ICC

インターネット・リアリティ研究会「インターネット・リアリティ」

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座談会「『ポスト・インターネット』を考える(β)」

日時:2012年3月4日(日)

出演:水野勝仁
谷口暁彦
栗田洋介
萩原俊矢
畠中実(ICC)

前半

後半

畠中:今日は「「ポスト・インターネット」を考える(β)」というタイトルでお届けいたします.
 座談会の一回目に「「ポスト・インターネット」を読む」という回がありました.そこで「「ポスト・インターネット」とは何か?」という話をしたわけですが,そこで何を"読んで"いたのかというと,今僕の隣にいらっしゃる水野勝仁さんが執筆されて,この展示会場内に掲示されている「ポスト・インターネットの質感」というテキストだったわけです.
 そこには現在のポスト・インターネット状況に関する考察が書かれていて,本展覧会は,その文章をサブ・テキストのように参照しつつ,展覧会企画を固めていったという経緯があります.
 そして今日は,そのテキストをお書きになった水野さんをお招きして,お話をうかがっていこうと考えています.またタイトルにあります"β"(ベータ)ですが,水野さんのテキストの中でも触れられているとおり,この「ポスト・インターネット」というコンセプトは,海外でも,もちろんこの展覧会においても「いったいそれは何だろうか?」ということが考えられているわけですが,何か確定した形での「ポスト・インターネット」という名称や定義づけがあるわけではなく,いまだ思考の途上にあるという事情があります.なので,いわゆる"β版"という意味合いをも含めて,話を進めていきたいということです.
 まずは,水野さんが書かれたテキストをもとに,最初の1時間ぐらいで「ポスト・インターネット」についての簡単なレクチャーをしていただき,後半は研究会メンバーを交えて「「ポスト・インターネット」とは何か?」をめぐる討議をしていきたいと思います.
 討議に参加する研究会メンバーは……かなり常連と化しつつありますが(笑),萩原俊矢さん,栗田洋介さん,谷口暁彦さんのお三方です.それでは水野さんのレクチャーから始めましょう.よろしくお願いいたします.

水野:はい,学会のプレゼンとかと勝手が違って,ちょっと緊張していますが(笑)……よろしくお願いします.今,畠中さんからも補足説明をしてもらいましたが,本日のプレゼンのタイトルに"β"(ベータ)と入れたことについては,後ほど改めてお話しします.

レクチャー「ポスト・インターネット」を考える(β):水野勝仁
「リアル→インターネット」から「リアル⇄インターネット」へ

水野:まずは「ポスト・インターネット」とは何のことなのか? 僕が考えはじめたのもつい最近のことですが,今まではリアルな世界からインターネットの世界へと,僕たちの持っている感覚を移そうとしていました.これは,インターネットだけの話ではなくて,インターフェイスなども,例えば「デスクトップ(机の上)」のような「メタファー」を使って,現実からコンピュータ画面の中に持っていった仕組みだったと思います.インターネットにおいても,ウェブ作成ソフトが「Internet Builder」とか呼ばれるように「メタファー」を使って,現実にあるものをどんどんインターネットのほうに移そうとしていた.技術的な制限もあって,そのすべてがうまくいったわけではないのですが,言葉とか頭の中では可能な限り移そうとしていたわけです.
 ところが気がついたら,インターネットの中に存在するものが,あるひとつのリアルな世界から移されたものではなくて,それ自体がリアリティを持つようになってしまった.そして,多くの人がそのことに気づきはじめたり,リアルなネットに"住んでいる"かのような状態になってくると,今度はインターネットからリアルのほうに,何かを"戻そう"というか"移そう"とするような流れが出てくる.その時には,いわゆる(先のデスクトップのような)「メタファー」は使えない.リアルとインターネットが同等の存在だと意識しはじめた中で,この二つのあいだを手探り状態で行き来しているのが,今の状況なのではないか.これが,まず最初に僕が思っている「ポスト・インターネット」の状況です.
 そして,いわゆる「インターネット・リアリティ」というものが,リアルな世界からネットの世界への"移行"だとすれば,「ポスト・インターネット」では,「リアル⇄インターネット」という双方向の矢印(⇄)でリアルとネットとが結ばれている.さらに,この二つの世界は,常にSYNC(同期)しようとしている.しかし,リアルも常に動いているし,インターネットも常に動いているので,同期しようとしてもどこかにズレが生じてきている.それが,今現在の状態なのではないかというのが,まず一番最初に指摘しておきたいことです.

「ポスト・インターネット」の紹介

水野:今回のICCの企画展の中だと,参加アーティストの多くは基本的に日本人で「ポスト・インターネット」的状況に可能性を感じている作家が多いのですが,まずは海外で「Post Internet」に関連する人物を,最初にざっと紹介しておこうと思います.こういう作家たちは,作品履歴や資料もインターネット上にほぼ全部残しているので,それらを見ていこうと思います.
 まずは,ジーン・マクヒュー(Gene McHUGH)というアメリカの批評家がいます.2009年12月から翌10年9月までのあいだ,彼は「Post Internet」というブログを書いています.実は僕の関心もここからスタートしているわけですが(プロジェクターで,マクヒューのブログ画面を表示する),英語で書いていますし,拡大表示してもここで読むことは困難ですが……この記事内で多くの作家が取り上げられていて,「「ポスト・インターネット」とは何か」ということを,ジーン・マクヒューが考えているブログです.
 たとえブログの内容までは読めなかったとしても,そこに出てくる作家名を辿ることで,どんなアーティストが「ポスト・インターネット」界隈にいるのか,概要を知ることができます.このブログはとても有用で,あとで書籍化もされています[※01]
 しかし,ブログにはなぜかリンクが一切貼られていないという,そこから情報を辿りたい読み手にとっては,とても面倒くさい作りになっています.インターネットといえば参照リンクが必ずあるはずですが,ここにはリンクは一切ない.ここまでくると,意図的にそうしているのだと思います.
 彼はここで「「ポスト・インターネット」とは何か」ということを論じているわけですが,最初のほうで「ポスト・インターネット・アートはインターネット・ワールドから離れていっている」と指摘しています[※02].もともとのインターネット・アート=ネット・アートなるものは,インターネット・ワールドの中でやっていたのだけれど,徐々にそこから離れていって,インターネット内のカルチャーというよりも,コンテンポラリー・アート(アート・ワールド・アート)になっている,ということを書いています.ジーン・マクヒューをはじめとした海外の作家や評論家たちには,常に「ネットに軸足を置いて作品を作りながら,コンテンポラリー・アートへの意識が頭のどこかにある」のが,日本の状況との違いとして面白いと思います.

