かったような気がする.タレントにとっては,それが好都合だったのでしょう.

もうひとつTwitter関連で以前話題になったのが,加ト吉(テーブルマーク株式会社)の営業部長のつぶやき.もちろん「Twitterはビジネスでも使えるぞ!」という触れ込みで,さまざまなところで注目されましたが,この「加ト吉のツイッター部長」が話題になったのは,顧客や消費者とのコミュニケーション・ツールとして,単に自社の製品やサーヴィスを一方的に宣伝するだけではなく,逆に単なる一個人としてプライヴェートにつぶやいているわけでもない「ひとつの統一的なキャラクターをもった営業部長なる人物が,自社の宣伝も兼ねつつ,フォロワーの人々とコミュニケーションした」ところが非常に面白かったわけです.

ここでも「社会人/公人としての“私”」と「本人/私人としての“私”」がTwitterの画面上で結びついているわけです.ただし両者が100パーセント結びついているわけではもちろんなくて「他の人から見たら,全てが結びついているように見える」だけです.つまり上手に利用すれば,Twitterとはより統一的な“自分”をフォロワーにアピールできるツールなのです.

じゃあ,いろんな人格を使い分けて現代社会を生きているはずの“私”たちが,そうやってTwitterで,他の人から見たら「あれもこれも,全部この人!」って見られてしまうような状況下で,ダダ漏れ的につぶやきまくっていると……ネット・リテラシーがない人だったら,すぐ炎上しちゃう(笑).たとえばプライヴェートでつぶやいた内容が匿名掲示板等に引用され,晒されるなどして炎上する場合がある.あるいはお酒の勢いで迂闊なことを言ってしまった人が(ツイートした発言内容はずっと残っていますから)後になってその発言責任を責められる.また,最初に聞いた時には確定情報ではなかった内容を「こういうことがあるらしいぞ!」とTwitter経由で広めてしまい,結果それが風評被害を引き起こした……等々.

そうした形で,本来ならばさまざまな“私”の使い分けの中で,完全に自分自身の発言であるとは扱われなかったものでさえ,全て“自分(の発言=意見)”にされてしまう.これは,ある一定の期間,インターネット上にログが残ってしまい,誰でも閲覧可能であるという性格のものだからこそ,「あれもこれも××××さん(の発言)」と見られてしまう事態が起こるわけです.

だから「インターネット上では迂闊なことをつぶやかないようにしましょう」とみなさん言いますけれど,「迂闊なことをつぶやいてしまう」という行為の本質には,そういう背景があるわけです.これが友達の前でプライヴェートに喋っている“私”であれば,多少脱線した発言でも,その友達は許してくれるだろうけど,それがインターネットのログだと(目にする人間はあなたの友達ではないので)全然大目に見てくれない.

あるいはその逆もしかり.たとえばテレビ局の局員やタレントはさまざまな社会的背景や人間関係を背負っていますから「言えること」と「言えないこと」があるのは当然です.だけど,外野からしてみれば「何で言わないんだ!」となる.そうした「裏表を許さない」傾向が,Twitter……ひいては現在のウェブ社会には存在していて,“自分”というキャラクターを売りたい人にとってはプラスだけれど,そうじゃない人にとっては「あれもこれも全部,お前(“自分”)の責任だ!」って言われてしまうという,ちょっとやりにくい世の中なのではないでしょうか.

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「フロー」するコミュニケーションと「ストック」するコミュニケーション

次に「昨今のTwitterブームを支えているのは,言わばユーザのライフログ願望に近いものがあるのでは?」というご質問にお答えしますと……とはいえ,僕が見る限りでは,Twitterをライフログとして使っているユーザは少数派だと思います.というのも,コミュニケーションの中にも,経済学で言うところの「フロー」(流れてゆく情報)と「ストック」(蓄積される情報)があり,特にウェブ・アーキテクチャの場合,この2つが同時に成り立つことは困難だったからです.ただしGoogleサーヴィスの普及以降は,その両立がある程度可能になってきています.

たとえばGmailのアーキテクチャは,「INBOX」という受信フォルダに日々のメールがフローで流れてくる.そこで読み終わったメールは,ラベルを付けてアーカイヴに放り込んでしまえば,後で検索すればいい.つまりGmailは「フローとストックが一体化したアーキテクチャ」なのです.ところが(ご存じのとおり)Twitterって,検索精度がとても低い.事後的に自分のログを検索しようと思ってもうまくできない.「当人でも検索できない」ということは,他人が検索して過去のタイムラインを遡っても,その人となりを分析するには,あまりにも使い勝手が悪い.もちろん時間をかければ,ある程度まではできなくもないのでしょうが,APIの制限も考慮すれば,そんなに現実的ではない.そう考えると,Twitterのつぶやきを自分のライフログにしたい人は, Evernoteに同時保存するとか,あるいは別のサーヴィスを利用して,そちら側でアーカイヴ化するくらいのことをしないと,まともなログ・データにはならないでしょう.

ただ,以上の解説は,ライフログをストックとして考えた場合の話ですが,それとはまた別途に「フローとしてのライフログ」なるものもありうるのではないか.「ストックとしてのライフログ」とは,検索するためのデータが豊富に残っている状態のことですが,そうではなくて,たとえば一定期間だけ残るログですね.それをもとに「先週,あんなことをつぶやいていたけれど,最近は元気だ!」とか,あるいは「このあいだ書いていたアレ,面白いよね!」ってリアルで話したり,さらには,全然話したこともない他人が,YouTubeにあるアーティストの楽曲をアップしているのを見つけて「この曲好きだったんだ!」と言って交流が始まったりするとか.

ウェブを閲覧している人に対して,ストックこそされないけれど,相手の記憶に何らかの印象を形成していくツールとでも言いましょうか…….つまりライフログの中でも,当人の完全なデータとしての履歴ではなくて,やがて流れて消えてしまうのだけれど,たまたま視聴していた人にとっては,何らかの記憶に残るようなものが「フローとしてのライフログ」です.

それの何が重要なのかというと,とても簡単な「自己紹介ツール」になるからですね.最近はアメリカでも日本でも,就職活動中の学生のTwitterやFacebookを雇用する企業側がチェックする振る舞いが流行っているらしいです.実際,どれくらい実施されているのかはまだ分かりませんが,どうやら,それなりにやられているらしい.何のためかというと「それらのリソースから,就職希望者の人となりを一定程度知ることができるから」だと思います.読んだだけで完全に分かるものではないけれど,ある程度なら(それらの情報から)判断できるし,そういう様子見は,採用企業に限らず,友達同士でも起こっているように思います.

