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構築と破砕をめぐる祭典
第6回国際建築展 ヴェネツィア・ビエンナーレ

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日本パヴィリオン外観
10体の高速道路工事標識ロボット
「安全太郎」が石山修武によって設置された.
内部にも2体のコンピュータ・ロボットや
通信機器が組み込まれた.
Photo=宮本隆司

image 日本パヴィリオン内部.
壁面全体には
宮本隆司が神戸の被災地で撮影した写真が
ロール状の印画紙にプリントされ貼りめぐらされた.
壁面の高さは約5m,
総延長100mにも及ぶ.
Photo=宮本隆司



 9月15日から11月17日の2カ月間にわたり,ヴェネツィアで,第6回国際建築展が催された.お祭り好きのヴェネツィアでの現代美術・建築の祭典は,ヨーロッパの恒例行事としてすでに定着しつつある.今回行なわれた建築ビエンナーレでは,建築家のハンス・ホラインが磯崎新をはじめとする5人の国際的なエキスパートの協力を得て全体のディレクターを務めた.
 水に囲まれた美しい公園内に設定された会場は,主にふたつのセクションから構成される.世界各国から選出された建築家たちの作品を一同に展示したセントラル・パヴィリオンと,32カ国が参加した28棟のパヴィリオン群である.
 セントラル・パヴィリオンでは,“Sensing the Future−The Architect as Seismograph”というテーマのもとに,現代建築をリードする39グループの著名な建築家たちの作品が展示され,日本からは安藤忠雄,磯崎新,伊東豊雄の3氏が作品を出展した.
加えて,“Emerging Voices”というテーマのもとでは,日本の長谷川逸子,入江経一,岸和郎,妹島和世氏らを含む32グループの(ホラインの言葉を借りれば「いまだ世界的にはあまり知られていないが,新たなアプローチを先駆的に示している」)若手建築家たちの作品が紹介された.
「今日の建築家は,いわば文化的な地震計(Cultural Seismograph)だ」と,ホラインは言う.現在,建築に関わる新たな思想,トレンド,未来の展望は,もはや共通のドグマ,真実,あるいはガイドラインに基づいたムーヴメントによってではなく,個人としての建築家の立場や作品によって示されている,つまり建築は他の芸術と同様に個人化しつつある,とホラインは分析するのである.そして,さまざまなベクトルに刻々と変化する(個々の建築家が身を置く)状況を,建築家は地震計のように敏感に,正確に感知し,彼の作品に反映するのだと.
 たしかに,現在,建築デザインが世界的にとらえようのない混沌とした状況にあることは,建築に関わる者の多くが感じていることだろう.実際,セントラル・パヴィリオンに展示された(それなりに建築雑誌に目をとおしていれば見おぼえのある)近年の「話題作」の数々からは,個々の作品は興味深いものではあっても,一定の方向性を示しうるような将来有望なデザイン,あるいは思想は見出せない.「地震計としての建築家」というキャッチフレーズは,したがって,このような漠然とした現状を,努めてポジティヴにとらえようとしたホラインの苦肉の策だったと言えるかもしれない.

 美しい木々に埋もれて,静かに(もっとはっきり言ってしまえば,ややしらけた雰囲気で互いに何の関連性もなく)立ち並ぶ各国のパヴィリオンのなかで,ビエンナーレを訪れた人々にひときわ強烈なインパクトを与えたパヴィリオンがある.磯崎新氏がコミッショナーを務めた日本館である.


 日本館のテーマは,「Fractures(破砕)」.説明するまでもないかもしれないが,95年1月17日早朝に阪神地域を襲った,あの大地震を取り上げている.
「日本館のコミッショナーとして私は,楽観的な建築プロポーザルよりもむしろ,この激しく傷つけられた都市の廃墟こそ,今日の日本建築の現状を的確に語るものと感じた」と,磯崎氏は日本館のパンフレットのなかで述べている.
たしかにそのとおりだと,見る者を納得させるに十分のメッセージを伝えることに,日本館は成功していた(ちなみに日本館は,最も優れたパヴィリオンに与えられるヴェネツィア・ビエンナーレ金獅子賞を受賞している).
 まずは,打ちっ放しの建物の前で,美しいヴェネツィアにはおよそ場違いな,黄色い作業服の「作業員ロボット」がせわしなく旗を振っている光景が目に飛び込んでくる.シンプルで上品なデンマーク館の斜め向かいに位置するだけに,そのキッチュな印象は強烈だ.しかし,その光景がなんとも言えず日本的だったので,思わず苦笑してしまった.