「ポスト・インターネット」について語るときに可能な4つの方法

水野:同ブログの,2009年12月30日の投稿では「Four ways that one can talk about "Post Internet"」,つまり「「ポスト・インターネット」について語るときに可能な4つの方法」が書いてあります.実はこのブログが書籍化された際には,これが4つから5つに増えまして,どちらが正しいのかはわかりません.ちなみにここでの「*3」が,ジーン・マクヒュー自身の見解だと言われています.まずはその「4つの方法」を個別に見ていきましょう.

*1:WWW以後のニュー・メディア・アート
 これはとても広い感じ,ざっくりとした定義ですね.

*2:マリサ・オルソン(Marisa OLSON)の定義:インターネットを使用した後に作られたアート
 このマリサ・オルソンについては,後で説明します

*3:インターネットが陳腐なものになった状況に反応しているアート
 こちらがジーン・マクヒュー自身の見解.彼自身は「誰もがインターネットを自由に使えるようになってしまった,そういう状況に反応しているアートが「ポスト・インターネット・アート」なのではないか,と.

*4:ガスリー・ロナガン(Guthrie LONERGAN)が言っているように,イメージがオブジェクトよりも広がっていく
 今,この座談会会場の後方にも展示作品がありますが,そういった光景をドキュメントとして写真に撮ったりしてネット空間に上げると,そのイメージのほうが作品自体よりも流通していく,というようなもの.それが「インターネットを意識した」アート=「ポスト・インターネット・アート」なのではないか,と.

 ひとつ面白いのは,最初にこの記事をマクヒューがブログに上げたとき,トム・ムーディ(Tom MOODY)という「ポスト・インターネット・アート」を語る時に必ず出てくるアーティストが,マクヒューに対して「君の言っていることは間違ってるよ」とコメント欄で指摘したんですね.それに対してマクヒューは「ありがとう.エラーは直していくよ」と言って,修正したりしています.そもそもブログ記事だし,指摘されたら訂正していくみたいなところも,先ほどの"β"の話に近い気がします.どこかで止まってしまうわけではなくて,考え方も修正して,より良いものにアップデートしていくんだ,という姿勢です.

「ポスト・インターネット」と言い出した人物,マリサ・オルソン

水野:先ほどの4つの中の「*2」に出てきた,「ポスト・インターネット」という言葉を最初に言い出したのが,1977年生まれのマリサ・オルソンです.わざわざ生年を入れたのは——先ほどのジーン・マクヒューの生年はわからなかったのですが,こうした生年から,世代というか,だいたい何歳ぐらいでインターネットに初めて触れたかがわかるので,その辺からアプローチしてみたい,ということでもあります.
 マリサ・オルソンが生まれた1977年は僕の生年でもありますので,同年代ということになります.彼女は黄金にペイントしたカセット・テープの作品などを制作しています[※03].廃れていくガジェットなどを作品として提示するということをやっている作家で,黄金にしたガジェットを壊したりする動画を,YouTubeに上げたりもしています[※04].あと,消えゆくガジェットを表示させたディスプレイの上に紙を載せて,その形態をトレースした作品を作って,それらをFlickrなどに上げたりしています[※05]
 オルソンは作品制作のプロセスの中で,Googleの画像検索サーヴィスを使っているのですが,その使い方が最先端なわけではなく,「ただそこにあるものを使っている」というわけです.こういったネットを普通に使う,つまり,ジーン・マクヒューが言っていたような「陳腐になってしまった」ものとしてインターネットを用いているアーティストです.そんな彼女が「ポスト・インターネット」という言葉を,あるインタヴューで初めて口にしたんですね.「インターネットというものはすでに大勢の人が使っているし,そこではオンラインとかオフラインといった区別は,もはやないだろう」という状況を「ポスト・インターネット」と名づけた.なので,先ほどの作品のように,ただ単にディスプレイに映った形をトレースして引き写すのも,インターネット・アートと言えるのではないか,と言っているわけです.彼女はまた「ネットにつながっていなくても,私たちはすでにインターネットの影響を受けている」とも言ってます.先ほどの作品もGoogleの画像検索を使っていましたが,インターネットはもう日常生活の中に入り込んでいるものだから,僕たちの考え方の一部になってしまっている,ということを強調している人です.
 このマリサ・オルソンという人は,アーティストであり,批評家・キュレーターでもあるという,何でもできてしまうような人です.「ポスト・インターネット」の動向の中で面白いのは,批評家やキュレーターを専門とする人があまり出てこないことです.アーティストの中で,ある人は少し長めの文章を書いて批評家のようになり,またある人は,Facebookなどで仲間を募ってグループ展をキュレーションしたりします.別にFacebookを使わなくても,日本の作家でも自然とつながってグループ展などをやっていくのかもしれませんが,こうやってアーティストでありつつ,自らが概念を提示したり,賛同者を募ってグループ展をやって,その概念を確かめることをやり続けているわけです.ただ,先ほどのジーン・マクヒューだけはちょっと特異な人で,彼だけは批評家として「外側」から入ってきている,面白い存在です.
 では,「なぜそうなるのか?」というと,今までのメディア・アートとかでも言われてきましたが,そうした何らかの技術と結びついたアート=「New Media Art」と言われている分野には,アーティストがいて,そこに寄ってきて何らかの概念を考えるような学者や批評家も多く,日本も含め,ヨーロッパやアメリカにもいる.そして,「ニュー・メディア・スタディーズ」とか,そうした関連の学問もいっぱいあります.そこでは何か新しい技術として「ニュー」という言葉が頭についているのですが,「ニュー」が取れてしまった後,目新しさがない中で活動を続けていくところで,今までのメディア・アートとは違う新しい領域を作るために,学者とかが入り込んでこない段階で,自分たち自身で批評などを書いているのではないか,と思います.
 また,アーティスト同士がSNSなどを介して次々につながっていく「「つながり」の発生」という現象は,「ポスト・インターネット」という状況に意識的なアーティストにはあたりまえのことになっています.インターネット界隈の言葉をみると,今やSNSなどで簡単につながれることはあたりまえのように言われていますが,そういった状況に彼らはいるわけです.だから,先ほどのキュレーターみたいな役割も,アーティスト自身が自然に果たしてしまうのではないかと思います.

