InterCommunication No.16 1996

Feature


2――チルドレンズ・ミュージアムと
ワークショップの方法


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森岡――96年の2月下旬に先の研究会のメンバーで,病院のなかで展覧会というかワークショップを計画しているんです.

大月――入院している人が作った作品で展覧会を開くんですか?

森岡――そうではなくて,アーティストの作品です.病棟内のプレイルームのような部屋を使わせてもらうんですが,参加者は10人ほどの長期入院の子供たちとその家族です.その提案をはじめにドクターにしたところ,すこし間を置いて「2回できないかなあ」とたずねてきた.にわかには質問の意味がわからなかったんですが,すぐに納得できた.抗ガン剤など特殊な薬を投与されている子供たちは,抵抗力の減退の問題などがあり,一定期間クリーン状態にしなければいけないので,滅菌した病室から出られないんです.そのスケジュールとワークショップが重なった子供たちが残念な思いをするからということなのです.治療のタイム・スケジュールが個別の生活時間を病室のなかに形成している.病院というシステムをめぐっての僕の想像力や情報のなかに,そんなことは全くなかったんですよ.
 そのようなわけで,前林明次さんというアーティストがいま計画している作品は,2台のコンピュータをラインで結んで病室間でも合奏ができるという音楽システムです.余談ですが,先の少年の病室には小児科のドクターが管理するWebサーバーから,すでにケーブルが引いてあります.なんと彼は自分のWebページを持っているんです.作った曲のファイルなどが乗せてある.まだパソコンを買うお金がないんですが,このワークショップを機会に,夢のあるインターネット・プロジェクトが立ち上がってくるかもしれないですね.

大月――これだけでもすごい生活っていうか,1日1日を過ごすこと自体がもうひと仕事ですよね.病気でなければ,毎日が無意識のうちに飛ぶように過ぎていくんでしょうが,病院やベッドの上で過ごさなければならない人にとっては,やっと1日が終わるみたいな,時間の密度がすごく濃いわけですね.それは病気の重さや種類,治療の方法などによっても大きく変わってくるものでしょうね.時間の流れは人によって随分違うんじゃないかと思います.私は子供たちを見ていると,そういう身体や心の状態とかではなくても何かを獲得していくとか,ものを創っていく時間が一人ひとりすごく違うのを感じます.美術館で子供たちとワークショップをやるときは,一応タイム・スケジュールを決めているんですが,最後にできた作品を展示したいという希望が館のほうから出てくると,やはり完成させたほうがよさそうだと欲が出てくるんですね.そうすると,ワークショップでは本来それぞれの個人の時間の流れを大切にして,その時計の動きに合わせてのんびりと何かを作ってもらいたいわけですが,なんとなく後ろのほうからおしりをたたいてしまうことになる.この相反するものをまとめなきゃならないジレンマを常に感じるわけで,これは少しまずいんじゃないかなと思うんです.

森岡――美術館では展示部門のようなメインになる業務の時間が,他の部門のスケジュールをおおむね支配しているように見受けられます.その時間と,教育システムとしてのミュージアム・ワークショップが内在させている時間のサイクルや質はおそらく違うんですよ.それを強引に合わせてしまうと,よくあるカルチャー・センター的なものにしかならないですね.つまり,時間管理が内容や質を決定してしまう結果になる.

大月――本当にそうですね.子供の遊びというのはいつが始まりでいつが終わりっていう決まりがないですよね.ごはんの時間だから帰りなさいって家の人が呼びに来たり,暗くなったから,しょうがないから一応ストップはするけれども,また次の日,自然にそのまま遊びを再開したりすることがありますよね.そのような始まりも終わりもないような時間の流れというのが一番理想だと思うんです.でも催事としてやるときには,スタートと,やっぱり一応終わりを決めなければいけない.最初に彦坂さんがおっしゃっていたラ・ヴィレットのシテ・デ・アンファンでは,時間や空間を瞬時でも共有することでコミュニケーションを開いていくことが,つまり理解することなんだっていう話がありましたが,ワークショップも理解ということのほかにもう一つ体験というものが加わってきます.だからそれは全く同じようなものなんじゃないかと思うんです.共通の時間や空間そして体験を瞬時共有したその他者と重なり合った部分以外は,できるだけそれぞれの自然な時間の流れのままにしておきたいと思いますね.