それは,Twitterが「統一的なキャラクターを見せるツールになっている」という事実とも関係してきます.つまり,統一的な人格の見せ方として(完全なログではないとしても)疑似的なライフログとして,見ている側にとっては,ある程度使える情報になっている.ある人物の人格や性格を表わすものとしては,たとえば「履歴書」がありますが,それとはまた別に,行動履歴やつぶやきの履歴(それこそ「××××なう」のような,断片的なデータ)が「その人の人格である」と理解されうるようなツール,それがTwitterだと言えるではないでしょうか.

だからこそ,たとえば最初は勢いでTwitterを始めてみたものの,他人からの反応があまり見られずに「つまんないな」と思っていたら,徐々にフォロワーや友達が増えてきて,そのうちわけの分からない奴からもリプライが返ってくるようになり,慌てて鍵をかける……というような事態が起こる.なぜかというと,自分の発言履歴に基づいたプロファイルを知られたくない他人が,オンラインには一定数存在するからです.

同様の事態はmixiボイスでも起こっています.こういうつぶやきを使ったツールは,統一的な人格に見せてしまうものだから,見せたい人を限らざるをえない.「あれもこれも全部,お前の責任でつぶやいたんだろ!」って言われたり,自分のプライヴェートを公開して,非難や嘲笑に耐えられるような人は(それこそ公的に発言することに慣れていないと)そう多くはいません.だから津田大介さんがTwitter界隈で人気なのって,すごく分かりやすい.だって,彼は天然だから(笑),そういう自己防御を一切していません.逆に計算していたら,あそこまで人気は出なかったと思いますね.

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ショート・メールの次なるコミュニケーションが,Twitterだ!?

続いて「Twitterのつぶやきは,従来の電子メールに代わる何かになりえるか?」というご質問ですが……そもそも,Twitterとケータイ・メールとでは,重なる部分と重ならない部分があります.まず「重なる部分」については,『カーニヴァル化する社会』(講談社現代新書,2005年)でも書きましたが,要するに「ケータイ・メールは単なる通信手段ではない」ということ

社会学ではそれを「コンサマトリーなコミュニケーション」と呼ぶのですが,簡単に言い替えれば,ある種のケータイ・メールとは「それ自体が目的であるようなコミュニケーション・ツールである」ということ.つまり,何か用件があってメッセージを送信するのではなくて「メールのやり取りがしたい」という気持ちが目的になっている.そうすると「今ヒマ?」みたいな他愛もない内容を送ってくるわけです.さらに相手が気心の知れた友達や恋人になってくると,メールの書き出しとか「うにょ〜」とか言って,もうわけが分からない(笑)意味のないやり取りをし始めるわけですが,あれも具体的な内容こそないけれど,「コミュニケーションを始めましょうよ!」というサインのような役割ですよね.

コミュニケーションのリアクションが返ってくれば,別にどこに出してもいい.でも「うにょ〜」とかやって,ちゃんと返してくれる人ってそんなにいないから,彼氏・彼女に甘えてやっているわけで,誰もがそれに返してくれるなら,たぶんみんなに送信すると思う.そういう「どこに送られるわけでもないのだけれど,あてどなく送られるケータイ・メール」なるものが,Twitterのツイートに代替される可能性は,十分にあります.「その人には直接言えないけれど,自分の今の気持ちを分かってほしい,きっと見てるはず!」みたいな,俗に言う「ほのめかしツイート」ですね.

要するに「自分が見られている」と思うと,その「見られている自分」を取り込んで,それに合わせて振る舞うようになる.このことを社会学では「再帰的モニタリング」と呼ぶのですが,自分がしたいように行動するのって,なかなか難しい.他人がどういうリアクションを自分に求めているのか,あるいは「誰々が見てる」って思うと,それに合わせて行動が決定づけられるようなことが世の中にはたくさんあって,メールでもそのようなことが行なわれていたけれど,Twitter上でもよく見受けられますね.むしろ「一対一」でないぶん(ほのめかしツイートを含め)メールでは実現できなかったことがTwitter上では実現できるようになった人も,いるのではないでしょうか.

一方で(Twitterとケータイ・メールでは)重ならない部分もあるわけで,端的に言ってそれは「一対一ではコミュニケーションしづらい」ということ.「@(アットマーク)」で返すことも可能ですが,鍵をかけていなければオープンなわけで,第三者が閲覧できちゃうし,自分がメッセージを送りたい相手以外にも見ている人がいるから,メールのような秘密の手段にはならない.

Twitter内のコマンドで,ダイレクト・メッセージという機能もあるにはありますけれど,あれって基本的に普通の電子メールと大差ないですよね.そういう意味で,自分というものをオープンに提示し,統一的な人格になりつつ,他人に「そう見えている」ことを前提に,人の目を自分の中に取り込んで自己提示するツールとしては,Twitterもそこそこ使えるだろうし,「文字で自分を表現し,そちらの方が(メッセージの送り手よりも)本体的になる」という意味では,メールとよく似ている部分も当然あります.

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コミュニケーションの“速さ”ではなくて“利用者人口”が必要なのだ

さらに「Twitterの普及によって,コミュニケーションの速度自体がより速まっているのでないか?」というご質問にお答えしますと……インターネット上で起きている変化って,みなさん技術の方に注目しますよね.でも僕は社会学者なので,もう少し別のところに注目しているのです.特に昨今の(「Web2.0」と言われだした頃くらいからの)ソーシャル化の流れに関連して,最も注目しなくてはいけない部分って……いわゆる技術面じゃなくて,実は「利用者人口」の方だと思うんです.

新興のソーシャル・サーヴィスの多くは,単に「人と人がコミュニケーションできる」ことが特徴なのではなくて,「よりたくさんの人が同時にコミュニケーションしている」ことが意味を持つサーヴィスが多い.ほとんど書き込みのない掲示板をそんなに毎日見ますか? 友達と2人で毎日書いている掲示板が,そんなに続きますか? 一般的に,たとえ自分が何もしていなくても活発なコミュニケーションが行なわれているサーヴィスに人気が集まるわけです.これを支えている要員って,ぶっちゃけ「人口」でしかない.利用人口が増えてこないと「盛りあがっているな!」っていう気分にはならないのです.