「つながり」から「ポスト・インターネット」を考える2つのテキスト
(1)「From Clubs to Affinity: The Decentralization of Art on the Internet」

水野:1番目のテキストが「From Clubs to Affinity: The Decentralization of Art on the Internet」[※06]という英文で,タイトルを無理矢理日本語に置き換えると「クラブから「好み」によるつながりへ:インターネットにおけるアートの脱中心化」となります.ここでの「好み」というのは,もしかすると「いいね!」ということかもしれませんが,著者はブラッド・トロメル(Brad TROEMEL)というアーティストです.

 このテキストの中で,トロメルは「インターネット・アートにおける三つの段階」ということを言っています.最初はネット・アートと言われているもので,ここだと

*1:リアルな世界にいるアイデンティティを否定するようなもの
 JODI.orgなどが挙げられています.この「リアルのアイデンティの否定」というのは,例えば実名で活動しないなども含まれています.他のインターネットの本を読んでみると,初期のネット・アートというのは,ネットそのものの構造を逆手に取って,多くの作品が作られていた.普通にブラウザで見ているときは意味がわからなくても,ソースコードを見ると,「ロケット」みたいなものが描かれている作品だったりする.このように「ネットそのものを考える」という部分で,現実との断絶を考えているようです.
 その後に来る段階が,

*2:メンバー間の承認を求める
 こちらの例としては「nasty nets」などが挙げられています.今,萩原さんがうなずかれたように,彼は僕よりも詳しいと思います.このnasty netsは,僕は名前だけ知っているような状態ですが,掲示板みたいな形で何人か(10,20人ぐらい)のメンバーによって画像が投稿され,それにコメントを加えていくというものです.仲間の中での承認を求めていく段階ですね.だから不特定多数ではなくて,ひとつのクラブみたいになっている.もしかしたら,「お絵描き掲示板」とかがこれに近いのかもしれないなと,先日の座談会を見ながら思ったわけです.じゃあ,今の段階はどうなのかというと,

*3:(TumblrやFacebookなど,Web2.0のプラットフォームにおける)「リブログ/いいね!」による承認
 という段階になっている.ここでは,承認をしてくれる相手は不特定多数です.誰がリブログしてくれるか,あるいは「いいね!」を押してくれるかわからないけれど,作品を出して,それがリブログや「いいね!」で承認されなければその存在自体が認められない,というような段階になってきているということです.

 おさらいしますと,最初は現実世界のアイデンティティを否定していたが,次は小さなサークルのメンバー間で承認を求めて,そのグループの中でのアイデンティティを求めた.そして,今度は,FacebookやTumblrなどのプラットフォーム上で,アイデンティティの承認を求めるような状況になってきた,というこの変化に基づいて,「特定のクラブから「いいね!」やリブログによるつながり」に移行しているのではないか,ということです.
 このテキストの中には,もうあまり使われなくなった「Web 2.0」という言葉が使われていたりするのですが,Web 2.0 のアーティストは,リブログとか「いいね!」を表明することで,他の人の作品などを自分のブログやTumblrに入れてしまうわけですね.そうしたことを繰り返していると,それがある種の作品になっていったりもする.というわけで「「見る/作る」の境界がなくなってきている」という指摘も,トロメルはしています.また「(見る/作るの)どちらも,他の作家とのコミュニケーションになっている」ということも言っています.

(2)「Club Kids: The Social Life of Artists on Facebook」

水野:2番目のテキストが「Club Kids: The Social Life of Artists on Facebook」というタイトルで,こちらも日本語に訳しますと「クラブ・キッズ:Facebookにおけるアーティストのソーシャル・ライフ」となります.こちらのテキストは,先ほども出たブラッド・トロメルと,アーティ・ヴィアーカント(Artie VIERKANT),ベン・ヴィッカーズ(Ben VICKERS)という3人のアーティストによって書かれています.アーティ・ヴィアーカントについては後ほど改めてご紹介しますが,このテキスト,書き方自体が非常に面白くて,書かれているところごとに色が違うんですね.ところどころ,文字に線が引っ張ってあったりもする.何で色が違うのか,読みにくいなぁ……と思うわけですが,改めて見ていくと,この3人にそれぞれ色が割り振られていて,つまり,ひとつのテキストを3人で書いているわけですね.さらに2人の連名で書いたりもしている.
 最初にトロメルが書いたとしたら,それにヴィアーカントがつけ足したりしている.さらに「これは違うだろ」みたいな感じで,後から消されたりもしている.ここでは「ひとりで(テキストを)書く」ということが放棄されていて,みんなでワイワイ書いているわけです.実際に読んでみると,僕は日本人ですので,この英文の細かいニュアンスの差異まではわからず,ひとりの人が書いているようにしか思えないのですが,実際には何人かで書いているという試みをしています.
 本日のこの座談会を,実際の会場に来て聴講されている方も,Ustream画面で観ている方もいらっしゃるでしょうが,このテキストも,インターネットの出現以降,Facebookとかができてしまって,作品との接し方が決定的に変わってしまったということを言っているわけです.「作品の実物を観ることが一番だ」という序列ももうなくなってきている,と.アーティストにとって,今までは作品を作りそれをギャラリーに展示し,来場者とつながりを持って,鑑賞者=ファンを得る,ということだったが,近頃は,作品を作る前からネット上で活動していて,そこで友達を作るとか,リブログによってTumblrで評判を高めるなど,あらかじめ自分のファンみたいなものを増やしてから作品を作ってしまう,ということが行なわれている.だから作品自体よりも,Facebookの友達とか,Tumblrが無限の展示空間になっている,ということを言っている文章です.
 「ただ,そこでひとつ注意しないといけないのは……」と言っているのは,そこではたしかに「いいね!」がついたりするわけですが,それって何に対しても「いいね!」って言うわけですね(笑).テキスト内では「作品に対しての「いいね!」が,チキンナゲットに対しての「いいね!」と同じ価値かもしれない」と書いてあります.なので,その「いいね!」の数が,作品の評価を正確に表わしているのかどうかは慎重に考えないといけない,とも書いてあります.

もしかしたら「つながり」はGIFの質感なのかもしれない

水野:ここからはちょっと突飛なつながりかもしれませんが,「GIF」について考えていきたいと思います.「つながりを持つ」ことは,ネット自体の構造でもあります.ハイパーテキストもそうですし,それは何か連想したものをくっつけていくというものです.ネット上では,これまで結びつくことがなかったものが,突如つながったりします.そして,面白いことに,「ポスト・インターネット」のことを調べていくと,だいたい「GIF」のことが出てきます.
 GIF(Graphics Interchange Format)とは何か? Wikipediaに行って調べてみてもよくわからないのですが,そこにはこういうふうに書いてあります.それはひとつの圧縮画像のフォーマットなわけです.

