特集: 音楽/ノイズ--21世紀のオルタナティブ
テクノイズ・マテリアリズム:メタ・エレクトロニクス・ミュージック

池田亮司 日本

 池田亮司がアルバム『1000 fragments』で,衝撃的といっていいデビューを飾ったのは1995年のことである.過去10年に及ぶ作業の総決算として制作されたというこのCDには,ミュジック・コンクレート〜サウンド・コラージュ〜プランダーフォニックの手法を徹底的に活用した《CHANNEL X》と,エレクトロニック・ドローンを用いた《5 ZONES》《LUXUS》の3作品が収められていた.池田自身は,現在では必ずしもこのアルバムの内容には満足していないようだが,歴史的に見てこの作品の登場の意義はきわめて大きいものだったと言える.池田の出現は,80年代に端を発するノイズ・エクスペリメンタル/ポスト・インダストリアルの系譜に,ある明確なピリオドを打ち,その後の流れを開始させたと言っていいからである.

 続いて英国のタッチより発表されたセカンド・アルバム『+/-』を,池田自身は「真のファースト・アルバム」と位置づけている.このアルバムには《headphonics》と《+/-》の二つの楽曲が収められているが,双方に共通しているのは,厳密に選別された純粋なパルス・トーンの配列による,ウルトラ・ミニマルなエレクトロニクス・サウンドである.そのあまりにも整然としたスタイルには,まるで明晰な計算式を見ているかのような,論理的な美しささえ宿っている.このアルバム1枚によって,凡百の“ミニマル・テクノ”はすべて時代遅れになってしまった.

 池田はその音楽に,ことさらに新しい手法やアイデアをもち込もうとはしない.彼が行なっているのは,ある歴史性をもち,それゆえにさまざまな点で袋小路へと入り込みつつあったエクスペリメンタル・ミュージックのイディオムを批判的に再検証し,根本的に新しいヴァージョンへとアップグレイドすることである.それは翻ってみれば,最もベーシックな,いわば基礎論的な場処へと立ち戻ろうとすることでもある.それゆえに,『+/-』は優れてアクチュアルでありながら,時代性によって拘束されてはいない.おそらく10年後,20年後に聴かれたとしても,絶対的な新鮮さを保っていることだろう.むしろ,それがどのように聴取され,受容され,認識されるかということによって,『+/-』はそのときどきの音楽的なコンテキストを映し出すことになるのである.

 2年の間隔を置いて(その間,池田はダムタイプの音楽/音響担当者として世界ツアーに忙殺されていた)先頃,やはりタッチより発表されたニュー・アルバム『0℃』は,これまで池田が試みてきた方法論が総動員された,複雑で多様な,そして圧倒的な速度に満ちた作品となっている.ここでもまた,ありとあらゆる実験音楽の手法のメタ・レヴェルに立とうとする池田の野心は健在だと言える.年内にはオランダのスタールプラートよりミニCD2枚組『TIME AND SPACE』もリリースされる予定である(ただし録音時期は『0℃』よりも以前である).

 90年代を折り返した頃から,それまではオルタナティヴ・ロック(ブラストファースト)や,テクノ(ミル・プラトー/アッシュ・インターナショナル)や,ノイズ(タッチ,スタールプラート)といったジャンル/スタイルに準拠してきたいくつかのレーベルが,まるで示し合わせたかのように,よりオープン・フォームのサウンドを模索するヴェクトルへと向かっていった.例えばミル・プラトーが編んだジル・ドゥルーズの追悼盤や,アッシュ・インターナショナルの一連のコンピレーション・ワークなどは,その代表的なものだと言える.おそらくここには,ノイズ・エクスペリメンタルと,狭義の現代音楽/実験音楽に属するエレクトロニクス/エレクトロアコースティック・ミュージック,そしてテクノ・ミュージックという本来バラバラに歩んできた三つの流れが音楽制作のために使用するテクノロジー/メソッドが,ほとんど同じになってきてしまったという,きわめて具体的な事情が隠されているのだろうが,それぞれの分野で活動してきたサウンド・クリエイターの中にも,不可逆的な態度変更を行なう者が次々と現われていった.

 現在では,ノイズ・エクスペリメンタル/ポスト・インダストリアルとかつては呼ばれていたシーンは,一部の保守的なノイズ原理主義者たちを除けば,実質的に解体してしまっている.それはエクスペリメンタル・テクノやアンビエント・テクノ,あるいは電子音楽の最新の試みとミックスされ,独自の進化を遂げつつある.それを例えば,テクノイズとでも呼んでみることにしよう.それはテクノロジー(による/についての)ミュージックという属性と,未知の音響を導入するというノイズが本来的にもっていたラディカリズムとが合体した,新次元のエレクトロニクス・ミュージックである.そこに潜在しているのは,音というものを一種の物質として捉えようとする,唯物論的な姿勢である.音楽とは作曲者=音楽家の内面でイメージされた音像をリプレゼントするものだという旧弊な思想は,完全に捨て去られている.テクノイズのアーティストたちにとっては,音とはあくまでも外部に在る,あるいは立ち現われるものなのである.ここではもはや,実験と発見と創造の区別はない.

 そして池田亮司の『1000 fragments』こそは,こうした潮流を開示するものであったと言えるのではないか.“千の断片”とはいうまでもなく,この世界にあまた溢れかえるサウンド=ノイズのことであろう.世界のあちこちで同時多発的にテクノイズへの傾斜が始まるのは,彼の登場以後のことである.彼自身には明確な意識はないかもしれないが,池田は最初から,エクスペリメンタル・ミュージックの歴史を総括するような存在として現われたのである.



ささき・あつし――HEADZ/FADER/meme/UNKNOWNMIXX

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