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「タマシュ・ヴァリツキー」 - アンヌ=マリー・デュゲ
「世界を再構成する装置」 - 白井雅人
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アーティスト・トーク
 
1996年1月19日(金)〜2月12日(月) [終了しました.] NTT / ICCギャラリー





「世界を再構成する装置」 白井雅人


コンピュータによる制作を開始して以来,「ザ・ガーデン」(1992)に至る以前のタマシュ・ヴァリツキーのアニメーション作品において展開されるのは,記憶と夢の世界である.自分や家族のスナップ写真を巧みに構成した「Pictures」(1988)は,壁にかかった一枚のポートレートから,記憶をたぐりよせるかのようにいくつもの絵をたどり,最後に再び同じ絵に行きつくという,一つのループを描く作品である.同時にそれはコンピュータの画面の中をクリックしてズームしていく過程として表わされており,記憶というものが,データを蓄積したコンピュータのメモリとオーバーラップするような構成をとっている.またいくつかの小品を集めた作品「Computer Mobiles」(1987) の中の,踏み車の上を永遠に走り続ける人物の姿を描いた《Wheel》や,サーカスのように男女が縦の方向にバランスをとりながら無限に積み重なってゆく《Balance》などにおいても,映像は始まりの点に再び戻る,いわばエンドレスなものとして構成され,夢の中の出来事であるかのように,またある時は回想に耽っているかのように永遠に循環を続ける.コンピュータ内にデータとして蓄積された,二重の意味での記憶はこうして封印されることになる.映画やビデオとは異なって,始めと終わりがないというコンピュータのデータ構造の持つ一つの特徴が,この永遠性を意味的に獲得させるのである.
コンピュータのインタラクティブな可能性を探る,音と映像のライブ・パフォーマンス作品「Conversation」(1990)の試みの後に,ハンガリーとドイツで制作された「ザ・ガーデン」(1992)は,ヴァリツキーにとって一つの転機となった作品である.これ以後の作品では,空間に関する知覚が新たな主題となり,世界を表現するために新しい遠近法のシステムを構築する実験が試みられるようになる.題材は自らの体験に根ざしながらも,記憶をそこにとどめようとするのではなく,開発された手法によって新しい世界を描き出すことの方に重点が置かれている.
通常の遠近法においては,視点とは作者=観察者のそれであり,見る者はその視点を共有する.客観的な手続きによって2次元画面に定着されることによって,空間そのものもまた客観性を獲得する.映像の中における視点の移動は,2次元の画面上に変換された空間のかたちの変形として表現されるが,それは空間自体の変形としては認識されず,空間は不動のままである.「ザ・ガーデン」においては,その空間自体が常に変形し続けている.しかも変形させているのは,作者でも見る者でもなく,主人公である子供の視点であり,それを表現するために独特な遠近法のシステムが編み出されている.常に画面の中央から動くことのない子供に対して,世界の方が変形を強いられているのである.
さらにその後の作品では,遠近法システムの開発に加え,以前の作品にみられた永遠の循環は,その特殊な手法によって表現される空間上の無限の広がりという側面を合わせ持つに至る.「ザ・フォレスト」(1993)では消失点を持たない森の無限の空間が,「ザ・ウェイ」(1994)においては遠近法を逆転させることによって地平線に向かって常に拡大し続ける空間が,それぞれ作りだされているのである.
こうして作られた非日常的なシステムの生みだす見慣れない空間は,世界の見方が他にも存在していることを教えている.その手の込んだ仕掛けはもちろんコンピュータを駆使して計算することによって初めて可能になった.人間は世界を記述するために数学や物理学の体系を作り出したが,その産物であるコンピュータが,そうした体系を突き抜けてまったく別の世界を表現することをも可能にしたのである.

ヴァリツキーは,コンピュータというものが本来軍事目的で開発されたものであり,時に戦争の危機を増大させ,人間に対してストレスを与えるものであることを知っている.それをふまえた上で,このコンピュータをいかに扱うかについて発表されたのが,1990年の《コンピュータ・アート宣言》*註)である.「古い手段や装置に基づいた古い思考法でコンピュータにアプローチするなら,私たちは煉瓦の壁に頭を打ち付けていることになり,新しい世界を作りだすための大きなチャンスを逃すことになる」のであり,コンピュータを「世界を理解する新たな手段」として積極的にとらえることが必要であるとする声明である.
しかしながら,特に初期のヴァリツキーの作品に見られるように,ドローイング自体は禁欲的とも言えるほどに簡素であり,画質もあえて劣化させられている.装置の限界と向き合う中で,逆にイデーが浮き彫りにされ,オブジェの持つ本質にせまることができたとヴァリツキーは語っているが,コンピュータは単に画面のクオリティを高くしたり,処理速度を早くしたりするために使われてはいない.今までは意識されなかったような隠されたメカニズムを意識させる働きとしてとらえられているのである.コンピュータによって可能になった最近の作品における遠近法の実験と合わせて,コンピュータはここに,今までにないまったく新しい思考法を求め,実現するため,まったく新しい世界を作るための手段となったのである.
「アーティストの責任は,道標を作りだす者としての責任である.そしてわれわれが後に残す道標は,来たるべき世紀の人々に対して,われわれが生き,かつ考えたことを知らせるのだ.」

[註]
*)Tamás Waliczky: "The Manifesto of Computer Art ", Digitart catalog, Budapest, Hungary, 1990.以下引用文も同じ.