 ……といったことが書かれています.また,複数の画像を使ったGIFアニメーションという動画的な表現も可能です.GIFフォーマット自体は一時期,特許絡みの問題で,オープン・フォーマットになるかどうかが微妙でしたが,今ではオープンになっています.
 では,なぜいきなり「つながり」から画像形式に関しての話になるかというと,主には先ほどふれた「GIFアニメーション」についてなのですが,ポスト・インターネット界隈の多くの人がGIFアニメのことを論述するんですね.「そもそもインターネットとは?」とかそういった大きい問題設定じゃなくて,「GIFアニメとは?」みたいなことを多くの人が議論しているわけです.なので,もちろんインターネット自体が「つながり」を作っているのですが,もしかすると「GIF」というファイル自体も「つながり」を作る力を持つのではないかということを,一度考えてみたいのです.
 ちなみに,先ほど引き合いに出したトム・ムーディは「GIFはインターネット・ネイティヴなメディアだ」と言っています.実際に彼が書いた論文を読んでみると,彼も主に「GIFアニメ」のことを言っています.トムは1965年生まれなので,今回取り上げている他の作家よりよりも少し上の世代ですね.このようにネットで調べてみると,GIFアニメーションがすごく論述の対象になっていたりするわけです.どうやって論述したらいいのかよくわからないようなところも実際あるのですが……(笑).

「GIFアニメーションの情動」

水野:さらにそういったGIFアニメーションの特徴について,サリー・マッケイ(Sally McKAY)という人が「The Affect of Animated GIFs (Tom MOODY, Petra CORTRIGHT, Lorna MILLS)」(「GIFアニメーションの情動」)という文章を書いています.そこでは,トム・ムーディとペトラ・コートライト,ローナ・ミルズの3人のアーティストが作ったGIFアニメが取り上げられています.GIFアニメを作るような人たちは何か強い作家性のようなものを求めているわけではない,と書かれています.Tumblrでリブログされ,流れていったりするので,そのあいだに「自分が作ったよ!」という(著作権ではないですが)作者自身の名前が落ちてしまうこともままある,と指摘されています.作家名がなくなっても,ネット上を流れていくんだったらいい,ということがあって,ある意味,そこでは作家性というものがなくなっているのでは,と.
 それで,トム・ムーディはそのことを面白がっているわけです.これは2008年にニューヨークのニュー・ミュージアムで開催された「ネット美学2.0(Net Aesthetics 2.0)」というパネル[※07]の記録映像です.トム・ムーディ自身が作ったGIFアニメーションが,Tumblrその他,色々なところに伝播してゆき,様々なところで使われる.ムーディの展示はもちろん,誰か見知らぬ人のホームページの壁紙にキャプチャされた画像が使われたりしています.その時,トム・ムーディという名前はどこにも入っていないわけですが,彼は自分のGIFアニメが勝手に使われているページを探しては(60個くらいになると思いますが)スクリーン・ショットを撮って,それらを貼り出して自分で展示したりしています.「自分の作品なんだから勝手に使うな!」と怒るのではなくて,使われ,流れていく中で,それをまた別の自分の作品にしてしまうわけです.この場合,自分のモノとしていったん回収しているわけですが,一方では(先ほども触れたように)「ネットを流れていくからいいかなぁ」という感じもあるわけです.
 ムーディの例のように,Tumblrなどで画像が流れていくことで作品が注目を集めているわけなので,マッケイは「貨幣」という言葉で作品を説明しようとします.ひとりではなくて,みんなで使うことで「貨幣」のようにネットを流通していくような性格を,GIFというファイル形式は持っているのではないか,ということです.
 では,どうしてサリー・マッケイ自身はGIFがネット上の「精神」みたいなものを表わしていると言っているかというと,そこにはレフ・マノヴィッチ(Lev MANOVICH)という人の影響があります.マノヴィッチはニュー・メディアと言われている領域でよく言及されるアメリカの理論家です.彼が「私たちが使っているコンピュータなどのインタラクションというのは,私たちの内面が外に反映されたものとして出てきたものだ」ということを書いているのですね.それはインターフェイスに限らず,例えば映画のようなメディアも「個人の夢をスクリーンに投影する」みたいなことで「中のものを外に出していく」わけです.しかし,映画だと決められた流れでしかないので,コンピュータのインターフェイスというのは,僕たちの精神性をより物質化して見せてくれる,ということをマノヴィッチは言っているわけです.

GIF的無意識

水野:マノヴィッチを受けてマッケイは,実は「GIF」自体が,私たちが「つながりたい」と願う,そうした部分のひとつの現われなのではないか,ということを結論に書くわけです.多くの人は「そんな突拍子もないことを!」と思われるでしょうが,僕はそういうのが好きなので,とても共感するわけです.
 ヴァルター・ベンヤミンというドイツの思想家がいまして,映画とかが出てきた時代に彼が「視覚的無意識」という言葉を言っていましたが,わかりやすく説明すれば「僕たちが今まで見えていたけれど,意識的には見ることができなかったものを,映画とか写真とかは見せてくれる」というようなことです.
 そうなってくると,GIFというファイル形式も何かを無意識的に作りあげている,というようなことを考えてみてもいいのかな,ということです.どうしてかというと,さっきも言ったように,トム・ムーディが「GIFはインターネット・ネイティヴ・メディアだ」と言っているように,ネットのネイティヴなメディアは,映画でもテレビでもないわけですね.僕たちが画像として観ている映画とかは,ちらつきがないように,人間の知覚能力に合わせて1秒間に24コマが映されたり,テレビ画面も走査線の変わるレートが決められているのに対して,GIFは先ほど見ていただいたように,ガシャガシャしている.GIFという形式が作られたのは,ネットとかコンピュータの能力が今よりも全然低い時代のものなので,今見ると「もうちょっとなめらかに動いてほしいなぁ」なんてことがあったりするわけです.  このように,GIFの形式が使用色256色以下とかに決定づけられているのは,人間の知覚や認識の能力に合わせられているのではなくて,少しスペックが低かった頃のコンピュータの能力に合わせて決められているのが面白いと思います.人ではないところに中心が置かれているのが,とても面白いわけです.ベンヤミンの「視覚的無意識」は「それまでの人間も見ていたけれど,まだまだよく見えなかったところを,機械がよく見せてくれる」ということで,結局は人間のところに戻ってくるわけです.しかし,GIFの場合,人間もそこにいるけれど,もうひとつコンピュータというものがそこにあって,人間のためだけなくコンピュータの情報処理のためでもあるという意味で,「中心」が人間からコンピュータに少し移っている画像としてGIFを考えてみると面白いかなぁ,と私は考えています.
 さっき言った,少しシャギシャギしたGIFの感じをそのまま受けいれていく中で,今までと違った感覚が「ポスト・インターネット」と呼ばれている作家たちの中で生み出されてきて,「(作家の)名前が消えちゃってもいいや」とか,そういう部分とも関係して,そうした流れを組みあげるものとして,例えばTumblrとか,そういったアーキテクチャが出てきたのかもしれない,ということです.ここは単なる仮説ですが,自分の中では,かなり考えてみたいところでもあります.

