山口勝弘インタヴュー/教育のアヴァンギャルド

 

 それともう一つ言えるのは,ヴィデオの場合もそうですが,活動の発表をアメリカン・センターなどいろいろな場でやることで,社会的な広がり,進展に絡んでいると言えます.1973年に通産省が情報化週間というのをはじめて,コンピュータを中心とした情報処理が社会的にどのような関わりをもつかという観点から,コンピュータ・アートを中心とした展覧会,研究会などもやりました.幸村真佐男[★9],三井秀樹[★10],出原栄一[★11],端山貢明[★12]というような人たちが入っていて,ソニービルで継続的に3−4回展覧会をやりました.そのなかには,当時すでに女子美術大学でコンピュータを教えていた田中四郎[★13]もいるように,社会的な関わりと教育的な関わりが含まれていたのです.その後1981年に,アートとメディア・テクノロジーの統合を考えようということで,「アール・ジュニ」[★14]というグループを僕たちははじめました.当時ハイテク・アートと呼ばれていたヴィデオや電子音楽,コンピュータ・グラフィックス,アニメーション,ホログラフィ,レーザーなどいろいろな分野がそれぞれ芸術活動をはじめていました.グループのメンバーは,「ハイテクノロジーアート展」の公募部門に出品しはじめた若い世代のアーティストや筑波の学生たちで,やがて彼らがグループ活動の推進役を担うことになっていったのです.そしてさらに彼らが教育に携わり,学生を教えに行くことになります.

 そういう意味では,グループ活動によって人脈,ネットワークをつくり,それが教育者とかあるいはアーティストというかたちで社会的に広がっていきました.そういう運動が絶えずあって,大学のなかの活動だけではありません.ちなみに1960年代は,大型コンピュータに情報を集中させて情報管理をし,テレビ局や新聞社のようなマスメディアが情報を握ってしまうということにみんなが危機感をもっていました.ですから70年代初めに「ビデオひろば」ができたときも,そういうマスメディアに対抗する一つの運動として,目標を掲げていた部分がありました.それで,マイケル・シャンバーグの『ゲリラ・テレビジョン』を中谷芙二子さんが翻訳したりしていました(美術出版社,1974年).一方「アール・ジュニ」の場合は,ハイテク・アートつまりハイ・テクノロジーに関わるアート活動が社会的にはどういう方向に行くのかということを検証するんです.結果的には,機器のハードウェアの製作を通産省を中心とした行政が奨励し,それから企業が投資して商品を生産し,それを国内外に流通させるという典型的な日本の経済機構が,ヴィデオも含めたハイ・テクノロジーをバックアップするわけです.そうした環境に投下される技術がどういうふうにソフトの一つとして芸術とかデザインに利用可能か,ということを「ビデオひろば」も「アール・ジュニ」も考えていて,特に「アール・ジュニ」のなかには企業内の研究所のメンバーも入っていて,一種の共同研究会みたいなこともやっていました.ですから,そういう社会的なつながりが絶えず僕たちのなかにあって,それが教育にも反映されていたと思います.

 80年代後半になって新しい一つの教育システムが――多分筑波大学が一番最初にそういう教育分野を拓いていったのだけれども――教育の現場に広がっていって,いろいろな大学にメディアとかテクノロジー絡みの学科ができてきます.そういう広がりをもっていくと,逆にそれぞれの大学の組織のなかに組み込まれていくんです.筑波大学でも当初,「総合造形」なんていうのは鬼っ子なわけでほったらかしだったんです.だから逆にわりと自由に計画を立てて進めていけたというメリットはありました.ところがいまはそれぞれの分野に,「ビデオひろば」と「アール・ジュニ」,あるいはコンピュータ・アート展をやっていたメンバーが,全部先生になって散っていて,教育分野として大学のなかに収まってしまっている状況です.どうも現在,本来の活動を続けてきたなかで培った開かれたネットワークをつくるとか,社会との関連をもっていろいろな研究をするとかいう側面が少し弱くなってきています.そのうえ,ICCができたり東京都写真美術館ができたりして,そこでの活動におまかせとなっていきます.もう一つはかつては学生が,いろいろなところに出て行って展覧会をしていたのですが,いまそういう発表活動を外に向けてあまりやっていないということもあります.

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