その眼が赤を射止めるとき/トリン・T・ミンハ・インタヴュー2

 

トリン──先ほどお話しした《ありのままの場所》の赤い色と,まったく同じですよ.致し方ない事情から決めたことなんです.「長編劇映画」を作る予算はありませんでしたし,16ミリでも予算が足りなかった.そこで,プロデューサーはいちかばちかの賭けに出て,いたるところに電話をかけては寄付を募った.その結果,パナヴィジョン社が当初私たちがお願いしていた16ミリではなく,35ミリの撮影機材を期間中ずっと無償提供してくれるという信じがたいことが起こったんです.
しかし,そのツケは高くつきました.映画はできたものの,その後の動きがとれなくなってしまった.最後の編集を終えたのは1995年でしたが,プリントを作るお金が残っていなかったので,満足いくかたちで映画が公開できるようになるには,96年まで待たなくてはならなかったのです.

もちろん,別の判断が働いていることも確かです.これは,あなたがおっしゃったように,物語対ドキュメンタリーの問題というより,映画がもっている別の領域に足を踏み入れたという問題なんですね.言ってみれば,これまでは情報と真実といった領域に長年足を突っ込んできたわけですから,今度はラヴ・ストーリーにおける嘘と真実という領域に進みたいと思ったんですよ.私たちの社会で通常ラヴ・ストーリーとして読み捨てられていくものを相手にしたらどうなるか,見てみたかった.ただし,ご覧になればおわかりのように,できあがりには違いがあるものの,踏み込んだ足の向きは前の作品とあまり変わらないんです.

リピット――あなたの映画にはどれも,作品の方向性を決めているような場所(プレース)や場(スペース)の特殊性を感じるんです.場が,地理的環境と空想,経験と自己投影の交じりあう映画の運動を司っているというか,導いているように思うんですね.最近までしばらく日本で過ごされ,いままた新たなプロジェクトに取り組まれているということですので,そのプロジェクトのことや,日本という場に対するあなたなりの捉え方をお話しいただければと思います.

トリン――視覚で捉えた場を,フィルムやヴィデオ上で形になったものとして見るのがままならないうちに言葉にするのは,厄介なことなんですね.私としてはまだ取り組み始めたばかりのところなんですが,これまで確か5回日本にやってきて,今度は4か月という一番長い滞在でしたので,私なりの文化の受けとめ方も大いに変わりました.悪い意味ではなく,徹底して神秘のベールを剥いでいく体験だったのです.さほどロマンティックでもなく,さりとてエキゾチシズムを感じるほど遠いものでもない,微妙なニュアンスの違いがある現実を受けとめたわけです.

多くの外国人同様,私も日本人の生活や芸術において人の心がしきたりとして現われている点に惹かれています.例えば,日本の芸術には,渾然一体となった美と徳が強烈な印象をもたらす作品が数多くあります.また,私が日本での撮影に魅力を感じている理由の一つに,建物の景観があるんですが,線の美しさや障子などの可動性をとても大切にしているんですね.そこでは,内と外の境目が常に変化している.
あたかも――家の普請から機能的な鉄道網,芝居や祭りの行列のかなめとなる歌や踊りに至るまで――すべてのものが,ミクロ構造というか一個一個の部品(例えば祭りの行列で言えば,節を受けもつ人,リズムを受けもつ人,囃し立てる人,御輿を担ぐ人といった単位)を基にできあがったシステムを共有しているかのように見えるんです.生活空間や舞台の構図の配置において,光,色,線が目を奪うばかりの出会いを見せている点にも,ぜひ私なりに取り組んでみたいですね.とは言うものの,何ができるかという点に関しては,いつものように柔軟に構えていなくてはなりません.
無限にお金が使えるわけではありませんし,すべてはそれ次第という面が大きいですから.それに,次回作は精神の探究というテーマに大きく関わっていますので,お寺などでロケをしたいと思っているのですが,許可がもらえないかもしれないということも考慮に入れておかなくてはなりませんね.

精神性という考え方は,千年単位の区切りを迎えたいま,とりわけ精神的なものが秘儀めいたものや組織宗教と同一視されることが多い近代的な社会においては,懐疑を抱かせるばかりかもしれません.いにしえの伝統に回帰することも,現在形の創造活動ではなく,復古運動や物まねとしてしか見られなければ,否定さるべきものになります.
しかし,これこそ私たちが近代化した東洋においても西洋においても直面している問題であり,精神的なものを独善的で偏狭な見方で捉え,そこに寄生する神秘主義や超越論というかたちを通してしか考えられなくなっているせいだと思うのです.チベットやイスラムを取りまく状況が紛れもない例ですね.地理的な距離や国家の違いを超えて人を引き寄せる精神的な力をもつイスラムには,さまざまな議論があるにせよ,この千年の区切りの時期において,西洋への異議申立てを続けている唯一明らかな勢力として,その立場を保っていることは確かです.いまの時代には,違った目で精神性を見つめることが必要なんですよ.日本には,作家や映画作家たちが人生のこうした側面と格闘してきた確固たる伝統がありますから,そこからも想を得ようと思っています.

リピット――目のつけどころが素晴らしいですね.精神的な生き方や自我を探し求めること,精神性を捉え直してみることは,後期資本主義の日本にとっても興味深い話となるにちがいありません.どうもありがとうございました.

[1998年10月8日,バークレー]


訳者付記
前号では,トリン・T・ミンハの映画作品《Naked Spaces: Living is Round》(1985)を原題のまま訳したが,4月に東京で行なわれた上映会で 《ありのままの場所》という邦題が使われたので,今号ではその訳語を用いた

トリン・T・ミンハ
ベトナム,ハノイ生まれ.
作家・映画監督.カリフォルニア大学バークレー校教授.
映像作品=《ルアッサンブラージュ》《姓はヴェト,名はナム》《核心を撃て》など.
アキラ・ミズタ・リピット
1964年生まれ.
映画史,映像論.サンフランシスコ州立大学映画学部助教授.
とちぎ・あきら
東京国立近代美術館フィルムセンター客員研究員.
元『月刊イメージフォーラム』編集長.

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