この「Twitter以前/以降」という線引きに,あえて乗っかって考えたとすれば……インターネットの利用人口自体が増えたこともありますが,Twitterで積極的に情報発信する人,しかも芸能人や作家のような有名人のオフィシャルな利用が増えたことは事実でしょうね.これは多くの人にとって,ウェブ・サーヴィスなるものが,自分からは何も発信しなくても,たとえば「宇多田ヒカルのTwitterを見てるだけで全然オッケー」みたいなものとして成熟していくことを意味しています.

最近書いたブログ記事の中で,僕は「Facebookはよりそちらの方向をめざしている」って書きましたけれど,基本的にコミュニケーションの量が増えていくのが,コミュニケーション・サーヴィスの面白さを左右するのだと言えば,コミュニケーションの発信を担う人,つまり(発信を)仕事としてやらなくてはいけない人が増えていることが,おそらく今後の利用人口の拡大にさらなる拍車をかけるでしょう.また,それにつれ「気軽にコミュニケーションをするべきだ」というマナーや規範のようなものが形成されつつあることも,それに拍車をかけるでしょう.

つまり,Twitterを始めれば,自分の好きな芸能人に「@(アットマーク)で(たとえリプライは返ってこなくても)何か発言できる」っていうこと.それが一読者を一読者のまま「もしかすると返事がくるかもしれない」ポジションに引き上げることになるので,少しだけ,Twitterをやる意味を大きくしますよね.恐らく今後も引き続き「コミュニケーションが盛りあがっている」ことが利用の動機を形成するでしょうし,逆に「盛りあがっていなければ(そのサーヴィスを)使わなくなくなる」という状況も,あまり変わらないでしょう.

そうしたコミュニケーションの量が増大している現状が「コミュニケーションの速度が速くなっている」という錯覚を生み出すのだと思います.「あるウェブページを更新してみたら,たくさんの人が書き込んでいた」というのは,別に速度が早くなったわけではなくて,同じ時間に書き込んでいる人のコメント数が増えただけです.2ちゃんねるの実況スレなんかもそうですよね.だから「24時間が早くなった」わけではない.

また,その多数の書き込みに自分が返事をしなくてはいけなくなったわけでもないのだから,自分自身が書き込む速度だって,前よりも早くなっているわけではない.でも,先日サッカーの実況スレとか見ていたら,一瞬にして300件くらいの「シュート決めターーっ☆」みたいな書き込みで埋まったりする.そうすると「オレも何か書かなきゃ!」みたいな気分になってくる(笑).「スレの流れが速い」とか「タイムラインが早い」っていう事態は,コミュニケーションの速度が速くなったわけじゃなくて,量が増大したのです.だから「量的な拡大が利用を促す」という話も,まさにそういうこと.

ちなみに速度が速くなったように見えるのは,そこでのコミュニケーションがフローだからですよね.だってストックならば,1000件のコメントでも1万件でも,読みたければ後でじっくり読めばいい.でもフローなので,今現在積極的に更新しているその1000人に付いていかなくてはいけないように思ってしまう.フロー性の高いコミュニケーションは,コミュニケーションの量が増えていけばいくほど,言い替えれば「追いつけない!」と思えば思うほど,「追いつかなきゃ!」って思わせるようになる.

そういうコミュニケーションの連鎖≒「祭り」のようなものを容易に引き起こさせるのは,今のところ,閲覧者全員にある種の一体感を感じさせるようなイヴェント……国同士が試合をするスポーツ中継とかになっていますから,Twitterというツール単体が,コミュニケーションを大きく変えているということではない気がします.

「If」(もしも)の話をしても仕方ないですが,たとえば現在の日本が,ワールドカップやオリンピックに一切見向きもしない国だったら,こんなにインターネットが盛りあがっていただろうか,と思います.やはり,何かを見ながらそれについてコミュニケーションをする.テレビの実況だから(同じ番組を)観ている人が多い.そこで一瞬にして,スレッドやタイムラインを大量の情報が流れる.それを「面白い!」って思える国じゃなかったら,たとえTwitterのサーヴィスがあっても,そんなに使われなかったでしょう.

当たり前の話だけど,日本以外の国に行けば,Twitterはそういうもの(スポーツや番組実況のやり取りツール)として使われていない可能性があります.だからこそ「Twitterが何を変えたか?」と言うときに,その主語である「“日本社会の”何を変えたか?」という観点を忘れてはいけません.つまり「技術が人間の脳に入り込んで」と言うのではなくて,「テレビの世帯普及率が90パーセントを超えている国だから起きること」と「独裁政権が長く続いている国でのTwitter利用」では,もう全く違いますから,ということですね.

鈴木謙介インタヴュートップ

ウェブ・デザインとアーキテクチャ論をめぐって

最後に,このウェブ企画「Twitterの中のわたし」の企画趣旨をメールでご連絡いただいた際,「いわゆるアーキテクチャ論には,あまり賛同できない」みたいなお返事を差し上げましたが,その点について,若干補足コメントしておきます.「アーキテクチャでは,そこまで簡単に人を操作できない」と思うのはなぜかというと,早い話,リアル空間においてはアーキテクチャ以外の要素が多すぎることが原因です.たとえば「固い椅子にすると回転率が上がる」という喩え話があったけれど,その固い椅子を置いている店の隣に柔らかい椅子の店がある場合と,周りのお店も固い椅子だらけの時では,回転率の上がり具合も変わってくるし,ましてやウェイトレスの女の子の制服がチャーミングなミニスカートだったなら,お客さんもそんなにすぐには帰らないと思います(笑).

つまり,アーキテクチャというのはさまざまな条件の中で駆動するわけで,その設計者の目論見どおりに人が操作されるかというと,リアル空間においては条件が多すぎて,そこまでうまくいくことは難しい.せいぜい統計を取った際に「そういう傾向にある」という程度のものだと思います.

じゃあウェブ・サーヴィスではどうかと言えば,リアル空間よりもウェブの方が比較となる条件は少ない.だから,アーキテクチャが人に対して何かを促す度合も,リアル空間よりも強くなる可能性が高いと思います.とはいえ,そうしたアーキテクチャによって,人が行動を「決める/決めない」という判断について,日本のウェブ・サーヴィスに限って言っても,そんなにうまくは誘導できていない気がする.それこそ濱野智史くんが注目している「ニコニコ動画」にしても,彼ぐらいコミュニケーションの文脈をちゃんと理解して(意味論的なことも含めて)初音ミクの動画を観ている人なんて……そういませんよ(笑).という意味で,今理解されているようなアーキテクチャ論については,かなり疑問なところがあります.

