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「タマシュ・ヴァリツキー」 - アンヌ=マリー・デュゲ
「世界を再構成する装置」 - 白井雅人
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1996年1月19日(金)〜2月12日(月) [終了しました.] NTT / ICCギャラリー





「タマシュ・ヴァリツキー」 アンヌ=マリー・デュゲ


コンピュータによって制作されるタマシュ・ヴァリツキーの1987年以降の作品群は,映像のあり方やその限界,構成などを問い直すさまざまな実験的な試みであるとともに,みずからの個人史に深く関わったアプローチを持つという二つの大きな点を特徴としている.
アンナ・セペシとのコラボレーションによって制作され,すぐれたシリーズを構成している「ザ・ガーデン」(1992),「ザ・フォレスト」(1993),「ザ・ウェイ」(1994)において,ヴァリツキーは多様な遠近法のシステムを作り出し,表現のさまざまな可能性を追求している.一般に空間を描出するためのソフトウェアというものは,《適当な構成》*註)による古典的なモデルに基づいており,画面の外側にある仮想的《カメラ》がその構図を計算するようになっている.こうした標準的な構成法に対して,ヴァリツキーは特別なプログラムを開発することによって,視点の外在性の問題に取り組み,あるいは新たな方式によって奥行きを作り出し,さらには逆遠近法を構築する.その効果がアニメーションの持続のうちに発揮されることになるのである.

「ザ・ガーデン」においては,古典的遠近法が作り出す客観的で理論的な視点に対して,一人の子供の目という主観性が対置されている.コンピュータ・アニメーションによって描かれた庭の中のすべての物は,そこを動き回る子供との間の距離と,子供が向ける視線の方向に応じて表現される.子供が近寄ることによって,特有の変形を受けつつ大きくなるのである.知覚される周囲の世界との間のこのダイナミックな関係を明らかにするため,そして画面の中央を占めている子供の動きと関心とに応じて常に構図全体を変形させるために,ヴァリツキーがここで用いているのが《水滴遠近法システム》[WAter dRoPPerspective System]である.この水滴状の小宇宙の中では,「重要な役割を担っているのは映像の主体」であって,もはや観察者ではないとヴァリツキーは言う.観察者は消えてしまうのではないが,演出された場面の表現に立ち会ううちに,まるで自分がのぞき行為をしているような気にさせられてしまう.ここに表現される,映像という概念そのものが妥当性を失ってしまうような空間の中を動き回る子供の視線と,まったく別の見方で世界を見るその子供を見つめている観察者自身の動かない視線という二重の視線が,この作品の仕掛けとなっている.二つの表現の「ストーリー」がオーバーラップしながら,一方が他方を見守っているのである.

「ザ・フォレスト」が味わわせるのは,果てしなく続く森の中を漂うというまったく異なった体験である.ここでは遠近法はもはや幾何学に従属するものではなく,目は視的ピラミッドの頂点ではない.森の奥行きを生みだす新たな原理とは,ロシアの人形のように入れ子状になった,外側一面に木々が描かれている,透明な円筒のセットである.もっとも近くの表面上にもっとも大きな木が現われ,もっとも小さい円筒上の木がもっとも小さくなる.このシステムにはさらにいくつかの制約や巧妙なアイデアが加えられて仕上げられている.例えば霧によって5層目以降の画面の木が見えなくなるようにすることで森の深さを制限したり,木の上下の図柄を類似のものにして,垂直方向の繰り返しを無限なものにしたりしている.こうして表現の場は満たされ,果てしなく溢れ出す.そこには地面もなく,地平線もない.ヴァリツキーが作り出しているのは,《印象》としての遠近法である.そこでは無限というものは,一つの消失点に結び付けられるのではなく,映像のあらゆる広がりのうちに展開されるのである.この空間の中をさまざまな方向に移動することは,必然的にさまようことである.白黒で描かれた永遠の森,それは森の《観念》そのものであり,その中を漂いながら探索するために標識となるものは何もない.そこでの唯一の人間存在の痕跡——遠い子供時代——は,黒い森にまつわる民謡の通奏低音である.この作品における映像の深さに関する探究はついには神話の次元にまで達している.

「ザ・ウェイ」では,遠近法の問題を再び正面から取り上げているが,ここでは視点と消失点が逆転されている.両側に家の立ち並ぶ大きな道が情景として描かれているが,それらは——ヴァリツキーの表現に従えば——《フォトレアリスティックな》コンピュータ・アニメーションによっている.この情景はルネサンスにおける遠近法主義的構成のように構築されており,イリュージョンを与えるのに必要な真実味を備えている.視点は正面性や外在性を回復しているが,それはもっとも近くにある要素がもっとも小さくなるような逆転を行なうという,不思議な試みにゆだねるためであった.それでもこの情景が動かないものであったとしたら,せいぜい普通ではないという印象を与える程度であったに違いない.しかしヴィデオに録画されて,異なる大きさに複製された向こう向きの人物は,常に広がり続ける地平線に向かって走り続け,その一方で家々は消失線を明確にしながら目の前に収束し,消えてゆく.あたかもわれわれの視線を呑み込んで巻き添えにするかのように没してゆくのである.

これら3つのエチュードは,簡潔さとともに力強さを備えたすぐれた探究である.いずれも人間とその周囲の世界(自然や建築物)との関係を,最小限の要素によって描いているが,これを実際に実現するには複雑で,時間のかかる精緻な仕事を必要とするのである.
ヴァリツキーのアプローチは,コンピュータの使用が可能にするのは情緒もなく歴史もない,冷たい世界でしかないという意見に反駁するものである.また以前の作品で使われた自分と妻の映像や,「ザ・ガーデン」における娘の映像,そしてハンガリーや今のドイツでの生活を暗示するような場所やテーマ,音楽の選択を通じて,ヴァリツキーの作品における自伝的な特徴を常に見てとることができる.このトリロジーは,「ザ・ガーデン」が子供を,「ザ・フォレスト」が妻を,「ザ・ウェイ」が夫をあらわす,家族のトリロジーであるとヴァリツキーみずから語っている.こうした親密さと詩情を感じさせる表現は,主として映像に収められた人物像をコンピュータ・アニメーションの世界に組み込むという巧みに合成された映像のうちにある現実の流用[ルビ:アプロプリエーション]によるものである.ヴァリツキーは,コンピュータを使う以前にアニメーションや絵画,映画を制作しており,表現と技法に関わる方法とレトリックと諸問題を,コンピュータの論理による大胆かつシステマティックな探究に結び付ける術を心得ているのである.こうして彼の作品は特別な場所に位置づけられることになるのだ.
「ザ・ガーデン」の副題は「21世紀のアマチュア映画」である.アマチュアとは愛情を持ち,よく知悉しているという意味での見識ある愛好家のことであり,とりわけ果敢な挑戦に応えられるだけの充分な情熱を持った者なのである.

アンヌ=マリー・デュゲ


[訳註]
*) アルベルティはその著書『絵画論』(1436)の中で,遠近法的作図法について解説したうえで,それが《適当な構成[costruzione legittima]》であると述べている.後にパノフスキー(1915)がこれを取り上げて明らかにしている. [翻訳:白井雅人]