  しかしながら,一歩館内に足を踏み入れた後は,正直なところ,文字どおり言葉を失ってしまった.平和な日本の平凡な日常を襲ったあの大地震を,1年半以上もたったいま,まるで虚構であるかのように美しいヴェネツィアで疑似体験するという,予期せぬ出来事にショックを受けたせいだろうか.あるいは,今回の大震災で深く傷ついた神戸に生まれ,同じく多くの犠牲者を出した芦屋で育ったという,私の個人的なバックグラウンドゆえだったのだろうか.
 館内の床は,実際に神戸から運ばれてきた瓦礫(主に,崩壊した住宅の建築材)で埋め尽くされていた.参加アーティストの一人である建築家の宮本佳明氏は,実際にこの地震を経験し,自身の「家」が崩壊する被害にあい,震災後,瓦礫を街の中心に積み上げ,住民と「家」という構築物との関係を,実利的なレヴェルから記憶のレヴェルに変換しようとの試みを行なったという.そしてその試みは,このヴェネツィアでのインスタレーションにおいて,神戸という一都市の枠を超えて,「構築する」という建築の最も本質的な行為の不確かさを再認識させるものとなった.

line  壁全体を覆う,無残に破壊された街の建物の白黒写真は宮本隆司氏の作品である.宮本氏は,現代生活のなかで放棄され廃墟となった建物を撮り続けている写真家として知られている.まさに現代の廃墟となった震災直後の神戸で撮られたこれらの写真からは,現代建築が受けた傷の深さがひしひしと伝わってくる.
 加えて,建築家の石山修武氏による瓦礫の上に置かれたコンピュータ・インスタレーションは,高度にハイテク化された現代都市が抱える,進歩と裏腹のもろさを鋭く批判する.さらに,そこから流れる,地震直後の被害状況を伝える当時の緊迫したテレビ(あるいはラジオ)放送のランダムな音声は,虚と実のボーダーラインを,一瞬,見失わせた.

 ヴェネツィア・ビエンナーレを訪れた,多種多様な国や地域の人々が,このような感想に共感するかどうかはわからない.おそらく,多くの外国人にとってはまだまだ遠い国である日本の一地域で起こった大震災そのもの以上に,自然災害によってもたらされた都市の廃墟がどのような著名な建築家の作品よりも一国の建築的現状を的確に表現するというショッキングなコンセプトのほうが,リアリティをもって受け容れられたのではないかと推測する.そして,そのリアリティが今回のヴェネツィア・ビエンナーレで多くの反響を呼んだことは,日本館に向けられた関心の高さからもあきらかだろう.実際,すでに見慣れた作品が「建築見本市」といった様相で陳列されているだけ,という感がいなめなかった今回のヴェネツィア・ビエンナーレのパヴィリオン郡のなかで,日本館だけが(賛否はあるにしろ)はっきりとしたメッセージをもちえていた.
 今日の日本の建築界が直面しているこの深刻な現実を,国際的なレヴェルに変換しえたという点で,磯崎氏と3人のアーティストによる日本館のインスタレーションは,ひとまず成功だったと言えるだろう.
 しかしこの成功が,日本で建築に関わる人々にとっては喜ばしいものではなく,逆に深刻な問題を突きつけるものであることは,いまさら指摘するまでもない.「楽観的な建築プロポーザルよりもむしろ,この激しく傷つけられた都市の廃墟こそ,今日の日本建築界の現状を的確に物語る」という磯崎氏の言葉に含まれた,現代(とりわけバブル期の)日本建築のありかたに対する批判,あるいは,建築にまつわる既存のパラダイムそのものを問いなおす問題提起に対し,今後,日本の建築界は冷静に,謙虚に,しかし前向きに取り組んでいかざるをえないだろう.

 阪神大震災という「激震」をうけて,日本の地震計(建築家)は,今後どのようにゆれるのだろうか.

(きのした としこ・建築史)





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