その眼が赤を射止めるとき/トリン・T・ミンハ・インタヴュー2

 

リピット――あなたの映画のなかで,とりわけ奔放だなと思うのは,ある場所から目的地へと向かっていく言葉の動きをどうやって追っていくかという点なんです.目的地までたどり着かないことがよく起こるんですが,そちらのほうが遥かに言語やコミュニケーションについて,複雑きわまりない言語伝達や翻訳について,切実に考えさせられるんですね.
映画上での会話のやりとりは普通,切り返しという慣習に従って行なわれるのが普通ですが,上のような行方知らずというか到着不能のほうが遥かに挑発的だし,実体験から言ってもなじみ深いものだと思うんです.
あるインタヴューであなたは,通訳の人があわててあなたのもとに駆け寄り,「二人の声がするんですけど,どっちを訳しますか」と言いに来たという話をされてますよね.モノがなくなる,伝わらない,ちゃんと届かない,ということが苦になるどころか,むしろ映画のなかでは息抜きのように思えてくる.
というのも,これによって言語伝達の回路が表に出てくるからなんですね.あなたの映画では,どの作品を取ってみても,インタヴューが決して安定した姿を見せることなく,常に新たな場として作り出され,二度と同じようには進んでいかないように思います.どれも,その場の特殊性やあなた自身の関わり方に駆り立てられたというか,理由づけられているように見えるんですね.

トリン――あなたがいまおっしゃったように,皆さんが言語というものを考えてくれたら,私の映画はとても単純なものになるでしょう.本についてもそうなんです.私の本は難解だという話を,大学の先生方からさんざ聞かされます.確かに,それは否定しません.でもその一方で,15歳で学業を終えた人や,理論的にモノを考える訓練を受けていない人と出会うこともあります.
彼らは偶然手にした私の本を,一度に何ページも読み飛ばすことはできないけれど,そんなことはお構いなし,一回に数ページずつきちんきちんと読んでいき,素晴らしいと言ってくれる.というのも,彼らは私の思考の流れに自分とよく似たものを感じ取り,スッとその中に入ってきてくれるんですね.言語が――あなたもおっしゃったように,自らの内に一切の回路を生み出しながら――どのような動きをし,いかにして私たちに働きかけてくるのかをじっくりと眺めていれば,私の映画はとても「わかり」やすいものになるんです.

《姓はヴェト,名はナム》のように,インタヴューの内容が濃く,中身も激しいものになると,話し手を目の前にしていなくても,一つの声というよりいくつもの声がそこに聞こえ,言葉が切れ切れに行き交い,互いに重なり合いながら,会話が続いていくということが起こります.
自分が言語を操っているのだという立場から,突き放して眺めるのではなく,言語が自分に何をもたらすのか――自分の使っている言葉が自分をどう表現しているのか――という地点から,引き寄せて見てもらったら,この映画には難しいところなどなくなります.不可解ということで見る人が苛立つ場面があるかもしれませんが,私にとってはどれも清流のように澄み切っているんですよ.私たちが実際に言語とともに過ごしている日常において,こういうことはいつも起こっているのですから.

いくつかの声が同時にしたとき,どの声を訳したらいいかというエピソードについて言えば,日本流の解決策には驚いてしまいました.日本語ではそういう問題が起こらなかったんですね――私の作品を配給しているイメージフォーラムの担当者はいともあっさり,一方は縦に,もう一方は横に字幕を入れるという結論を下したんです.書に使われているあの文字なら,画を損なうこともあまりないし,縦にも横にも書けるというふうに融通がきくわけです.

リピット――《愛のお話》の公開が間近に迫ったころ,トリン・T・ミンハが物語映画を作ったという噂がちょっとした熱を帯び,スキャンダルの香りすら漂うような状況になっていました.しかし,私にはこれまでの作品も厳密な意味で非物語映画に分類されるものではないように思えたので,この話を聞いてもあまり驚きませんでした.
そこには,ドキュメンタリーだけでなく,実験映画,アート・フィルム,音楽映画とも呼べるような要素というか痕跡があったからです.そして,実際に見た《愛のお話》が,人が蔑みの言葉のように使っている物語とは違っていたことに,ホッとしたのです.確かにこれは一つのお話ですし,物語という側面ももっている.しかも,35ミリでできています.このフォーマットでやろう,こういう物語構造でいこうと決断されたことについて,お話しいただけますか.どういうきっかけで,あえてこうした点に踏み込むことになったのでしょうか.

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