その一方で,アーキテクチャがユーザの行動を左右するようなウェブ・サーヴィスは山ほどある.僕は以前ウェブ・デザイナーだったから,それが肌身に染みてよく分かります.要するに「リンクに辿り着くまでクリック数が3回を越えると絶対に見てくれない」とか「アイコンがすごく目立たないところにあると,クリックしてくれない」みたいなことは,ウェブ・アーキテクチャにおけるユーザの誘導では当然のように意識されている話です.そういうナヴィゲーションに関わるアーキテクチャで,ユーザを適切に誘導できたり/できなかったりするポイントは,ウェブ・デザインに関しても山ほどあります.

だけど,こうした話についてはウェブ評論の世界でも真面目に研究されていません.アーキテクチャの議論が本来持っている「統計的に見て,人が優位に特定の方向に動くことを制御する」というのは,デザイン科学の問題であって,それは視覚デザインと同時にコミュニケーションのデザインでもある.だけど,コミュニケーションのデザインに注目しすぎたために,本来ならウェブ・デザインをがっつりやっている人でもない限り,ウェブ評論家では分からない「アーキテクチャ論」が置き去りにされて,今はコミュニケーションとアートの方に寄りすぎている気がする.

かつて自分がウェブ・デザイナーだった時から,表現主義的なウェブ・デザインってあまり好きではなかったので……むしろ重要なのは,例えば視覚障害を持っている人でもきちんと誘導できるようなアーキテクチャ,とか.でも今は,もっぱら「コミュニケーションを誘導する」部分に集中しているようなので,何か違和感を覚えますね.

今やソーシャル・サーヴィスが中心になってしまっているので……Twitterもそうですが,トップページからいきなり「今なにしてる?」だし,アクセスしたらいきなりコミュニケーション!ですが,昔のウェブ・サイトは,ちゃんとトップページがあって,そこから目的のページまで辿り着いてもらえないと「メールを送る」とか「キャンペーンに登録してもらう」とか,そういうコミュニケーションにまで至らなかった.

だからこそ,どのウェブ・デザイナーもナヴィケーションのアーキテクチャを真剣に考えたし,たとえば視覚障害者向けのデザインも大切な課題だった.もともと僕は軽い色覚障害があるので,紙のデザインには行けなかったのだけれど,ウェブだと色彩も数値で出せるから……しかも当時のウェブ・デザインは人手が足りなくて「俺でもデザインできるぜ!」って言って参入していったわけですが,視覚障害のユーザに対する配慮は,やはりとても悩みましたね.今なら「音声読みあげブラウザ」もだいぶ実用的になりましたけれど,そこを意識していて,かつキレイにウェブをデザインするのは,10年前はとても難しかった.そういう経緯を思い起こすと,今お話ししたような部分のことを忘れてはいけない気がします.

なぜかというと,そうした視覚デザインがもたらすアーキテクチャによる人の行動の誘導というのは,基本的にはコミュニケーションを操作するよりも,相手に意識させないで行動させるから,運用には十分に気をつけなければいけない一方で,基本的に「よいこと」に使えるからです.コミュニケーションを誘発するためのアーキテクチャって言うと,よいことも悪いことも起こりそうな気がするけど,誰でも見やすいデザインで次のアクションを起こさせることって,どちらかというと「よいこと」の方に使えそうな気がしません?

今,Twitterが膨大なコミュニケーションを誘発しているのは確かですが,トップページにいきなり「何か書け」って入力セルがドーンって表示されるデザインがそれを誘発している可能性はあると思います.あれは(検索以外にすることがない)Googleのトップページに匹敵するシンプル・デザインですよね.今はiGoogleのサーヴィスがありますけれど,それこそGoogleのトップページにGmailとか色々なメニューがついた時,ユーザからものすごく批判されました.それくらいGoogleのページ・デザインって完成されていて,検索以外しようがないので絶対に迷わない.それが人に140文字でコミュニケーションを誘発するデザインにもつながっているのでしょうが.

誰も言わなさそうなので,あえて僕が言っておきますと……「コミュニケーションを誘発するアーキテクチャ」って,デザインの段階でかなり工夫されています.2ちゃんねるだったらスレッドフロート型ですよね.画面をスクロールしなくても下のスレッド・タイトルまで見られる.それはTwitterでも同様で,とにかく「書く」しかない.デザイン上,「書く」という行為がメインで,その次に下に表示されているタイムラインを読む,というシンプルな利用が想定されている.

だからFacebookも,みんなよく「使いづらい」って言いますけれど,たぶんFacebookが使わせたい方向性と,みんなが使いたい方向性が合っていないのでしょう.そもそもFacebookのインターフェイスって,そんなに使い込むような設計じゃない.「今なにしてる?」ってチョロっと書いて,他人の書き込みも何となく見て……って感じだから「あまり真剣に見ないでね!」っていう程度のものだと思います.なので僕は,Facebookをあまり使う気がしない(笑).

だから,日本で今成功しているソーシャル・サーヴィスも,技術的な革新性とか,社会的な特徴,たとえば「ユーザ層はここらへん」というような部分ばかりが研究されていて,デザイン・アーキテクチャについてはほとんど語られていない気がする.それはウェブ・デザイナーの地位が,近年どんどん低下しているからでしょう.日本の場合,デザインを評価するコンサルティング……つまりニールセンのような組織が発達しなかったので,ウェブのデザイン“も”できる人が,自分の知識で作っている範囲を大きく超えられていない.それもデザイン・アーキテクチャの議論が日本では進まない,ひとつの理由かもしれませんね.

[インタヴュー収録日:2011年3月3日]

鈴木謙介インタヴュートップ

Twitterの中のわたし ワークショップ・レポート

今回のワークショップのテーマについて

Twitter は140字という限られた文字数で「つぶやき」を投稿するウェブ・サーヴィスです.もしTwitterのつぶやきから「その人らしさ」というものを感じられるとしたら,その人らしくつぶやくようにプログラムされたボットを「その人」として認めることはできるのでしょうか.Twitterのアーキテクチャという視点から探索していきます.

