Feature: music/noise

HOSONO+NAKAZAWA+ITOH+MINATO

エクスターズする文化へ
デジタル社会における内包空間の発現
Toward a Culture of Ex-stase:
The Appearance of Inner Space in Digital Culture

「移動する聖地―テレプレゼンスワールド」展
トークセッション「ネオシャーマニズム」

港千尋中沢新一細野晴臣伊藤俊治
MINATO Chihiro,NAKAZAWA Shinichi,
HOSONO Haruomi (http://www.daisyworld.co.jp)
and ITOH Toshiharu


なぜいま,ネオ・シャーマニズムなのか,
それはリアルな問題だから

伊藤──「移動する聖地――テレプレゼンス・ワールド」展のトーク・セッション最終回は,「ネオ・シャーマニズム」というテーマで行ないたいと思います.シャーマニズムというのは,シャーマン(霊媒)を軸に展開される一種の文化的な複合体=文化集積体と考えられるもので,人間の心の奥深くに潜んでいるある種の神秘性や力の源泉になっているものを指します.「シャーマン」という言葉だけでなく,「メディシン・マン」とか「ソーサラー」,「マジシャン」など,いろいろな用語が氾濫し,混乱して使われていますが,エリアーデの定義によれば,シャーマンとは,それが原始的であろうと現代的であろうと,すべての医者と同様に病気を治す者であり,かつすべての呪術師と同じように奇跡を行なう者なのですが,それ以上にシャーマンは人間の霊魂の導き手であるとされています.エリアーデは「サイコ・ポンプ」という言い方をしていますが,シャーマンというのはまず人間の霊魂の導き手であって,神秘家であり詩人であると定義しています.現代では急速に生活が文明化され,科学技術が進歩することによって,シャーマニズムの実践は一見消滅に瀕しているように見えますが,じつはシャーマニズムは意外なところに意外なかたちで生きのびている感じがします.特に音楽や美術の世界で,知らぬ間にシャーマニズムの影が入り込んできています.

 中沢さんは以前,「テレプレゼンス──電話,夢,霊媒」というエッセイ(『ゲーテの耳』河出書房新社)の中で,「電話というのはテレプレゼンス現象を技術的に実践した非常に神秘的な発明品であり,テレプレゼンスというのは時間と空間に対する人間の知覚を変化させて,現実とは異なる世界の通路を開くものである」と書いています.電話が発明されていなかった時代に,人々はじつはシャーマンによってテレプレゼンス現象を感受していた.シャーマンというのはトランス状態の中で霊に出会い,その声を生きている人間の世界に通信する仕事を行なっていたわけです.遠く離れていた人やいろいろな現象が,声を通して,いま=ここに立ち現われてくる.シャーマンという存在を,中沢さんはテレプレゼンス現象のパイオニアと見なしていらっしゃいましたが,新しいシャーマニズムの可能性やテレプレゼンスとシャーマニズムの関係性を初めにまずお話しいただければと思います.

中沢──この展覧会のタイトルは「移動する聖地」となっていますね.聖地が移動するかどうかは非常に微妙な問題で,だいたいの聖地は移動しないと思います.ただ聖地という場所は,この世の中にある空間でありながらこの世の空間でないような,一種の特異点みたいなものです.だから,聖地と呼ばれる所へ入っていくと,ちょうど『不思議の国のアリス』みたいに,時間や空間などの感覚がいままでの世界とはちょっと違った状況になってきます.聖地というのは,だいたい岩や石のある所が多いようですが,地表に出た岩や石が一種の特異点なんでしょう.この世界に異界がにょっこり顔を出していて,その岩のまわりに特別な磁場がつくられ,そこへ人間が近づいていったり触れたりすることによって,距離感など,ふつう僕たちが五感で捉えているものが変化する.聖地体験というものはどうも基本的にそうした要素をもっているみたいです.「テレプレゼンス」とは,遠くにあるはずのものが,生々しく,あたかも距離感を抹消したかのように,眼前にあるという感覚を表わしているんですね.

 電話が最初に発明されたとき,耳に受話器をあてて聞いてみますと,遠くの声がここにささやきかけます.しかも,耳元に相手の口がくっついているように,しゃべりかけられる感覚があったみたいですね.電話の歴史は長いですが,「ああ,人間は新しい時代に入ったな」という感覚を確かに与えたようです.それは距離感,つまり人間と人間,ものとものを切り離している距離を一気に縮めていく.そういうことが技術的に可能になりはじめた時代の一つの象徴だったと思います.電話が発明されてから,電話は神秘的な感じのするメディアだ,ということが盛んに言われはじめました.ラジオもやはりそうだったようです.

