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オーストラリア:2つの磁場
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アジア太平洋現代美術
トリエンナーレ会場風景
Photo=ICC


image マリンタン・スィライト
《家を建てる》
(アジア太平洋現代美術トリエンナーレ)
Photo=ICC


image ザイ・クニング
《水素 最も軽い元素,
床下暖房 熱い空気は熱の形で送られた,
白痴 精神的な極度の低能 全くの愚か者,
ヒステリー ノイローゼが原因の機能障害,
無気力 性のないヒキガエルの謎》
(アジア太平洋現代美術トリエンナーレ)
Photo=ICC


image ARAHMAIANI
《Nation for Sale》
(アジア太平洋現代美術トリエンナーレ)
Photo=ICC


image ワン・ジエンウェイ
《Model》
(アジア太平洋現代美術トリエンナーレ)
Photo=ICC



「第10回シドニー・ビエンナーレ――ジュラシック・テクノロジー・レヴァナント」は,DIAアートセンターのリン・クックがディレクターを務め,視覚表象形式の改革が進む電子時代のイメージ形成に焦点が置かれていた.テーマからハイ・テクノロジーを用いたアートを想像させるが,むしろ,リン・クックは旧来の複製技術メディアの「亡 霊(レヴァナント)」を強調していたのである.電子テクノロジーの勃興するこの時代に,復活してくる「レヴァナント」とは,メディア自体の反省によって芸術表現に新たな次元を切り開きつつある写真,映画,ヴィデオであり,さらに,複製性の概念の拡大としての版画,テキスタイル,建築まで含むものであった.  リン・クックは,サイバースペースにおける線的な時間,空間,主体の分裂可能性に疑問を呈し,視覚芸術の無視しえない拠りどころとして媒体(メディウム)の物質性と観者の身体性を主張する.ロラン・バルトの写真論を援用してマテリアルが被る変化,傷,損失などから,作品の「存在/不在」というアスペクトが取り出され,このアスペクトには,出来事に固有の時間性としての「はかなさ」が含意させられる.リン・クックの企画の意図は,「存在/不在」の時間性を写真以外の媒体へ適用することであった.


 アン・ハミルトンの《フィラメント》は黒いスカート状の巨大なガーゼがモーターによって回転し,ある程度時間が経つと止まるという運動を繰り返す作品である.普通のレースのカーテンに見えるほど柔らかく薄い素材であり,官能的な表情を見せるものであった.魅惑的な媒体は一度回転しはじめると内部空間と観者を遮断する.眺めている光景は,回転が停止するとともに静的な無表情へと帰っていく.「壊れやすく」「はかない亡霊のような」(リン・クック)光景の顕現.その流動的な光景は,過去のアン・ハミルトンの作品と同様に,視覚以外の身体感覚(ここでは触覚,聴覚)を覚醒させながら,われわれの内的な記憶の領野と触れ合っていくのだろう.

「はかなさ」という点では,手書きの積み重ねというローテクによって作られた,南アフリカ共和国の作家ウィリアム・ケントリッジのアニメーションが出色であった.1枚の絵画は動かないものであるが,彼は何度も,部分的に消し,描き加え,シュルレアリスム的な変形を多用する.物語は結果的には時間とともに線的に進展していくのだが,映像の流れは微妙に行きつ戻りつしている.私はこの作品の動きにレオナルド・ダ・ヴィンチの《洪水》のアニメーション化(カール・シムズ)を思い出したりもしていた.アニメの元となる「絵画」が,けっして無時間性のものではなく,生きた時間の流れと肉体的な終局を持つということを示し,その「はかなさ」が彼の作品の寂寥感の根源となっている.

line  また,トニー・アウスラーは,床に直に置いた眼のオブジェを出品していた.その眼にはヴィデオが投影され,眼球の形をしたスクリーンとなり,眼自体が映画のメタファーとなっているのだ.眼の左の縁には映画のフレームがかすかに映っているため,映画を見ている人間の眼であるということがわかる.その眼はモデルが意図せずとも,見ている映画に反応して生々しく動き,映画を見る人間と映画の中で動いている人間たちの交差を表現している.眼球は視覚機能の透明なメディアには還元されず,ある重み,そして生の厚みをもった肉体自体を不可視の領野から浮き上がらせる.

 リン・クックによれば,「存在/不在」の時間的限定を生きる,われわれ人間の肉体的 = 身体的な厚みこそ,旧来の複製技術のメディアが現代芸術において露わにしている諸テーマ,すなわち,社会的な記憶としての歴史,ジェンダー,多文化社会の差異などを裏打ちしているものなのである[★1]. 「第2回ブリスベーン・アジア太平洋現代美術トリエンナーレ」は,1993年に続いて2度目の開催であり,次回の1999年まで計3回が予定されている.前回の展覧会に対する大きな反響とその波及は,参加国・作家数および図録のテキストの増加に反映されている.

