戦争のエポック/芸術のメルクマール

ケージはさらに「偶然性の音楽」の実験を経て,1952 年に《4 分33 秒》の作品に到達する.さらに同48 年カレッジでのイヴェントでは,スライド映写とともに,ケージが朗読を行ない,カニングハムが踊り,R ・ラウシェンバーグが古い蓄音機を回した.これが「パフォーマンス」の原型となり,以後60 年代には,光と映像,音を組み合わせたイヴェントを多数開催していく.これはニューヨークでも評判になり,56 年には,ケージを中心に「ポロック以後」のアート環境を形成していった.「フルクサス」グループの中心人物G ・マチューナスは,61 年にニューヨークにギャラリーを開き,J ・ケージからの強い影響の下に出発して,都市生活と芸術との境目を無化するイヴェントを催していく.62 年にはA ・ノウルズやN ・パイクの参加を得て,最終的に計40 名ほどのメンバーによって,63 年から67 年にかけて 旺盛な活動を行なった.ケージの出自と関係の深い,イタリア未来派のL ・ルッソロの「騒音音楽」にみるように,「フルクサス」も,芸術家の特権的立場を否定し日常を撹乱する行為を手段化したが,それもまた芸術と日常との関係回復の意図があった.しかしそこに,未来派のマニフェストに盛られた露悪的なプロパガンダ性はなく,むしろ演者と観客の区分けがないために「観客」不在のまま,ひたすら少数で行為を繰り返すという,ある種のユートピア思想=平等な民主主義思想を特徴としていった.

この志向は,B ・フラーの考えとも通じる.フラーは工学技術者として,宇宙の最小ユニットが正三角形でできた四面体が最も安定した構造であることを発見した.この「より少ないものでより多くをなす」ジオデシック・ドームは,59 年にはNY 近代美術館で発表され,ヴェトナム戦争での仮設基地計画から,反戦ヒッピーのDIY(ドゥ・イット・ユアセルフ)運動にも開放されていく.


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