 田舎の僕の家には,お祭のための大きい太鼓がお蔵の中にしまってありました.僕はその太鼓を叩くのがすごく好きでした.最初にドーンという音をたてると,自分の中で何かが響きわたります.また叩きます.そうすると,太鼓を叩いているというだけで自分のまわりの世界がだんだん消えていくように感じていました.太鼓のドーン,ドーンという音が聞こえたり,あるいはヨーロッパでカーン,カーンという教会の鐘の音を聞いただけで,人間の感覚が一気に自分の内側へ向かっていくのを感じました.ですから僕は,シャーマンたちが太鼓を叩く姿を見て,どうしてこの人たちがトランス状態に入るのに太鼓を叩くのか,あるいは太鼓を叩くということを媒介にしているのかが,少しわかる気がします.それは,リズムをつけて空間をはねとばすように叩くことによって,人間の感覚を一気に内側に向かわせます.すると,不思議なことに距離感がなくなってくるんですね.

 距離感は数えることはできないし,空間の広がりもない.しかしそれは,人間が心の中で感じとることができて,そこでは強度が蓄え込まれている.つまり,人間の心の中には,内包空間というか,距離でも質でも量でもないような空間が広がっているのです.人間という生体システムでは,視神経で外の空間を捉えて,それを大脳の中で再構成して距離感をとったり,数を数えたり,量をはかったりする操作を行ないますが,そのおおもとになっている人間の心の世界は,内包空間になっている.つまりそこには距離も量もなく,ただあるのは強度だけです.何か非常に抽象的な,流れのようなものが人間の心の内部にはあって,空間性も時間性もないし,ただはちきれんばかりのエネルギーをかかえたものが広がっています.そこへ一気に人間の心を向けていくいろいろなシステムが,古代には発達していたと思います.

 それはシャーマンの技術に代表されるもので,これを身につけた人間は,自分の心の内部に入っていくと同時に,人間と石のようにまったく違うと思われているもののあいだにつながりを見出します.自分の心の中でそれが一つに解け合ったり,浸入しあったりするような状態を体験するようになるらしい.だいたい旧石器時代からこのやり方は技術的には発達してますが,最初の頃はかなりラフなんですね.例えば二酸化炭素の湧き出る穴のところへ行って,シャーマンが二酸化炭素を吸いクラクラになってトランス状態に入るとか(笑).それがだんだん洗練されてきて,特殊な幻覚作用をもった成分を植物や鉱物から取り出したりとか,あるいは太鼓を叩いてトランス状態に入る技術を発達させたわけです.

 こうした文化は新石器時代に入ってから大いに発達しますが,宗教からは長いあいだ弾圧されています.人間が石と話したり,植物と一体になってしまったりとか,遠く離れているものがあたかも距離を超えてこの場に現われてしまう.そういう能力のすべてを,どの宗教も否定しました.特に激しい否定をしたのはキリスト教でした.ということは,ネオ・シャーマニズムは宗教ではなくて,宗教以前,プレ宗教の段階です.最近の吉本隆明さんは「アフリカ的段階」と言っていますが,これはとってもナイスな言い方だと僕は思ってます.そういう能力は文明的な宗教に弾圧されてきましたが,かろうじて地球には生き残ったんですね.オーストラリアのアボリジニーのテレプレゼンスの能力は素晴らしい.アメリカ・インディアンにも残っていますし,日本の中にも古い神道みたいなかたちでいくつか残っています.

 なぜいま,ネオ・シャーマニズムなるものが話題になるかというと,これは別に過去に回帰しているわけでもなければオカルト趣味でもなく,本当にリアルな問題だからです.つまり,いま発達しつつある技術は,距離を縮めることになる.例えば,数学も従来の数えたり量をはかったりすることとは違うものを計量として扱い操作できるようになりはじめている.それは,内包空間というものに向かっているんだと思いますね.古典的な量を扱う世界ではなくて,人間の心の内面に広がる空間の量に触手をのばしていくことが,だんだん可能になりはじめています.つまり宗教がはじまる段階で,「魔術や呪術だから遅れたものだ」と言われ地下に埋設された人類の巨大な文化に対する歴史の見方に,質の変化が現われはじめているのです.

 ということは,確実に,宗教は別のものに脱皮しなければならない状態にきています.それは言ってみれば,超=宗教.つまり,宗教の先にあるものへと人間が意識を開いていかなければいけなくなっていて,もはや科学と技術は宗教の敵対者ではないし,それどころか技術自体がそういう空間を開きはじめています.つまり,宗教がはじまる以前(アルファ)の状態が,宗教の最終(オメガ)の段階と出会いはじめている.これはレトリックではなく,現実に起こっていることだと思います.ですから,宗教以前と宗教以後というのが,いま21世紀に向かって不思議な収斂をはじめているんじゃないかなという気がします.

伊藤──中沢さんは「テレプレゼンス」というエッセイの中で,テレビ電話になると電話の神秘的な空間が失われてしまう,視覚が入ると距離性がどんどん出てきてしまって内包空間ではなくなってしまうと指摘していますね.

中沢――これは多分,音楽の秘密に関わっていると思うのですが,音楽くらい不思議なメディア=芸術品はおそらくありません.絵画と音楽を比べて,「最終的にどちらかを残せ」と言われたら,音楽かもしれない.なぜなら,音楽のほうが原始的なんですね.そして原始的であると同時に未来的である.それは,内包空間へ人間を確実に向けていくメディアであるという意味で,そう思います.

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