ICC Online | 「Twitterの中のわたし」ワークショップ

ワークショップの構成について

1日目を「思考編」,2日目を「実践編」としたワークショップを2日間に渡って行ないました.
徳井直生氏,田所淳氏を講師にお招きし,徳井氏には「知る,調べる,考える」といった思考的な側面からお話ししていただき,田所氏には「改編する,作る,確かめる」といった実践的な部分を担当していただきました.
また,2日間のワークショップでは会場でのディスカッションと並行して,ハッシュタグ「#icc_ws」を付けたつぶやきでTwitter上のタイムラインでも意見が交わされました.

1日目レポート:徳井直生氏による「思考編」

日時:
2011年2月19日(土)午後1時ー5時
会場:
ICC4階特設会場
ワークショップ参加者:
12名

1| 他己紹介

Twitter上の情報から「その人」を推測します.ワークショップ参加者は3人ずつのグループに分かれ,これまでのつぶやきからお互いの特徴を推理し合いました.

他己紹介

2| ソーシャルとコミュニティについて

Twitterには情報の発信と収集を主目的とするユーザ,コミュニケーションそのものを楽しむユーザが混在しているように思われます.つまりTwitterはソーシャル・メディア,ソーシャル・ネットワーク・サーヴィス(SNS)の両方の性格を併せ持つサーヴィスと言えるのではないでしょうか.また,相互フォローの割合などからおのおのの実社会での人間関係の密度をも垣間みることができるのではないかという考察が行なわれました.

ソーシャルとコミュニティについて

3| システム的観点からのTwitter

Twitterは140字の文字制限がありますが,その140という数はメッセージに意味を込められる最低文字数ということではなく,SMS(ショート・メッセージ・サーヴィス)の140字制限が由来であると話されました.また,言語の違いによって140字で表現できる意味内容には大きく違いがあり,日本語は英語に比べて約3倍の情報量を込めることができ,中国語においては英語に比べて約4倍もの情報量をもつというデータが示されました.それらをふまえ,Twitterで入力できる言語や文字数を変更することでコミュニケーションに何か変化がもたらされるかどうかという実験が,田所氏の作成したTwitterの独自インターフェイス(http://yoppa.org/works/icc_ws/app/)を使って行なわれました.

システム的観点からのTwitter

4| 情報への受動性について

ネットメディアとマスメディアを比べたときに,情報を能動的に選択し深く掘り下げることができる点がネットメディアの利点であると言えます.一方,全く同じ理由で,接する情報が偏りがち,すなわち情報の偏食状態に陥る危険性もはらんでいるとも言えるのではないでしょうか.情報というものに対して,受動性と能動性のちょうど良いバランスを取るにはどうすれば良いのかというディスカッションが進められました.

情報への受動性について

5| プライヴァシー意識の変化

データ解析されて利用されるわたし(たち)のつぶやきについて言及されました.パブリックに投稿されるツイートは,本人の知らないところで一人歩きをしていることもあるようです.また,ウェブの性質上,テキストという形でわたしたちの過去は保存されやすく,保存された個人情報はどういった問題を引き起こすのだろうかといったディスカッションがなされました.

プライヴァシー意識の変化

6| キャラ化するTwitterユーザ

Twitterを使っていると「つぶやく」という行為から「わたしっぽさ」というものが表われやすく,「わたしっぽさ」をうまく定型化しその人のキャラクター性がわかりやすい人ほど,フォロワー数が高くなる傾向があるようです.定型文を繰り返しつぶやく「ボット」というものの性質と「キャラ化するTwitterユーザ」との類似性などについて議論されました.また,講師が関わるプロジェクト『Poi bot』が紹介されました.

キャラ化するTwitterユーザ

7| ディスカッション

1日目のまとめとして,おのおのが気になった点や感想についてディスカッションを行ないました.Twitterにどのような機能を実装したいか,Twitterにより可能になった新しいコミュニケーション方法がわたしたちのコミュニケーションにどのような影響をおよぼすか意見を交わしました.

ディスカッション

1日目レポート:徳井直生氏による「思考編」トップ

2日目レポート:田所淳氏による「実践編」

日時:
2011年2月20日(土)午後1時ー5時
会場:
ICC4階特設会場
ワークショップ参加者:
12名

1| 六次の隔たり_「つながり」人力検索

Twitterのアーキテクチャ上で「わたしたち」はどこまで繋がっているのかを探索しました.はじめに,ネットワークでの情報のつながりを体感するため, Wikipediaのサイト内で任意のワードとワードをWikipedia内のリンクだけでたどれるかどうかを試しました.まったく関係のなさそうなワードであってもワードを包括する大きなカテゴリを見つけることにより,少ない回数でたどり着けることがわかりました.次に,自分がTwitter内でフォローしているユーザをたどって見知らぬ特定の人にたどり着くかどうかを人力で探索しました.ソーシャルメディアの統計分析サービスSysomos(http://www.sysomos.com/)の分析によると,Twitterではほとんどのユーザが4ステップか5ステップでつながっていて,その平均は4.67ステップだったそうです.

6次の隔たり_「つながり」人力検索

2| ボットを作ろう

はじめに,ボットについての知識共有が行なわれました.ボットとは「ネットワークのやりとりを自動的に行うプログラム」とされ, Twitterの中に多種多様なボットが存在しているようです.今回のワークショップでは「自分をコピーしたTwitter bot」を制作することを目標としました.人工知能では文章の文脈やその意味を解析し推論するという「ボトムアップ」のアプローチをとりますが,今回のボットでは,文章の文脈や意味はいっさい無視してその結びつきの強さの統計的な情報(マルコフ連鎖)だけに注目するという「トップダウン」のアプローチを用いています.この手法は,「人工知能」と対比して「人工無能」と呼ばれています.今回のワークショップではこの人工無能の手法を用いて「わたしっぽい」ボットを制作しました.

ボットを作ろう

3| 文章からキャラ(キャラクター)を抽出する

参加者それぞれの過去のつぶやきから「わたしっぽさ」を抽出しました.すべてのつぶやきをひとつのファイルにまとめ,形態素解析を用いて単語に分割し,そこから「わたし」のキャラクターを抽出しました.

4| 形態素解析

抽出したつぶやきを再構成するために,まずは文章を「形態素 (=言語で意味を持つ最小の単位)」に分ける必要があります.日本語は英語と違って分かち書きをする習慣が無いため,単語の区切りがわかりません.そのため単語の結びつきを調べる前に,まず形態素解析を行なう必要があります.このワークショップではMecabというオープンソースの形態素解析エンジンを使いました.