GIFとJPEGどっちが硬い?——Webの質感と〈インターネット・リアリティ〉

水野:もうひとつ,「GIF」を考えた文章として挙げられるのが,インターネット・リアリティ研究会の始まりの座談会です.そこに「GIFとJPEGどっちが硬い?——Webの質感と〈インターネット・リアリティ〉」という一節があります.そこで,エキソニモの千房さんが「GIFとJPEGはどっちが硬いと思うか?」という問いを出すわけですね.
 千房さんはそこで「もう15年も(エキソニモの)活動歴が長くなって」みたいなことをおっしゃっていたのですが,僕たちはすでに「15年」もインターネットと向き合ってきたわけです.作品を作るにせよ,ウェブ関係の仕事をしていたり,もしくはもっと一般的に,ただ単にネットを見ているだけなど,色々な立場の人がいますが,等しく「15年」の歳月が経っているわけです.それだけ長い年月が経ってくると,今まで考えなかったようなことも考えられるのではないか,と言っていた時に出てきた質問が「GIFとJPEGどっちが硬い?」でした.
 当日のやり取りをテキストに沿ってみていくと,インターネット・リアリティ研究会のひとりである渡邉朋也さんが,APMT[※08]の会場で「GIFとJPEG,どっちが硬いか」を実際に聞いてもらったところ,大した差が出なかったと指摘します.それを受けて,千房さんが「画像の形式に硬さなんかないわけですよ,本当は」と言いつつ「でも,「どっちが硬いか?」って聞かれたら,確実にGIFのほうが硬いって言える」っていう,そういう感覚がある」というわけです.畠中さんはそれに対して「どうしてですか?」と訊くのですが,栗田さんは「ふつうに,「うん」ってうなずける感覚があるんです」と言い,横の谷口さんも「うなずける感じですよね」と言い,畠中さんは「えっ本当(笑)?」と.youpyさんに至っては「JPEGはぬめっとしてる……感じがします」とまで言っています.
 僕もどちらかというと,「えっ本当?」という畠中さんの感覚に近いんですが……でも,「GIFのほうが硬い」という感覚がどうやら実際にあるようだ,というのはわかるし,あってほしいとも思うんですね.
 今,この話を聞いているみなさんの中でも「そうそう!」とうなずける人もいれば「本当かよ!」という人もいるかもしれない.けれど,そこがまた面白いところで,これがみんなうなずけるようになったら問題にはならないわけで,もしかしたらインターネットと長いあいだ向かい合う中で生まれてきた「出始めの感覚」みたいなものがあるのではないか.それまでインターネットやコンピュータとは無縁に生きてきた人類が,ここ15年,20年と経ってきて,そうしたものが一般的に使われるようになってきた中で,今までは「硬い/柔らかい」といった質感として語られていなかったものに対して,そういった感覚を見出せるような人が現われてきている.それ自体が面白いことなのではないか,と思うわけです.「こういう人たちがいる」ということは,もしかしたら今では,脳科学とかを用いて科学的に実証できなくてはいけないと言われるかもしれないけれど,そういうことではなくて,GIF画像に対して「硬い」という言葉を与えてしまえること.そこが考えるべきことであって,実証は後ですればいいのではないでしょうか.このような言葉と現象のつながりを面白がりつつも,真面目に考えてみると,今後そこから興味深いことが出てくるのではないでしょうか.
 先ほどのトム・ムーディは,GIF自体にはシャギシャギした感じがあるから,自分の展覧会の際,DVDに焼くために「GIFをMPEGに変換したら,その特質が損なわれるからどうしようか」ということを本気で悩んでいました.アーティストだったら,自分の作った作品のクオリティ・質感が損なわれるというのは,とても悩ましいところだと思います.先ほども言ったように,GIFというのはフルカラー表示ではなくて,256(2^8)色表示など,ヒトの認識に合わせたというよりは,その当時のスペックのコンピュータの処理能力に合わせたものです.だからこそ,そこに新しい感覚が生じる可能性があるわけです.だとすると,youpyさんが「JPEGはぬめっとしてる感じがする」と言ったのも,JPEGは「フルカラー」表示が可能だということと関係があるのかもしれない.現在は,GIFやJPEGに今ある言葉を合わせているだけなので,これらの画像形式と言葉のマッチングから,そこでの感覚をもっと細かく開いていくことを考えないといけないのかもしれません.

脱ヒト中心主義/脱ヒト化

水野:この展覧会に誘っていただいた最初の頃,畠中さんから「脱・人間」という話題もいただいていていました.ちょうどその時,畠中さんが考えられていたことと僕の考えでは,必ずしも同じではないかもしれませんが,僕も「脱ヒト」ということを考えていました.今まではヒト中心に考えてきたものを,コンピュータとともにあるGIFファイルのようなものを手がかりにすると,中心をちょっとズラして考えることができるのではないか,と.例えば,Twitterには,140文字以内という縛りがついたりしている.それに慣れてしまえば,言い換えればヒトの内面をシステムの都合に合わせてしまえば,コミュニケーションが可能になるわけだけれど,最初は「なんでそうなの?」っていうことになるわけですよね.でも,一度システムのほうに合わせてしまえば,あとは問題なく,そのシステムに合わせた感覚が生じたりします.
 以前行なわれたエキソニモのアーティスト・トークでも話題にのぼった《断末魔ウス》(2007)という作品がありまして,マウスを物理的に破壊した時の映像とその時のカーソルの動きを同時に記録して,その動画を再生するとカーソルの動きまで再現される作品なのですが,そこでもカーソルというものに哀れみを感じてしまうようなことが行なわれている.何かヒトではないものに対して,ヒト的な感情を持ったりすることが行なわれていたりするわけですね.
 あと,youpyさんの《Your photos' photostream》という作品は,RGBのそれぞれのRed,Green,Blueの値をひとつずつ上げてゆくことで表示される,別の色のファイルを全部ネット上のFlickrにアップしていく試みです.これはアップされた画像ファイルごとに色が全部違っている,ということですよね.でも僕たちはその違いがすぐにはわからない……いや,256×256×256=約1600万色,フルカラーという,とてつもない色の差異を識別できる人が今後出てくるかもしれないけれど,今はこれを見ていても違いはほとんどわからないですよね(笑).そもそも,こういった作品を作ろうという姿勢が,とても面白い.フルカラーの値をひとつずつ上げていって,違う色データのファイルを無数にアップするのだけれど,人間のほうはそれらの違いを識別できない,ということが行なわれているわけです.
 この,「脱ヒト」とか「脱・人間」という部分は,海外ではあまり考えられていないような側面です.日本独自というわけではないですが,面白い出来事だったりもします.