森岡――僕はこれまでICCで2度ワークショップの企画と運営をやったのですが,1回目は高校生や中学生とジャンク・アートみたいなものを作りました(「光る!動く!あやしい?」,本誌8号の森山朋絵氏のレポート参照).企画の当初に考えたのは,ワークショップの終わり方をなんとか工夫できないかということでした.つまり彼らがまた学校や家庭に戻っていく,その速度とうまく合うような終わり方がないものかと考えたわけです.それで,ゴミで作品を作って楽しんだのだから,もう一度ゴミに戻してやる過程も確認したいと考えたんです.全員で作品を潰して,夢の島まで自分で捨てにいく.結局は,このアイディアは実現しなかったどころか,ずいぶんにぎにぎしいエンディングになってしまいましたが,おそらくそうした時間デザインの創造的な管理プロセスみたいなものが,ワークショップにとって大事なんじゃないかとそのとき痛切に感じました.

大月――そうですね,それはいますごく切実に感じています.しかしそれは子供や障害者だけじゃなくて,一般に生活している普通の人も含めての話なんだと思います.
 ところで,チルドレンズ・ミュージアムをはじめとして子供がしばしば訪れるミュージアムとコンピュータの関わりは,今日の話のキーになるのかなと思っていたんですが,思い返してみると,これまではけっこう原始的な使われ方が多かったように思います.グラフィックのソフトを使って作画したりとか,機械操作のシミュレーションだったりとか,人がスクリーンの前に立っていろいろな動きをすると,それをビデオで取り込んで画像処理したものが少し遅れてそのスクリーンに映し出されるという,サンフランシスコのエクスプロラトリアムというミュージアムから世界中のさまざまなミュージアムに普及した装置とか,あとはデータベースのようなものでしょうね.ただ,それらもだんだん進化して,ヴァーチュアルなものとか,よりインタラクティヴな性格が強くなってきていますね.
 その進化の方向がどこを向いてきているかというと,これはコミュニケーションを開いていくことなんじゃないかと思うわけです.例えば,これまでクロマキーの原理を体験する装置では,青いスクリーンの前に立った人が,いかにも空を飛んでいるような映像のなかに合成されたり,上からミートソースをかけられたりという,ちょっとシュールな映像が楽しめるものだったんですが,最近では合成されたモニターのなかの映像を見ながら,自分の手や体を動かすと,画面上の自分の体を取り巻く楽器などを使って曲を作ることができたりするものがあります.こうなると,入れ替わり立ち替わり自分の音楽を披露したり,人が作曲したものを楽しんだりするうちに,その場が一挙に和やかになっていくわけです.あるいは,グローヴを付けてヴァーチュアルなバスケット・ゲームをするところにちゃんと段々の観客席が設けてあって,一所懸命架空のボールを投げているところをみんなで応援したりするなかで,何だか連帯感が生まれてきたりすることがありますね.
 また,コミュニケーションと言えば,ボストンのチルドレンズ・ミュージアムには,触るといろいろな子供の顔が出てくるコンピュータがあります.ボストンにはいろいろな国の人たちが住んでいますよね.このコンピュータには,例えばヒスパニックの子がクラスメートのお母さんから「あの子とは遊ばないように」って言われたことに対しての自分の思いとか,日常的に受けるいろいろなダメージを,切々と訴えるのを聞けるプログラムがあるんですよ.自分の立場だけじゃなくて,いろいろな人種のそれぞれの立場を体験したり,きちんとありのままの話を聞いたりすることに使われています.これはとてもおもしろいなと思いましたね.意識的,積極的にコミュニケーションの問題に取り組んでいるわけです.技術的なことで言えば,それぞれの子供の顔の部分をクリックするとその子が喋り始めるような単純なものでしたが,ハード的にもソフト的にももっと複雑になってくると,これだけでも随分深くいろんなことができそうですよね.