5| マルコフ連鎖化

未来の挙動が過去の挙動とは無関係に現在の値だけ決定されるという確率過程のことを「マルコフ過程」といい,その状態が連続しておらず離散的なものを「マルコフ連鎖」と呼びます.ある状態[B]から他の状態[C]へ遷移する確率が,ある状態 [B]になる前の状態[A]には依存しないということを意味します.たとえば,「わたしはワークショップに参加している」という文章が生成された場合,「ワークショップに」の次に来る文節の確率だけで選択されたのが「参加している」という結果であり,この結果に「わたしは」という文節が「ワークショップに」という文節の前にあることは無関係ということです.
今回のワークショップでは,今まで自分が発言したツイートの全ての単語同士の結びつきをカウントし,その確率を計算しています.その単語同士の結びつきの強さを利用することで,ランダムな単語から文章を生成することが可能となります.実際には文脈や意味を一切考慮していないのに,あたかも自分のキャラクターを分析したような「わたしっぽい」文章が自動的に生成されるのです.

マルコフ連鎖化

6| 自分をコピーしたTwitter bot

今回のワークショップで制作するボットは,あらかじめ形態素解析とマルコフ連鎖によって生成した10000個の「わたしっぽいつぶやき」の中からランダムに選ばれた1つのつぶやきが自動的に投稿されるという仕組みのボットです.定期的につぶやきを投稿するため,Webサーバ側のcronという仕組みを利用しました.

自分をコピーしたTwitter bot

2日目レポート:田所淳氏による「実践編」トップ

ワークショップのまとめ

今回のワークショップは1日4時間ずつ2日間に渡って行ないましたが,徳井氏と田所氏には両日を担当していただき,ワークショップの内容構成は連続した8時間という認識で組み立てていただきました.「思考編」「実践編」という大きな軸は保ちつつ,徳井氏と田所氏の連携による思考と実践を織り交ぜたワークショップとなりました.

1日目の思考編では,Twitterを「メディア」と「コミュニティ」という視点から捉え直し,ネットワーク・サーヴィスとの付き合い方について考えました.システム的観点からTwitterに触れてみることで,つぶやきとそこでのコミュニケーションがアーキテクチャによって影響されることを体験できました.ネットメディアの特質によって取得する情報が偏りがちになっていることや,知らずに利用されるつぶやきの事例からプライヴァシーの意識についても言及されました.パブリックに発言することについて無意識的であることや,140字という少ない文字数で投稿するいったTwitterのアーキテクチャから,つぶやきには「わたしっぽい」ところが反映されやすいのではないかと話されました.

2日目の実践編では,インターネットのリンクによるつながりの距離感を体感することから始まりました.Wikipediaの任意に抽出したワードは予想しているより短かいステップ数でリンクしていることを実感し,Twitterのアカウント同士もリストなどから辿っていくと意外に少ないステップ数で繋りあっていることを実感しました.1日目の「キャラ化するTwitterユーザ」という思考を受けて,「わたしっぽさ」を反映させたボットの制作を通して,自分のキャラクターというものを客観的に見ることで「Twitterの中のわたし」というものを捉えてみようとする試みを実践しました.ボットを制作する過程には形態素解析やマルコフ連鎖というアルゴリズムが必要とされるのですが,プログラムのアルゴリズムに重点を置くのではなく,形態素解析やマルコフ連鎖を使うことで生成できるつぶやきから「わたしっぽさ」を認知することを重視し,あらかじめ用意されたプログラムをコマンドで実行するだけの手順でボットが制作されました.「わたしっぽいボット」がつぶやく意味不明な言葉から,「わたし」のプライベートなつぶやきの一片や文脈が分断されつつも「わたしっぽさ」を感じるつぶやきに,Twitterのアーキテクチャに影響を受けた「わたし」を感じることができたのではないかと思います.

ワークショップのまとめ

ワークショップの模様は徳井氏と田所氏のそれぞれのホームページでもレポートを公開中です.
ワークショップで使用されたスライド資料も閲覧できます.
徳井直生(Surf on Entropy : Nao Tokui's blog)
http://www.sonasphere.com/blog/?p=1689
田所淳(yoppa org)
http://yoppa.org/blog/2442.html

