ICC Report

鈴木了二の映画

《物質試行35 空地 空洞 空隙》上映

1998年9月18日,25日,10月2日,9日,16日,23日
ICCシアター



建築」と「映画」が遭遇することはいかにして可能か.「建築」と「映画」とに共通する「なにものか」をそこに顕在化させること.鈴木了二の1992年に制作された約15分の16ミリフィルムによる作品にはさまざまな命題が課せられている.その解析の一つの方法として「建築」と「映画」とに共通する物質的記憶を手掛かりに,この「遭遇」は実現されるだろう.

企画展「バベルの図書館――文字/書物/メディア」の出品作品《物質試行39 BIBLIOTECA》は,ボルヘスの輪郭のない,全容のない図書館をあえて可視化したものである.それは鈴木の言う「空隙モデル」としての「建築」であるように見える.「空隙モデル」はx軸+y軸+z軸からなる「空間」概念にt=運動をもちこんだもので,それは「映画」に近づくという.全容のない建築物が運動によってその全容を獲得すること.無数の断片の一つであるこの構造体がもつ斜面によって,この「建築」は無限の螺旋運動を示唆している.つまり,それ自体がある運動をすでにもちえていると言える.その「空隙モデル」の「運動」をあえて「時間」と置き換えてみると,それはまさに「映画」になり,あらゆる「時間」=「記憶」を内包した「建築」になるだろう.

未だ建築が「建築」とはなっていない時間と,既に建築が「建築」ではなくなった時間(鈴木了二)を走査する「映画」=「建築」として. 建築物の基礎のような,未だ完成されていない,あるいは廃虚のようにも見える構造と,15世紀フィレンツェの画家,フラ・アンジェリコの宗教画《最後の審判》の中に登場する建築のような構造体をモチーフにした模型,そしてどこか未来,あるいは遺跡,もしくは地球ではないどこかの都市のようにも見える模型などが断片的な映像として提示され,またそれらは「オデッサの階段」や「マラパルテ邸」といった映像的記憶の断片との既視感の中で解体され,「建築=映画」として「遭遇」することになる.

[畠中実]

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