Feature: Diagnostics of the 20th century


戦争のエポック/芸術のメルクマール
The Epoch of War/Monuments of Art

高島直之
TAKASHIMA Naoyuki



VI ―1946 1973
冷戦の時代その1 :
アメリカの実験芸術とユートピア

B・シャーンは大戦後,「ホロコースト」の記憶をその途切れない線に託して制作を続けるが,その作風は象徴主義な傾向に移行した.デイヴィスは前述したように,1940 年に社会活動から手をひき個的表現活動に限定し,モンドリアンは44 年に没した.アメリカ合衆国は,彼らの出自や作業内容の違いを超えて「アメリカの画家」として飲み込み,戦後アメリカの「新しい伝統」の礎にした.アメリカは第一次大戦に躊躇しながら参戦し,また第二次大戦には日本の宣戦布告なしの「奇襲攻撃」によって,世界へ進出していく機会を得た.この3 人の画家の経緯自体が,アメリカのヨーロッパ化の過程ともいえ,その戦後の国民国家の表象と軌を一にしている.

アメリカにとってこの冷戦時代の前半期は「共同体の普遍」の理念を同一化させて,政治=文化のヨーロッパ化が完成する時代と言える.1950年,現在にみるプログラム内蔵型コンピュータの原形とも言える「EDVAC 」が,アメリカの数学者J ・フォン・ノイマンによって提案される.この外部から指示しなくてもひとりでに機械が計算を実行する装置は,20 世紀後半の技術世界に圧倒的な影響を与えていく.

この頃,アメリカン・アートは,抽象表現主義全盛の時代であったが,そのパフォーマティヴな実験的活動形態は,30 年代後半のヨーロッパからの亡命者によって弾みがつけられていた.元バウハウスの教員J ・アルバースを中心にパフォーマンスを典型としたプログラムをすすめていたブラック・マウンテン・カレッジは,1944年にノースカロライナ州に移転してサマー・スクールを発足.1939 年以来「非意図的音楽」を試みていたJ ・ケージと,同じく日常の偶然の不確定性に舞踊の可能性をみていたM ・カニングハムが,48 年のサマークールにB ・フラー,W ・デ・クーニングらと参加し,E ・サティの《メデューサの罠》を上演した.


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