ワークショップのまとめ」トップ

シェリー・タークル(Sherry TURKLE)
1948年生まれ.MIT教授,精神分析学者,社会学者.著書『接続された心──インターネット時代のアイデンティティ』(早川書房,1998年)の中で(副題のとおり)ネット世代のアイデンティティの変化をいち早く論じ,たとえば生身の人間よりもネット世界の登場人物にリアリティを感じたり,RPGで複数のキャラクターを操っているうち,プレイヤー自身があたかも複数の人格を持っているかのような妄想を抱いたり……といった,ネットやゲームへの依存や中毒,多重人格妄想について警告を発した.
(アルケール・)ロザンヌ・ストーン(Allucquère Rosanne STONE)
テキサス大学インタラクティヴ・マルチメディア研究所准教授,アーティスト.サンディ・ストーン名義でも活動.著書『電子メディア時代の多重人格──欲望とテクノロジーの戦い』(新曜社,1999年)にて,ネットや携帯,VRなどの電子メディアの興隆によって,ユーザは身体や地理的な制約を解かれたところで,新たな欲望や感情に目ざめ,結果として旧来的な社会や人格モデルが解体してゆくだろう,といった展望を示した.
『サイバースペースはなぜそう呼ばれるか+ 東浩紀アーカイブス2』(河出文庫,2011年)
スラヴォイ・ジジェク(Slavoj ŽIŽEK)
1949年生まれ.スロヴェニア出身の思想家,政治哲学者,文化批評家,精神分析学者.ラカン派の精神分析学を映画作品やオペラ,社会問題などに適用した論考や著作でつとに知られる.
ジョアン・コプチェク(Joan COPJEC)
ニューヨーク州立大学バッファロー校教授(英文学,比較文学,メディア学).ジジェクとともにラカン派精神分析批評を代表する論客.著書に『わたしの欲望を読みなさい──ラカン理論によるフーコー批判』(青土社,1998年),『〈女〉なんていないと想像してごらん』(河出書房新社,2004年)など.
櫻井圭記(さくらい・よしき)
1977年生まれ,脚本家.東京大学大学院新領域創成科学研究科在籍時よりアニメ脚本を書き始め,2002年の卒業と共にアニメーション制作会社Production I.Gに入社.以後,『攻殻機動隊S.A.C.』『お伽草子』『精霊の守り人』『エヴァンゲリヲン新劇場版』などの脚本を手がける.ちなみに文中で言及された『フィロソフィア・ロボティカ』の元になった修士論文の題名は「他我を宿す条件 〜人間・ロボット間コミュニケーションの行方〜」.
ボット(Bot)
特定の用途やキャラクターに沿った“つぶやき”を自動生成&配信するプログラム.有名人のキャラやパーソナリティを模したボットが,Twitter関連でも多数存在する.
IM(インスタント・メッセンジャー)
コンピュータ・ネットワークを通じてリアルタイムのコミュニケーションを実現したアプリケーションの総称.接続中のユーザを確認し,ユーザ間で短いメッセージをやり取りできる.近年ではファイル送受信機能や音声通話機能,ヴィデオ・チャット機能などの搭載が進んでいる.
IRC(インターネット・リレー・チャット)
クライアント同士がサーバを介して会話をする枠組みの名称.テキスト・データのやり取りで会話を行なう.1988年にフィンランドのOuluBoxというBBSで使われていたプログラム「MUT」の代替として,ヤルッコ・オイカリネンによって作られたものが最初
(参照サイト:http://www.irc.org/history_docs/jarkko.html).
ELIZA(イライザ)
MITの情報工学者ジョセフ・ワイゼンバウムが1966年に開発した,ごくシンプルな自然言語処理プログラム.来談者中心療法のセラピストを装い,たいていの場合,患者が発言した言葉を質問に変換し,オウム返しするように設計されていた.
インターコミュニケーション』No.65(2008年夏号)〈特集:コミュニケーションの未来〉収録の「「ニコニコ動画」をめぐる冒険——「擬似同期型アーキテクチャ≒複製技術 II」のアーキテクチャ分析」のこと.
TypeTrace
コンピュータ上でテキスト入力する際のタイピング行為を時間情報と共に記録し,再生してくれるMac OS X専用のアプリケーション.ドミニク・チェン氏と遠藤拓己氏が共同開発した.http://typetrace.jp/ から入手可能.
アノテーション(annotation)
あるデータに対して関連する情報〈メタデータ〉を注釈として付与すること.
メディア・デザイン研究所刊行「情報生態論──いきるためのメディア」特集号:http://site-zero.net/contents/vol2/
CGI(Common Gateway Interface)
ウェブブラウザからの要求に応じて,ウェブサーバがプログラムを起動するための仕組み.従来のウェブサーバは,蓄積してある文書をただ送出するだけだったが,このCGIを使うことによって,プログラムの処理結果に基づいて文書を動的に生成し,送出することが可能になった.現在ではほとんどのウェブサーバソフトがCGIに対応している.
API(Application Programming Interface)
新たにソフトウェアをプログラムする際,その手間を省力化するため,多くのソフトウェアが共通して利用する機能を(OSやミドルウェアなどの形で)まとめて提供することで,より簡潔にプログラムできるように設定されたインターフェイスのこと.
CGM(Consumer Generated Media)
インターネットなどを活用して消費者が内容を生成していくメディアの総称.個人レヴェルの情報発信をデータベース化,メディア化したウェブサイトを指し示すことが多く,一連の口コミサイト,Q&Aコミュニティ,SNS,動画共有サーヴィス,ブログポータル,BBSポータル,COI(Community Of Interest)サイトなどがこれに該当する.
RFC(Request for Comments)
インターネットに関する技術の標準を定める団体「IETF(Internet Engineering Task Force)」が発行する公開文書.主にプロトコルやファイル・フォーマットなどに関わるさまざまな技術の仕様・要件を,通し番号をつけて公開している.http://www.rfc-editor.org/
tsudaる
メディア・ジャーナリストの津田大介氏に由来する「Twitter実況」のことを示す,インターネット・スラング.「社会問題上,重要度の高いカンファレンスにオンライン状態で出席し,現場で発表された発言の140字要約ポストをTwitterのタイムライン上に送り続ける行為」を指す.
GUI(Graphical User Interface)
情報の表示にコンピュータ・グラフィックスと(マウスやタッチパッドのような)ポインティング・デバイスを用いることで,より直感的な操作を提供するユーザ・インターフェイスのこと. 視認性,操作性に優れていることで広く普及し,現在ではコンピュータ・インターフェイスの主流になっている.
tsudaる
メディア・ジャーナリストの津田大介氏に由来する「Twitter実況」のことを示す,インターネット・スラング.(ドミニク・チェン氏の回の注釈も参照)
ソーシャル・メディア・モニタリング企業のメルトウォーター社が,第83回(2011年)アカデミー賞についての前評判を元に予想を発表したもの.
六次の隔たりゲーム
「いもづる式に知り合いを辿っていけば,いずれ世界中の誰にでも行き着く」という仮説をもとに生まれた「六次の隔たり」という言い回しをもとに,無作為に抽出された2者が6名の知り合いを介してつながっているかを検証するゲーム.
ケヴィン・ベーコン・ゲーム
「六次の隔たり」仮説に基づくゲームで,ケヴィン・ベーコンとの共演者を「No.1」,そのNo.1の俳優と共演した人を「No.2」とすると,ほとんどの俳優が「No.3」までに入ってしまう,というもの.
切り取り線
1時間ごとに「切り取り線」をツイートしてくれる時報系のTwitterサーヴィス.タイムラインを時間ごとに区切ってくれるので,閲覧するのに便利.http://twitter.com/kiri_tori