インターネット→インフラ(水平軸+垂直軸)

水野:インターネットというのは,われわれのインフラとしてすっかり定着しているわけですが,アレクサンダー・ギャロウェイ(Alexander GALLOWAY)という人がいて,彼はニューヨーク大学のメディア論の先生ですが,調べてみたら2002年のアルス・エレクトロニカで(《Carnivore》(2002)というソフトウェアの作品で)金賞を取ったりもしてもいます.今のインターネット社会を,ドゥルーズなどを使って読み解くようなことをやっている人物が,ソフトウェアの分野にも精通しているところが面白いし,それが「ポスト・インターネット」的状況なのだと思います.
 ギャロウェイは『Protocol[※09]という本を出しています.通信におけるプロトコルとは,ネットワークを介してコンピュータ同士が通信を行なううえで相互に決められた約束事のことですが,インターネット接続の標準方式では,TCP/IPとかが有名ですね.この著書の中でギャロウェイは「脱中心化した後の「支配」はどのように存在するのか」ということをテーマとして挙げています.著書の中で,インターネットは非常に自由(例:TCP/IP=インターネット上で通信を行なう際のプロトコル|水平軸)でありながら,それだけだと人間が対応できないから,秩序(例:DNS=ドメイン・ネーム・サーバ,適当なIPにドメインを与えるシステム|垂直軸)を与えている,というようなことを言っているわけですね.
 よくよく考えてみれば,世の中はまさに自由と秩序が入り交じっているわけですが,とくにインターネットというものは途轍もなく自由な方向に行きながら,そこに秩序も与えられている,ということです.それらが「水平軸」であり「垂直軸」だと言われているわけですが,よく扱われるTumblrやニコニコ動画など「アーキテクチャ」と言われる部分はネット上の「垂直軸」として,ある種の秩序を与えているのではないか,と思われるわけです.かたや先ほどから取り上げているGIFやJPEGみたいな画像形式は,その中を自由に流れていくメディアとかマテリアルと呼ばれるものに近いのかもしれず,それが「水平軸」になるのではないか.
 「インターネットとは何か」とか,新聞やテレビといった既存のメディアと比較した「インターネット論」は多く語られてきたし,Tumblrとかニコニコ動画のようなアーキテクチャと言われている部分も,濱野智史さんを筆頭にこれまでに多数論じられてきたと思うのですが,GIFやJPEGについては,まだあまり論じられていない.この「あまり論じられていない」という場合,そこに新しさを見出すのか,ただ単に「需要がない」からだということもあるのですが(笑),とにかくまだ「論じられていない」けれど,海外のポスト・インターネットについて調べていくと,そういうことに着目している人たちが多数いるというのは,これまた面白いことではないかと思います.
 結局,GIFというのはTumblrなどに吸い上げられてしまうもので,アーキテクチャの話に落ち着いてきてしまうのではないか,またはインターネット内のハイパーテキスト的なつながりを言ってしまえば,それ一発ですむのではないかという話もあるのですが,でもそこで,あえて「GIF」に注目してみると面白いと思うわけです.「GIF」から考えてみると,今までとほんのちょっと違った感覚を持っている人たちが,作品制作をしはじめているような状況が掴める感じがします.

イメージ・オブジェクト

水野:次のコリー・アーカンジェル(Cory ARCANGEL)の「猫が20世紀の前衛音楽を弾く」動画《Drei Klavierstücke op. 11》,これは後で時間があったら改めてご紹介しますのでいったん飛ばしまして…….
 もうひとつの「イメージ・オブジェクト」という話題ですが,これが先ほどから何度も名前が出てきた,アーティ・ヴィアーカントという1986年生まれのアーティストが言っていることです.アーティは,作品自体もとてもチャレンジングというか,もしかしたら少し「頭でっかち」なのかもしれないけれど,色々な挑戦をしている人物です.今「頭でっかち」と言ったのは,彼もまた,自分でテキストも書いている人なんですね.それで,過去の「ポスト・インターネット会議」で谷口研究員が,この「イメージ・オブジェクト」について端的に説明していただいたくだりがあったので,改めてここで引用しておきますと「「イメージ・オブジェクト」は実際に展示会場の壁面に設置されたレリーフ状の彫刻と,それを撮影し,画像編集ソフトで編集/改変したいくつかの画像のバリエーションから構成される作品だ」と.
 アーティは,こういう作品を作っています(プロジェクターで作品の展示光景を見せる).実際の作品は彫刻というか,物質で立体彫刻を作っておいて,それを撮影して,その撮影した画像をPhotoshopのスタンプ機能や修復ツールなどを使って加工して,さらにそれを展示してしまう……と.もともとは彫刻という物質的なものなのだけれど,それを写真に撮ってイメージにして,さらにその画像に加工を加えて再発表する.普通なら,そもそもの彫刻が作品として一番という位置づけなのでしょうが,ここでは加工した画像なども,ひとつの作品として扱っているわけです.そして,アーティはこのプロセス全体を「イメージ・オブジェクト」と言っているわけです.つまり,今までが物質=マテリアルな部分が一番だったのに対して,ネット上だとイメージに関しても多くのバリエーションが出てきて,それらが広がっていくわけで,そちらも(もとの作品=オブジェクトと)同等のものとして扱う,といったことですね.

