ジョージ・ソロス / 投資と慈善が世界を開く

04-c.開かれた会社:グローバリズムへの対処

 1962年に執筆されたソロスの草稿「認識の重荷」は,加筆修正の後に,『民主主義への資金提供』[★26](1980年)に収録された.ソロスはそのなかで,社会を三つの類型に区別している.すなわち,「伝統的社会」(有機的社会),「開かれた社会」(批判的モデル),「閉じた社会」(教条的モデル)である.ソロスはここで「開かれた社会」を,「伝統的社会」や「閉じた社会」と対比して論じているが,しかし最近の著作『グローバル資本主義の危機』 [★27]では,開かれた社会を「グローバリズム」と対比している.「閉じた社会」では,思考と現実が大きく離れ,「静的不均衡」の状態にある.これに対してグローバル社会においては,事態の成り行きがあまりにも激しく変化するので,人々の理解がこれについていけず,思考と現実のあいだに「動的不均衡」が生じる.このために,現実は,もはや期待に対する錨の役割を果たせなくなってしまう.

 これに対して「開かれた社会」は,「動的均衡」の状態であるということができる.「動的均衡」を達成するためには,しかし,市場がファンダメンタルズのもつ価値を信奉すればよいというわけではない.ファンダメンタルズは,再帰性の作用によって変化する以上,市場は常にそれを裏切る可能性がある.したがって,市場を安定化させるために人々が信奉すべきは,市場の示す価値によっては測れないような,社会的価値であるということになる.ソロスは,経済行動の指標となる価値と,社会一般で通用する価値を区別し,市場の安定のためには後者が必要であるという.

 とすれば,「開かれた社会」は,単に政府の介入がない状態ではなく,法律や機構を基盤として,共通の思想体系や行動規範(「社会的価値」)を必要とする社会だということになろう.市場社会は,なるほど再帰的な「ブーム=バースト」のメカニズムがなければ安定性を保っていけるが,市場参加者たちが市場の再帰的関係に反応するならば,その安定性は,市場参加者たちだけでは保っていけなくなる.「開かれた社会」の課題は,市場を社会的価値のなかに埋め込み,その安定性を維持することにある.このことは,国際的な公共政策の目的としなければならない.「開かれた社会」においては,各人の「可謬性」は,協力したいという積極的な衝動を伴わなければならない.それは例えば,核戦争の回避,環境保護,グローバルな金融・貿易システムの維持,といった諸目標に結びつけられなければならない.「開かれた社会」は,われわれが共有すべき一定の善を必要としているのである.

 しかし他方で「開かれた社会」は,常に価値観の欠如という危機に晒されており,人間の無知から派生する諸問題に直面している.人間は,自分が本来何を欲しているのか,何を欲すべきなのかについて,実際にはよく知らない.また,経済活動が高めるべき「本来的価値」とは何かについても,十分には理解していない.こうした価値問題は,「開かれた社会」においても完全に解決することはできない.社会の本質的価値は,常に推測されるのみであり,時代とともに変化するだろう.とすれば,社会の本質的価値を知るとは,その実質的内容を確定することではなく,むしろそうした価値に対する道徳感覚をもつことにほかならない.ソロスの考え方には,人々が洗練された道徳感覚をもって,未知の価値を実現するために,「成長への共同投企」をするという理念が想定されている.

 以上われわれは,ソロスの言う「開かれた社会」の理念についてみてきた.ソロスの考えはきわめて抽象的であるが,実際にはそこに,次のような具体的政策案が結びついている.すなわち,デリヴァティヴに対する「最大限の監督」と「最小限の規制」,途上国への直接の資金供給,IMFによる融資保証,タイと韓国における債務の証券化,長期的には,新設の融資保証機関が各国ごとに保証限度を決めて事実上の信用量管理を世界的に行なうこと,流入した外貨には準備率を課して資本移動を規制すること,ヘッジ・ファンド取引には証拠金を積ませること,などである.こうしたソロスの提案は,少しずつではあるが,その意義を認められつつある.実際,クリントン大統領は,ソロスの著作を読んでその提案に共鳴し,1998年9月ニューヨークにおける外交問題評議会では「50年ぶりの世界経済の大きな危機」を訴え,国際金融改革を政策の柱に据えるに至っている.同様の主張は,同年10月のIMF・世銀総会でもくり返し強調されている.

 ソロスの提案は,再帰性認識への過剰な負担を減らし,新しい公共性を構築することにあるから,その点では,インターネットが作り出す公共的世界にも期待できるだろう.すでに述べたように,ソロスの慈善事業はネット上のメディア芸術にも及んでいるが,そうした芸術は,個々の国の政治体制を超えて,純粋な美的関心の共同体をネット上に打ち立てることができる.人々はそのようなネットワークに自由に参加することによって,主体的な市民感覚を陶冶することができるだろう.芸術に関するネット上の共同社会は,しかし「開かれた社会」とは違っていつでも退出できるので,参加主体のコミットメントを弱め,道徳規範や知的資本を蓄積していかないのではないかという疑念が生じている.それゆえソロスの慈善事業が果たすべき任務は,ネットワーク上の知的交流をヘゲモニカルに展開することによって,そこから退出することが不利となるような,公共的な空間を構築していくことでなければならないだろう.「開かれた社会」とは,われわれがそこから逃れることのできないフレームワークであるが,そこに豊穣なネットワークを作るならば,各人は強いコミットメントをもって,応答責任を果たしていくことができるにちがいない.ネット上のコミュニティにおいても,ソロスのいう「開かれた社会」の理念が求められる所以である.

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