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はじめに
キム・スージャ「針の女」- 中村敬治
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アーティスト・トーク
 
2000年5月26日(金)〜 6月18日(日) [終了しました.] ギャラリーD





キム・スージャ「針の女」- 中村敬治


 僧服かともみえる黒っぽく慎ましやかな服を着て,無造作に束ねた長い髪を垂らした女性が一人,背中を向けたまま画面の中央に立ちつくしている.キム・スージャ(金守子)本人である.彼女だけがモノクロームで,彼女だけが動かない.ひたすら立ちつくしているだけであるから,たとえば東京,渋谷の雑踏の中では,前後左右をせわしなくあるいは所在なげに行き交う人々の色彩の流れに一瞬のみ込まれてまったく消えてしまうこともある.みえなくなると——どこへ行ってしまったのか——埒もない不安がよぎる.しかし一刻,周囲の人通りが途絶えてしまったかのように,彼女の背中だけが鮮明にみえてくる瞬間がくる.彼女の存在が雑踏を切り開き,彼女にだけ光があたる空隙を作り出したかのようである.それは一瞬の無の空間のようでもあるし,永遠の空間のようでもある.彼女がみえなくなった間停止していた時間が再び流れはじめるのであろうか.ある安堵が訪れる.
 ただ雑踏に立っているだけの彼女の後ろ姿に,なぜこのように一喜一憂するのであるか.微動だにしない後ろ姿の果敢さが,ある決意を放射しているからである.生存のすべてをあずけたパフォーマンスに立ちあわされているらしいからである.彼女はあるいは街頭にいるのではなくて,黄泉とこの世,生と死の間を往還しているのかもしれない.彼女の往還に,みる者は自分の存在の根源的な不確かさを重ね合わせる.人々の流れに覆いつくされて消えてゆく彼女に,存在のはかなさを読んで不安になり,不動のまま凛として立ちつくす彼女を再び発見して,生の力の確実さに勇気づけられるのかもしれない.
 渋谷の作品では,彼女の周りを通り過ぎる人々は概して足早であるが,誰ひとり立ちつくす彼女に視線すら向けない.人々はそれぞれの私事に没入し,遊びであれ仕事であれ目標に向かって忙しげである.
 上海では人々の歩みは比較的ゆるやかで,一人一人が気ままでランダムにぶらついているようにみえる.そして多くの人が彼女に視線を投げ,ふり返り,さらには立ち止まって覗き込んだりもする.雑然としたデリーの裏通りでも,この好奇心この無遠慮さは同じである.
 しかし,決してそれぞれの都市における人々の行動や反応の文化人類学的ちがいが問題なのではない.どこであるかは二次的である.まったくのアパシー,それでいてある種整然と流れ続ける渋谷でも,みんながブラウン運動をしているようなカオティックな街でも,彼女は立ちつくすだけである.人々の流れにのみこまれ,浮かび上がりを繰り返しながら徐々に街に,人々に縫いこみ織りこまれてゆこうとする.すべてを結びつけ,つなぎ合わせてゆく「針の女」として,自分の居場所を獲得しようとする.
 人々に隠れていた彼女がはっきりとみえてくる瞬間,みる者は突然の覚醒にうたれる.それは彼女の存在が確立される瞬間であり,そしてみる者の内にも存在が充満しはじめる.立ちつくし,自身を空無化してゆく時,世界が透明に開け,突然自分がみえてくるのではないか.存在とのほとんどエロティックともいえる出逢い,Ekstase(ハイデッガー)であり,存在論的なインスピレーションである.
 それは,街頭ではなく,彼女が自然に対峙するふたつの作品でさらに明らかである.巨大な岩の上に,片手をのばして彼女が横たわる作品がある.もちろん彼女は動かない.裏からみた涅槃像のようで,微かなユーモアがある.青空の下,盤石の上に煩悩を滅するかのごとく横たわる不動の彼女の向こうで,雲がかすかに流れ,それにつれて光がゆらぐ.岩は動かないが,時間は確実に流れているのだ.
 インド,デリーのヤムナ河を眺めながら立ち続ける作品,「洗う女」では,はじめほとんど淀んでいるかのようにみえた水面にやがて大小のごみの塊が現れて意外に速い流れであるのがわかる.ごみが彼女の前を流れるとき,ごみを浮かべた水が彼女の身体を貫いてゆくようにみえる.水に洗われ,浄化されてゆくようである.
このふたつの作品で彼女は自然の時間にシンクロナイズすることで,自分の時間を獲得しようとしている.そして彼女がとらえたコズミックな時間に,みる者の時間も合流してゆく.
 キム・スージャのヴィデオ作品は,街頭や自然の中でのたんなる記録映像ではなく,テープ作品として完結しているわけでもない.画面の映像とみる者との間に心身的なインタラクションが生起することによってはじめて完成する.そのためにはモニター上でみるのでは不十分である.プロジェクターで映写され,一定の場あるいは空間が作り出されなければならない.そこで後ろ向きの彼女や周囲の人の流れと観客が心身的に交錯し,対話が交わされることが必要である.だから,映像をみることは彼女のパフォーマンスに参加することである.それぞれの映像を撮影する過程そのものが元来は彼女ひとりでのパフォーマンスであったのだが,それがインスタレーションとして映写される時,観客を加えたもうひとつのパフォーマンスとして完成してゆく.そして,このインタラクションを通じて,観客は映像の意味を作り出すのである.