「* new jpegs *」展

水野:そしてこのアーティ・ヴィアーカントも,本展覧会の出品作家でもあるパーカー・イトーも出品した「* new jpegs *」という展覧会が2011年7月23日から8月20日まで,スウェーデンの「ヨハン・ベグレン・ギャラリー(JOHAN BERGGREN GALLERY)」で開かれました.ギャラリーのページにはその展示風景がアップされています.この「* new jpegs *」に限らず,今はどんなギャラリーでも,展示作品をできるだけ良い状態で撮影し,ネットに画像を載せるのがあたりまえですが,「* new jpegs *」も,ここまでで終わっていたら,普通の展覧会なわけです.彼らの新しさは,作品を撮影したものを改変して,Tumblrに上げたことにある.さらに「改変していいよ」という形で画像をダウンロードできるようにした.すると,Tumblrには作家以外の人が改変した画像も上げられていく.このように,自分の絵を自分でも改変するし,他のヒトが改変して,再びネットにアップすることも「許して」いる.というか,彼らはこのように作品のイメージを循環させることを念頭に置いて,作品を作っているわけです.
 同展覧会のプレスリリースには「メディアのあいだの差異をヒョイとまたいで活動しているポスト・メディウム世代」と書かれていますが,彼らの世代……1980年代に生まれた世代ですね.彼らはインターネットとリアルをつなぎながら,展示を組み立てている.ここでひとつ問題提起をしたいのは,なぜ「new jpegs」で「new gifs」ではないのか? という部分ですね.
 もうひとつには,展示空間のこと.今ここで写真を見るとそれなりに期待させるのですが,実際にはそこまで面白い空間ではない,というか,だいたいのギャラリー展示は,ICCのように天井が高くて空間がしっかりとしているわけではなく,普通のホワイト・キューブの空間の中に作品が展示されているわけです.なので,ここのギャラリーでの紹介画像もそうですが,静止画像が一番きれいに見えて,実際に観に行くと「あれっ?」と思ってしまうところもある.でもこの場合は,ギャラリーに来た人は,パンフレットやリーフレットのどこかに「ネットにもつながっているよ」という案内を見て,たぶんネットのほうもあとで観に行ったりするのでしょう.

「* new jpegs *」展と「[インターネット アート これから]」展

水野:次に,この「* new jpegs *」と,今回の「[インターネット アート これから]」展を比較して考えてみます.「* new jpegs *」は,あの直接的な空間の中で,ネットとリアルをイメージが循環していくわけですが……やや余談になりますが,これはこちらに来る新幹線の中で見つけたのですが,昔,藤幡正樹さんが『アートとコンピュータ:新しい美術の射程』という著書の中で「四次元からの投影物」と言っていた一節がありました[※10].「僕たちが現実世界にあるものは,四次元……もうひとつ次元が上のところからの,ひとつのスライスでしかない」といった発想の,いわばネットを使ったうまいやり方が「* new jpegs *」なのではないでしょうか.もしかするとそれはとても陳腐なやり方なのかもしれないけれど,ひとつ興味深い部分だとは思われます.
 では,「[インターネット アート これから]」展に,イメージ・オブジェクトみたいなものがあるかといわれると,あそこにある谷口暁彦さん(1983–)の作品《夜の12時をすぎてから今日のことを明日っていうとそれが今日なのか明日なのか分からなくなる》(2010)が示している,イメージなんだけれど,同時に何かの機能を持ってしまっているという部分が近いかなと思います.谷口さんの作品はネットとリアルを循環しているわけではないけれど,僕たちがコンピュータを使っている時に見るカーソルとかボタンは単なるイメージでしかないけど,同時にある種の機能を持っているということに近い.これは,アーティ・ヴィアーカントの言っている「イメージ・オブジェクト」の意味からはズレてるかもしれないけれど,「イメージ」に新しい機能を持たせて「モノ」として機能させるというような感じで,イメージが「直接的」に機能をもつ,そのような新しいイメージが出てきているのではないかと考えています.一番わかりやすいのは,モノとしてのコンピュータの再起動が,イメージの組み合わせでできてしまうことです.コンピュータの再起動が「コンピュータをリスタートする」ということを示すイメージと,カーソルを組み合わせるとできてしまう.これもまた違う意味での「イメージ・オブジェクト」なのかな,と思います.
 「* new jpegs *」展と「[インターネット アート これから]」展の比較に戻ります.内覧会のときにやった座談会で,「やっぱり,今回こうやって難しかったのは,空間という条件ですね」と畠中さんが言ってて「だから今回のセレクションはそういう意味でほんとに空間性をちゃんと持っている作品」に限っている,と千房さんが言う.この言葉から今回の展示を見てみると,「* new jpegs *」展に空間性がないかというと,そうでもないのですが,ここ(ICC)での展示風景を見ていただくとわかるように,奥まったところにも別の展示があったりして,空間構成が豊かというか,実にうまく使われている部分が「* new jpegs *」展と「[インターネット アート これから]」展の違いではないかと思います.
 「空間性」への意識というのは重要な点だと考えられます.これまでは,デスクトップとかブラウザといったものの中にリアルな空間,特に「デスクトップ」は「机の上」というリアルな空間を「メタファー」によってコンピュータの世界に持ち込んだわけです.リアルから持ち込んだ空間性がコンピュータの中にあると同時に,今は「インターネットそのもの」という,そこに空間があるのかないのかわからない茫漠とした論理空間がある,その空間をどのように考えたのか,その結果が「* new jpegs *」展と「[インターネット アート これから]」展の展示構成の違いになっているのかなと思います.「* new jpegs *」展は,ネットの空間への入り口としてリアルの会場が設定されているのに対して,「[インターネット アート これから]」展は現在のネットの状況そのものをデスクトップという仮想の空間を介して,空間化するように会場が設定されている.だから,「* new jpegs *」展の展示会場は論理空間に直結するためにシンプルな構成になり,[インターネット アート これから]」展は,コンピュータの空間がもともと雑然としたリアルな空間性を持ち込んだのであれば,その先にあるインターネットを再びリアルに召喚すれば乱雑というか入り組んだものになることを展示構成で示している.どちらが正しいというわけではなくて,インターネットという「空間」に対して,リアルの側からアプローチしていくという意識こそが,重要なのではないでしょうか.