森岡――チルドレンズ・ミュージアムだけではないかもしれませんが,子供の教育と,いわゆるCAI(コンピュータ・アシステッド・インストラクション)のようなかたちでのコンピュータ利用との関係というのは,アメリカではやはり人種問題を抜きにしては考えられないと思うんです.彦坂さんが最初におっしゃっていたように,現代のテクノロジーはいろいろな意味での一元化あるいは標準化の思想の産物ですよね.つまりコンピュータのなかに入ってしまえば,すべての差異がなくなってしまうという楽観的な見方がある.本当は差異が消えるのではなくて,コンテクストの脱臼なんですけどね.ともあれそういう観念が,人種の万華鏡の奇麗な映像のなかで,現実的なギャップの存在を忘れさせるという効果を狙っているんじゃないか.
 大月さんに伺いたいのですが,アメリカのチルドレンズ・ミュージアムで,子供たちがお互いの顔にいろいろな色の絵の具を塗りあって遊ぶフェイス・ペインテイングというのをよく見かけますよね.商品としても売られている.あれの起源を調べたことがあるんです.結局詳しくはわかりませんでしたが,どうやら1980年代の初頭あたりから静かなブームになっているらしい.たぶんどこかの教育関係者が考えたんだと思いますが,白人,黒人,ヒスパニック,アジア人,誰であろうが顔や身体に色を塗っちゃえばみんな同じだといういうアンチ・レイシズム,リベラリズムがどこかに反映していると思えてなりません.これは,コンピュータを使って人種差別を撤廃していこうという考え方と,どこか通じるところがある.多文化・異文化複合社会が抱える固有の問題なんじゃないかな.

大月――ネイティヴ・アメリカンの人のフェイス・ペインティングの模様なんかは,非常に象徴的な意味があったりしますよね.ですからチルドレンズ・ミュージアムのスタッフにそういうネイティヴの人がいたりすると,その人が子供たちの顔や体に模様を描いてあげながら,これはこういう意味なのよと,話してあげる.そんなフェイス・ペインティングのコーナーを作っているチルドレンズ・ミュージアムもあります.

森岡――あれはどう描いてもいいっていうわけじゃないんですか?

大月――確かに自由に描くっていうのが多いと思います.でも,異文化理解に使われる場合もあるし,いろいろです.あとけっこうショックだったのが,メイクアップのキットに,白人用と黒人用があるんですよ.色が微妙に違っていて,黒人用はダークな肌に際立つようなパステルっぽいけれど,白人用だとヴィヴィッドな色が揃っている.そういうのをチルドレンズ・ミュージアムのショップで売っていたりするんです.両方あるのっていうのが,あぁ,とてもアメリカっぽいなと思いましたけれども.また,それを見たことによって私は自分の黄色い肌を強く意識しましたね.

彦坂――それは,アメリカとかイギリスのテレビドラマにクリシェのように必ず出てくる.要するに人種差別はもう撤廃されたというような場面で,黒人の軍隊の司令官が言うセリフに対応していますね.「そんなことを言っても,その意識は深くにあって,危機になると出てくる」と.そして,そのときに白人の大佐が言う言葉は,「君の顔が黒くても,模様があっても点々があっても僕には関係ない」.ようするにさっきのフェイス・ペインティングを示唆するようなね,必ずセットになって会話になっているんです.

森岡――あれはもう一種のプロダクション・コードになっていますね.アメリカの状況として,そういうコンピュータを使ったチルドレンズ・ミュージアムの在り方みたいなものと,ある文化的背景との関係は想像できるけれど,僕には新しい情報メディアを使って子供を教育することの本質的な理由がどこにあるのか,本当はよくわからないんです.