 画面にはほとんどなにも起こらない.映像が意味を与えてくれるわけではない.だが,その静謐なる映像が観客の中に不安や充足の入り交じったさまざまなエモーションを励起する時,観客と画面はひとつのリアリティを共有しはじめる.それが画面に投げ返されて映像の,作品の意味となってゆくのである.
 しかし観客はどのようにして作品にインタラクティブに参加し,後ろ姿の彼女の覚醒を共有することができるのか.そこに,意識的というより直観的と思えるが,使われている技法の秘密があるのではないか.まず第一に,いずれのテープも編集されておらず,七分余の映像の時間は現実の時間である.この時間の流れに身を添わせることで,撮影時のパフォーマンスを共有することになる.フィックス・ショットであること,映像が操作されていないことが,一切の虚構性を排除する.
 そしてどのテープにおいても彼女の後ろ姿のほぼ上半身だけが写っていて,足下がみえないのも重要なファクターである.全身が写っていれば,観客はただ冷ややかに,客観的に画面を眺めるだけであろう.だが,下半身がみえないことによって観客は彼女のすぐ後ろに立って,同じ光景をみているかの身体的な一体感をうることができる.ここで,映像は視覚性を超えて,全身的なリアリティとなってゆく.であるからまた,映像は映写 されるとき大きすぎてはならず,画面の彼女と観客が等身大で対峙できるのが理想的である.
 その点,今回は出品されないが,1997年の「Sewing into Walking」が先駆的実験の役を果たしたと思える.この作品では彼女自身は登場しない.カメラを固定してイスタンブールの繁華街を写し続けただけである.しかし視点が眼の高さであるため,彼女と並んで同じ光景をみているような不思議な臨場感にとらえられる.作為のなさが彼女をそこに実存させ,それがみる者に伝わる.こうして変哲もない街路の映像が,存在の映像になってゆくのである.後の「針の女」シリーズの原点がここにある.
 従来彼女の作品については,韓国の伝統と近代化,そこでの女性の役割やフェミニズム,さらにはノマディズム等々,さまざまなラベルが貼られてきた.それはひとつには彼女が永年使い続けている韓国の伝統的なベッドカヴァーの布に由来する.ごく初期にはこの布の断片をコラージュしたり,縫い合わせて壁掛け風の作品を作ったりした.やがてこの色鮮やかなベッドカヴァーで古着の大きな包み(ボタリ)を作り,インスタレーションにしたり,トラックに山積みにして韓国中を十一日間走り回るパフォーマンスも行った.また,同じ布をもの干場のようにロープに吊したり,テーブルクロスとして美術館のカフェのテーブルにかけたりもした.
 ベッドカヴァーにはさまざまな意味が染みついている.人は生まれてこの布に包まれ,ベッドの遺骸もまたこの布に被われる.その間に,就寝し,休息し,性もあって,布は人の生涯を見続ける.さらに,彼女が使うのはいつも誰かが実際に使用した古物であり,決してニュートラルではない.
 そして女性はその縫い方を母親に習い,それに家財を包んで家を出る.すべてを包む布,それを縫う女,そして世界を包み込み,人々を縫い合わせようとする女,彼女が「針の女」である.
 というわけであるから,キム・スージャの布の作品は,心ならずもポスト・モダニズムやポスト・コロニアリズムに格好のトピックを提供することになったのかもしれない.彼女が求めてきたのは人間の普遍性であったにもかかわらず,いわば善意の矮小化が跋扈したように思える.——そして,彼女と布との関係は,様式はまったく違うのだが,トリン・T・ミンハの映画作品,特に「姓はヴェト,名はナム」を思い出させる.——彼女たちの作品は,作品としてみ,かつ楽しまれるよりもさきに,ディスクールの材料にされてしまうことが多すぎた.
 布はテキストであり,彼女自身布について,それを使うことについて少なからず発言もしている.だから貼られたラベルは必ずしも間違いとはいえない.だが,彼女が,染みついた意味の重圧は重々知りながら,あえて布を使い続けてきたのはなぜなのか.恐らくは,布によって出自を確定しながら,それを超えでたところに,より普遍的な居場所を見つけられないかと考えてきたからではないか.布から離れたヴィデオ作品は,一切のラベルを振りはらいうる方法の探求なのかもしれない.立ちつくすだけのパフォーマンス,no-nonsenseというか,虚飾を振りはらった行為のミニマリズム,それは実存のミニマリズムである.
 ヴィデオのキム・スージャはなにものからも自由であるようにみえる.

なかむら・けいじ
NTTインターコミュニケーション・センター副館長/学芸部長