日本も韓国も近代化してから100年以上経過し,今日の若い世代の美術家にとっては西洋の近・現代美術は,それと意識されることなく自明のものとして受け入れられている.ということは逆に,これまでのように西洋をモデルとしてその後を追うという方法がもはや有効ではなくなったということで,美術家は自分自身でその方法とテーマを探さなければならなくなった.これまでの西洋の近・現代美術の習得の歴史を踏まえたうえで,西洋のモデルに追随するのではない自らのテーマを追求しはじめる作家が1990年代になって韓国に現われた.チョーはその代表的な一人である.その背景には1980年代に民主化を求める政治的な運動に呼応して起こった民衆美術の運動がある.民衆美術は第一には政治的・社会的なプロパガンダとしての美術であったが,同時にそれは自国の民衆の生活に根ざした美術への再認識へと向かった.
チョーは西洋の近・現代美術から出発し,そのうえで韓国人としてのアイデンティティをその作品に回復しようとする.自国の近代の歴史の中に埋没していった多くは無名の民衆を取り上げて作品の主題としていること,梭などの生活の中で用いられてきた用具を作品の一部とし,その中で培われてきた伝統的な美意識を作品に取り入れていることにそれがうかがわれる.
彼は古い写真を見つけて来てそれをそっくりそのまま拡大して白黒の大画面に描いている.それらの写真は朝鮮の近代の歴史の中の個人的な写真であり,「時の堅い殻を破って,そういったものがそれ固有の歴史という最も生々しい記憶を伴ってわれわれのもとにやってくるのである」と彼は語っている.「できるだけ誠実に彼らの命をいま一度復活させ」[★1]ること,それが彼の願いである.彼はそれらの作品を《20世紀の記憶》と名づけているが,娘の誕生を機に,古い写真の中から朝鮮の女性をとりあげて,《女性の歴史》と名づけられたシリーズを描きはじめた.女性は儒教的な伝統社会の中で男性に従属する者として,公的な性格をもつ男性に対してより私的な性格を強いられ,歴史の中に埋没し忘れられていった存在である.
チョーはそれらの絵のまわりを幅の広い黒い大きな枠やパネルで囲んでいる.それらは過ぎ去った時間を現代に呼び戻し,古い私的な写真を現代美術として蘇生させるための装置である.最近の作品ではこの装置はさらに複雑になり,絵は黒い大型の箱に収められコンピュータの制御によるあかりの点滅によって画像を浮かび上がらせる.《箱》は「環流――日韓現代美術展」に出品されたもので,ここでは彼は展覧会の趣旨に沿って,過去の日本と朝鮮の女性の姿を取り上げている.それらは二つの国の近い過去の不幸な歴史を暗示するとともに,歴史の表舞台に登場することもなく消えていった民衆の原像を浮かび上がらせていると言えるだろう.
■註
★1――「作者の言葉」(『第4回アジア美術展――時代を見つめる眼』福岡市美術館,1994)より.
(やまわき かずお・美術館学芸員)
■チョー・ドクヒュン
1957年韓国,江原道生まれ.ハンスン大学教授.1988年にソウルで初個展を開く.以後,毎年国内外で個展,グループ展を開催する.