大月――いまのところはコンピュータを使って絵を描いたりするなどコミュニケーションの潤滑油になる,みたいな使われ方ですよね.これまでも実際にさまざまなワークショップや催しで使われています.でも,きっとそのうちもっと踏み込んだ使われ方がされるようになるんではないでしょうか.しかし,日本ではまだ潤滑油の段階なんです.あと小学校の先生が,子供がコンピュータを使って描いた絵をインターネットで公開したりしていますが.

森岡――だから,ひじょうに乱暴な論旨だとは思いますが,例えばアメリカの場合,ユーザーである子供たちの側に豊かな文化的多様性がまずあって,それに対して,コンピュータの持っているモノリシックな特性が,ナショナリティみたいなものの存在を確認させていく.これとちょうど裏返しの関係が日本の場合にはある.つまり,よく言われるように日本の子供は遊びにしても生活嗜好にしても,わりと均一化しているところがあるでしょう.だから逆に,個性とまでは言わないまでも個別性の確認能力を見出していくための道具として使われていくのではないか.ちょっと単純すぎる理屈なんですけれど.

彦坂――日本の場合はエイジズムの「子供は子供」というところがすごく多いですね.たまたまうちの子供が小学校1年生で,恐竜マニアだから恐竜研究をやった.日本だとそれは夏休みの宿題で,子供がやったものとしてそれだけの事なんですが,例えばフランスの場合だと研究機関で審査されて,何か芽がある,ひじょうにおもしろい,となると,翌年からそれに関連するあらゆる学術会議の招待状やら何やらが全部来る.日本ではそんなことはあり得ないでしょう.その辺の大きな社会環境が,欧米と日本はまず違う.だから,チルドレンズ・ミュージアムにしても,そこへ行くっていうのはむこうではパブリックな空間として使うわけですよ.ミュージアムが安全であるということももちろんあるし,別の子供もいるし,だいたいの学校がまあひどいっていうのもあるんだけれども,日本だったら,例えば4歳くらいの子供が一人でミュージアムに行くっていうのはまずないですよね.母親が連れて行く.勉強ができるようになるとか,モチヴェーションというか,親のそういう意識がないとこういうところには行かないですよね.

森岡――日本の場合には,我が子が接するであろう公的施設の在り方に,親の期待や欲望がものの見事に投影されていますからね.親が見せたくない絵は見せないでくれっていう.

大月――地域の美術館にしてもできた当時はどんなものかわからないから,とりあえず下駄履きで,図書館とか公民館を見に来るような感覚でみんな来館するんですね.だからけっこう野放図な子供がいたんだけど,最近はわりと美術館やそこで行なわれる催しはこういうものだっていう,ある程度イメージができ上がってきてます.「そういったものだったらうちの子を参加させたいわ」みたいな,結果が予測のできる使われ方をしてきているような気がするんです.でも,それは海外の美術館,例えばポンピドゥーなんかにもあるとは思いますけど.子供を迎えに来ている親の様子を見ていると,どうも普通の家庭じゃないんですよ.あ,これはなんかクリエイターかな,みたいな人がすごく多かったりする.でもそれだとつまらないんです.もっといろいろな人に使ってほしいですよね.だから,発信する側も受け手の期待を,言うなれば良い方向に裏切り続ける努力が必要だと思うんです.

森岡――でも,子供の活動の場所というのはやっぱりオフ・ミュージアムであって,美術館のなかで自由に遊べといってもかなり大変で,どこか窮屈な感じがする.だから逆に子供の遊んでいる場所にこちらから出かけていかないと,彼らとのまっとうな関係は結べないのかもしれないですね.

大月――確かにそれはありますね.だから,美術館のプログラムで,学校や街や自然のなかに積極的に出かけて行くようなものも増えてきています.また,美術館のなかを遊ぶといった逆転の発想で固定概念を打ち破ろうとしている館も増えています.


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