リアルとインターネットの同期

水野:そうなってくると,リアルとインターネットという二つの「空間」をできる限り同期させよう,という動きも出てきます.先ほど,今日のお話のタイトルに"β"とつけた理由をお話ししましたが,例えば東浩紀さん(1971—)の2冊の著書のタイトルが『思想地図β』(コンテクチュアズ/ゲンロン,2010—)だったり『一般意志2.0』(講談社,2011)というように,いずれもネット由来の言葉が使われていますよね.逆に言えば,もしかしたらネット界隈ではあまり言われなくなっているような言葉が,あえて使われているわけですけれど,これも何かインターネットで起こってきた感覚をリアルな現実世界……この場合は書籍ですが,こちら側にうまく移そうという意図の現われなのではないかと思います.おそらくこの感覚を形にしていくには既存の出版社ではダメだったのだと考えられます.だから,『思想地図β』のほうは,東さんたちが自分たちで会社を起こしてやっていたりするのかなと思います,それがとても面白いと感じていたので,今日の話にも"β"とつけさせていただいたわけです.
 「ポスト・インターネット」も同様に,ネット上で起こってきた感覚を,リアル=現実界のアートの状況に同期させようとしているのではないかと思います.ただ,この展覧会の最初の頃,もしかしたら今でも言われていることかもしれませんが,インターネット上ではとてもあたりまえのことを現実=リアルな空間に落とし込もうとすると,それがあたりまえではなくなってしまう.例えば「ICCの企画展なのにインタラクションが一切ない」とか「ネットワークにはつながっていないの?」とか,そういう感覚で展示作品を見られてしまう危険性もあるわけです.だけど,インターネットにどっぷり浸かっているわけではない,普通に使っている人にとっても,実はコンピュータやインターネットにおける「リアルさ」は,「インタラクション」とかそういった直接的なものではなく,まだ明確にはわからないけれど新しい「何か」になっていて,それを現実空間に持ち込んだ展覧会が「[インターネット アート これから]」展なんだということも言えるわけです.繰り返しますと,ただ「あたりまえ」なものを「あたりまえ」でないところに持ち込むと「あたりまえ」ではなくなってしまうということです.それは,アートの世界では死語かもしれませんが,いわゆる「前衛」というところに行ってしまうわけです.
 では,「[インターネット アート これから]」展が示そうとしているものは何なのか? そのヒントのひとつは,ネットとリアルとでは,情報処理の速度が違うためにズレが生じていることにあるのではないでしょうか.現実世界ではモノを見たり触れたり,"すべて"の知覚情報として感じているわけですが,ネットやコンピュータの世界では,どこか一点を選択しないと,今のところは処理ができない,ということになる.これは,千房さんの「コンピュータ 記憶 シンクロ」というブログ記事に書かれていることですが,「僕たちは情報をすべてリアルに処理しているけれど,コンピュータだと何かを選択しないと,そこでの処理が進まないというズレも,大きな問題を抱えているのではないか」と.
 この会場の後ろのほうで動いているdividualの《TypeTrace》[※11]も,キーボードの中からひとつのキーを選択していく過程で,キーを選択するあいだの時間を含めて「すべて」を記録すると面白いことができるよ,ということなのではないかと思います.こうやって処理スピードが違うものを同期させようというのが,アーティ・ヴィアーカントの言う「イメージ・オブジェクト」の考え方であったり,ここで展示されている多くの作品であったりするのかな,と.
 なので,今までの私たちはアートにおいても社会においても,インターネット独自のリアリティを追求してきたわけですが,今後はそういった「インターネット独自」とか「リアルそのもの」の追求ではなくて,インターネットとリアルが同期しているリアリティ……それはどこかしら完全に一致せず,微妙にズレているわけですけれど,そういったものをも追求していくのが,ここで言う「ポスト・インターネット」なのではないかと思っている次第です.時間が来ましたので,以上で前半のレクチャーを終わらせていただきます.(拍手)

後半 座談会へ


[※01] あとで書籍化もされています:Gene McHUGH, "Post Internet," LINK Editions, 2011.
http://www.amazon.co.jp/dp/B006VOLRRO
[※02] 最初のほうで「ポスト・インターネット・アートはインターネット・ワールドから離れていっている」と指摘しています:「Post Internet」2009年12月29日のエントリ参照.
http://122909a.com/?p=3161
[※03] 彼女は黄金にペイントしたカセット・テープの作品などを制作しています:《Time Capsules》という進行中のプロジェクトのこと.「フォート・ノックス・スタイル」(ケンタッキー州フォート・ノックスにある米国連邦金塊貯蔵所に保管されている金が実はメッキされた偽物である,という噂がある)で金色にペイントされたオブジェクトを複数用いて,埋立地やゴミの山に見立てたサイト・スペシフィック・インスタレーションとして展示されることが多い.
[※04] 黄金にしたガジェットを壊したりする動画を,YouTubeに上げたりもしています:《Golden Oldies》のこと.32分間のパフォーマンスを編集した抜粋版がYouTubeで視聴できる.
http://www.youtube.com/watch?v=kb8CMI6JANM
[※05] 消えゆくガジェットを表示させたディスプレイの上に紙を載せて,その形態をトレースした作品を作って,それらをFlickrなどに上げたりしています:《Monitor Tracings》のこと.
http://www.flickr.com/photos/marisaolson/sets/72157602681001997/
[※06] 「From Clubs to Affinity: The Decentralization of Art on the Internet」:2011年1月6日に,「491」というサイトで発表(http://fourninetyone.com/2011/01/06/fromclubstoaffinity/:現在はページ消失).ブラッド・トロメルの著書『Peer Pressure』(LINK Editions, 2011)に収録されている.
http://thecomposingrooms.com/research/reading/repeatpattern/Brad_Troemel_peer_pressure.pdf
[※07] 2008年にニューヨークのニュー・ミュージアムで開催された「ネット美学2.0(Net Aesthetics 2.0)」というパネル:2008年6月6日,出演:ペトラ・コートライト,ジェニファー&ケヴィン・マッコイ(Jeninifer and Kevin McCOY),ティム・ウィデン(Tim WHIDDEN),デイモン・ズッコーニ(Damon ZUCCONI),トム・ムーディ.
http://archive.newmuseum.org/index.php/Detail/Occurrence/Show/occurrence_id/1048
記録映像(トム・ムーディのプレゼンテーションは6本目)⇒ http://vimeo.com/album/51214
[※08] APMT:APMT6:APMT CONFERENCEのこと.2011年4月30日開催.
[※09] 『Protocol』:Alexander R. GALLOWAY, "Protocol: How Control Exists after Decentralization," MIT Press, 2006
http://mitpress.mit.edu/books/protocol
[※10] 昔,藤幡正樹さんが『アートとコンピュータ:新しい美術の射程』という著書の中で「四次元からの投影物」と言っていた一節がありました:「四次元からの投影物——デュシャンのオブジェからアルゴリズミック・ビューティーへ」(『アートとコンピュータ——新しい美術の射程』(慶應義塾大学出版会,1999)pp.119—124)参照.
[※11] 《TypeTrace》:2006年に開始されたdividualによるプロジェクト.コンピュータ上でのタイピングを時間情報とともに記録・再生するソフトウェア「TypeTrace.app」と,TypeTrace.appと連動してタイプされた軌跡を再現するキーボード「Kinetic Keyboard」で構成される.「[インターネット アート これから]」展では,このシステムを用いた《タイプトレース道——舞城王太郎之巻》(2007)を展示した.
http://typetrace.jp/