『トゥルーマン・ショー』
ピーター・ウィアー監督,1998年,アメリカ映画.ジム・キャリー演じる主人公は,生まれてから現在までの半生を全て撮影され,「リアリティ番組」として世界中に放送されていた…….
Historical Tweets http://historicaltweets.com/
RSS(RDF Site Summary)
ニュースやブログなど各種ウェブサイトの更新情報を簡単にまとめ,配信するための文書フォーマットの総称.
別項のワークショップ・レポート中にある「情報の受動性について」の項目を参照.
Tumblr
ブログとミニブログ,そしてソーシャル・ブックマークを統合したウェブ・スクラップ・サーヴィス.デヴィッドヴィル社により2007年3月にサーヴィスが開始された.http://www.tumblr.com/
Flipboard
フリップボード社が開発,提供しているiPhoneアプリ.TwitterやFacebookなどからユーザが受け取るツィート,リンク先の記事や写真,ステータス・アップデートなどをアグリゲートして,雑誌のようなレイアウトにまとめて表示する.http://flipboard.com/
radiko
株式会社radikoが運営する,日本国内のラジオ放送をインターネットで同時配信する「IPサイマル・ラジオ」サーヴィスの総称.2011年3月11日に発生した東日本大震災への緊急対応として,3月13日にエリア制限を解除し,日本全国でradiko参加ラジオ局の放送が聴取可能になった(4月1日以降段階的にエリア制限解除を終了).http://radiko.jp/
Evernote
PCやスマートフォン向けの個人用ドキュメント管理システム.エヴァーノート社の専用サイトでアカウント登録すると,同社が提供するサーバ上にテキスト・画像・PDFファイルなどのデジタル・データを保存し,各自が設定した「ノートブック」と称するサブジェクトごとにデータを保存.記録内容は全て自動的にインデックスが作られ,検索可能となる.http://www.evernote.com/
『日本の若者は不幸じゃない』pp.46-51参照.
MOGRA(モグラ)
「モエ・ジャパン」が秋葉原で経営しているアニソンDJバー.ニコ動系,電波系,ゲーム音楽,同人音楽など,アキバ系音楽を様々な「アニソンクラブ・イヴェント」で楽しむことができる.http://club-mogra.jp/
ダダ漏れ
本来,個人情報や秘匿情報が大量に外部に流出してしまう状況を指す言葉だったが,転じて最近ではイヴェントや記者会見等をリアルタイム動画中継することも指すようになっている.
学園祭ビジネス
プロとアマの垣根を越え,送り手が一方的に商品やサーヴィスを販売したり提供したりするのではなく,お客も運営に参加して,いっしょに何かを作り上げていくような感覚で経営していくこと.『日本の若者は不幸じゃない』pp.56-61参照.
pixivファンタジア
pixiv内におけるファンタジー系ユーザ企画の第1弾.2008年1—2月に公開された.
クールジャパン(Cool Japan)
ゼロ年代以降の諸外国にて,日本製品,日本食,武道などの伝統文化を始め,ゲームやコミック,アニメにJポップにコスプレなどのポップ・カルチャーにまつわるソフトやコンテンツが国際的に高い評価を受けている現象,ならびにそれら人気コンテンツ自体を指し示す用語.
ディアステージ
「モエ・ジャパン」が経営する“アキバからアイドルを発信するイヴェント&スペース”.http://moejapan.jp/dearstage/
クルマへの関心を高めるような要素を入れたソーシャルアプリの募集企画「TOYOTA SOCIAL APP AWARD」の公式応援ページに,ディアステージ所属のアイドルたちが起用されている.http://www.toyota-app-award.jp/special/
ユビキタス・コンピューティング(ubiquitous computing)
「用途に応じたさまざまなコンピュータを,実世界中にあまねく存在させて,普遍的に用いていく」というコンセプトを指し示す用語.
セカンドライフ(Second Life)
リンデン・ラボ社が運営するヴァーチュアル・ワールド=メタバースの総称.ユーザ主導でコンテンツが制作・提供される,制作物の著作権が認められている,セカンドライフ内の仮想通貨(リンデンドル・L$)を現実通貨に換金できる,などの特徴がある. [参考]ICCメタバース・プロジェクト http://www.ntticc.or.jp/Archive/2009/MetaverseProject/index_j.html
PostPet(ポストペット)
1997年にソネットエンタテインメント株式会社より発売された,電子メール・クライアントにして,同社の登録商標.単なる電子メールの送受信機能にとどまらず,ソフトに内蔵されたペット・キャラによるメール配達,ペット・キャラの育成,コミュニケーションなどが可能で,「愛玩メールソフト」とも呼ばれた.メディア・アーティストの八谷和彦氏が開発に参加していたことでも有名.「PostPet V3」(2002年)まで,及び「Webメール de PostPet」(2005年)は電子メール・クライアントだが,「PostPet 4you」(2008年)はソーシャルメッセージング・クライアント,現在開発中の「PostPetNow」(2011年予定)はTwitterクライアントとして,それぞれ展開している. http://postpet.jp/
2011年現在では加ト吉を退職した,末広栄二氏によるツイートのこと.http://twitter.com/e_suehiro
ライフログ
ある人物の生活や行動,体験などを,映像や音声,位置情報などのデジタル・データとして保存記録する技術,あるいは記録それ自体を示す概念.
API(Application Programming Interface)
新たにソフトウェアをプログラムする際,その手間を省力化するため,多くのソフトウェアが共通して利用する機能を(OSやミドルウェアなどの形で)まとめて提供することで,より簡潔にプログラムできるように設定されたインターフェイスのこと.
Evernote
PCやスマートフォン向けの個人用ドキュメント管理システム.エヴァーノート社の専用サイトでアカウント登録すると,同社が提供するサーバ上にテキスト・画像・PDFファイルなどのデジタル・データを保存し,各自が設定した「ノートブック」と称するサブジェクトごとにデータを保存.記録内容は全て自動的にインデックスが作られ,検索可能となる.http://www.evernote.com/
『カーニヴァル化する社会』「第3章「圏外」を逃れて──自分中毒としての携帯電話」参照
「ニュースとしての行動履歴──mixiとfacebook」http://blog.szk.cc/2011/02/12/user-history-as-news/
音声読みあげブラウザ
人間の音声を人工的に作り出す「音声合成」技術を応用した,テキスト(文章)を音声に変換する「テキスト読みあげ」(Text-to-Speech)システムが実用化され,そうしたシステムやソフトウェアをウェブ・ブラウザに搭載する試みが近年進んでおり,視覚障害者の支援などさまざまな用途で活用されている.
スレッドフロート型(掲示板)
電子掲示板の中において,スレッドと称される各トピックや話題ごとのまとまりが,各スレッド内における最終投稿時間の順番で表示されるスタイルを指す.スレッド一覧が表示される際の順序が,ある投稿が行われた時点で,該当スレッドが一覧の下位から上位に浮上(フロート)するように見えるため,そう呼ばれる.
ニールセン・ノーマン・グループ社
デンマーク出身の工学博士にしてウェブ・ユーザビリティ研究の第一人者ヤコブ・ニールセンが,認知科学者のドナルド・ノーマンとともに,1998年に設立.ウェブ・ユーザビリティのレクチャー,ユーザ・テスト,デザイン講評などを主業務とする.http://www.nngroup.com/