 レセプション当日,インドネシアのスィライトがパフォーマンスを行なった.あらかじめ床に並べられた黒土の小山とその周囲を白い砂で丸く囲んだエレメントのうえで,地を這うように踊りながら,黒土をまく.作品のインスタレーションは,砂絵を描くパフォーマンスを経て初めて完了する.しばらく一人で演じた作家は,観客の一人に両手に盛った土を手渡したのだろう,観客はその舞台とも言える床に足を踏み入れ土をまき始める.続いて何人もその行為を促され,同時に二人,三人が土をばらまいていく.絵と言うにはあまりに乱雑だが,その行為にはどこか厳かな雰囲気が漂っていた.作家は土を盛られた右奥のコーナーの蛍光灯の上の新聞を下から巻き上げるようにはがし,その場を立ち去ってしまった.壁にも,破かれたような新聞の断片が残されていたが,その記事は近代化と同時に噴出する社会問題をテーマとしたもののようであった.スィライトが行なったヴィジュアル・アート・パフォーマンス(近年インドネシアで盛んになった芸術ムーヴメントの一つ)には「家を建てる」というテーマが示唆されている.帰国して私は直観したのだが,あの場で土を渡されまき散らした観客は,国土に侵入し荒廃をもたらしてきた,あるいは,現在もたらしている他者,歴史的−文化的な征服者を演じさせられたのではないか.この行為に参加した者たち,さらにはそれを目撃していたわれわれは,作家のしたたかな戦略にしてやられたのかもしれない.

 アジア・太平洋地域の政治的経済的な共生という目的を背景としたこのトリエンナーレは,オーストラリアのキュレーターと現地の専門家との共同キュレーティングを謳い,ネットワークを通じたアジア・パシフィックの膨大なデータベースを構築しようとしている.クイーンズランド・アート・ギャラリーのシステムはまさに,「オリエンタリズム」に対する反省を実証的な事実の正確な調査を通じて行なうという正当なものであることは確かだが,反面,それは西洋美術史学の合理的な分類の側面を強く押し出す.もちろん,ポリティカル・コレクトネス(PC)などのテーマ設定や説明は事後的になされるべきことはトリエンナーレ主催者側も自覚している.しかし,作家のテーマ,意図,素材などの整理分類自体が,民族的−文化的アイデンティティをステレオタイプ化する危険を多少なりとも持つこと,さらには,アジア・パシフィック・アートの制度化がマーケティングに伴う消費という価値の一様化へと向かう事態は避け難い.資本主義消費文化による文化帝国主義の隠された暴力性こそ,このポスト・コロニアルと形容されるこの地域の鋭敏な感性が危惧しているものである.

 イメージの画一化と分類の暴力性に対する皮肉として,シンガポールのザイ・クニングは,200個ともいう,ワックスで作られた微妙に形態の異なるオブジェを床に並べ,壁に吊るしている.その奇異な物体と対照的に展示スペースは,非常に明るい照明が抽象的な空間を強調し,ショー・ウィンドウさえ思わせる.この作家は,過去シンガポールで展示会場自体の封鎖を発表し,作品の商品化にアンチテーゼを提示した経緯を持つ.このナイーヴな「分類への抵抗」は,分類されて展示に供せられるという美術館のシステムを標的としている.


社会の構造に対する眼は,一方で,システム自体のプログラミング化と情報の入出力への問いへと向かっていく.中国のワン・ジエンウェイは,前後に往復運動する診察台(ベッド)の上に生体細胞の分析的CG映像をすえる(《Model》).ベッドの前には,断続的に蠅の実写ヴィデオが投影されている.細胞,脳の断面図,脳から伝達される情報による精子の生産と移動.ここにシミュレートされた体内のミクロな情報過程は,社会の物質的基底に対する認識論的切断を経た冷淡な眼(カメラ)によって切り取られ,生物界および社会の普遍性と特異性,進化,誕生,性差,マジョリティとマイノリティさえもわれわれに想起させる.

中国のワン・ルーイェンによる自転車のモデル・チェンジを主題とした作品,インドネシアのアラフマヤニによる,文化帝国主義へ「売り出し中の国民」(《Nation for sale》)という辛辣なテーマのインスタレーション,フィリピンのフランセスカ・エンリケスの石膏によるインテリアのミニチュアの山とインテリアのカタログ雑誌全ページの油彩による複製など.それらは消費文化的なオブジェを用いている.それらのオブジェは文化的記憶を呼びさまし,現代に新たな歴史の解釈と目撃者を形成する(それはわが国の山下菊二の社会政治的なフォト・コラージュや韓国のユック・クンビョンの歴史的事件の記録映像の転用ともオーヴァーラップするだろう).

  マレーシアのウォン・フォイチョンは,相対立する民族,階層を表象する社会的なイコンの組み合わせ(それはコンピュータ上での試行の後,タブロー化される)によって,共同体の唯一の歴史(物語)というフィクション性を暴露しつつ,階層間の心理的な裂け目を提示する.ウォンは「個としての私がいかに共同体的な私となるのか」と問いかけるが,この問いの運動は,社会的な記録を身体的・心理的抑圧として意識しながら,それに対する戦略的なアプロプリエーションによる脱神話化の実践を通してなされるのである.



「シドニー・ビエンナーレ――ジュラシック・テクノロジー・レヴァナント」は1996年7月27日から9月22日まで,シドニーのアート・ギャラリー・オヴ・ニュー・サウス・ウェールズほかで開催された.「ブリスベーン・アジア太平洋現代美術トリエンナーレ」は1996年9月27日から1997年1月19日まで,ブリスベーンのクィーンズランド・アート・ギャラリーで開催されている



■註
★1......Lynne Cooke, "Embodiments", in JURASSIC technologies revenant, 10th Biennale of Sydney (Exhibition Catalog), 1996, pp.53-61.



(かみかんだ けい・美学美術史)



[ホームページ・リンク]

シドニー・ビエンナーレ:
http://www.sydneybiennale.geko.net.au/

ブリスベーン・アジア太平洋現代美術トリエンナーレ:
http://www.slq.qld.gov.au/qag/apt/welcome.htm





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