Electronic Realism_J
InterCommunication No.10 1994

feature

電子的レアリスム


松浦寿輝


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幾つかの問い
「レアリスム」の再編成
無=媒介性
電脳時代のファシズム?
「倒錯」の不在
現前=差異化=愛
「最も愚劣な……」


幾つかの問い

 「ハイビジョン」の高解像度ビデオ技術は,「カメラ・オブスクラ」がデルフトのフェルメールの画面に導入したような革新をわれわれの感官にもたらしうるのか.「マルチメディア」による複数媒体のデジタル的な統合処理は,グーテンベルク印刷機に匹敵するほどの活力で情報文化を再組織しうるのか.「ヴァーチュアル・リアリティ」の精緻化は,われわれの抱いている「現実」の概念そのものを覆してしまうところまで至り着きうるのか.光ファイバー網による「情報スーパーハイウェイ構想」は,コミュニケーション社会の成り立ちそのものに根本的な変革を導入しうるのか.ひとことで言えば,テクノロジーが準備しつつある21世紀の「イメージ」文化は,とりあえず「1880年代西欧」にその起点を見出しうる表象の「近代」史に,取り返しのつかない切断をもたらしつつあるのか.
 これらの問いは,それに対して肯定的に答えるにせよ否定的に答えるにせよ,人を通俗的な預言者に仕立て上げずには済まないものである.だが,今どき,知的めかした預言で未来を展望するのは,どうも19世紀的なロマン主義の残滓を引きずる身振りでしかないように思われる.ここでのわれわれの意図は,ウイからもノンからもとりあえず身を遠ざけながら,これらの問いの周囲に,預言的な色彩をできるかぎり削ぎ落とした言葉を旋回させてみようという程度のことにすぎない.以下は,視覚メディアの現在をめぐって提起しうる幾つかの問題の輪郭を粗描しようとするささやかな試みでしかない.
 まず,これは別の場所でやや詳しく触れた事柄であるが,「1880年代西欧」に起源を持ち,20世紀を通じて支配的なものとなっていった「近代」的な「イメージ」の特質を,今仮に,「レアリスム」,「偶然」,「倒錯」という三つの要素に集約しておくことにする(拙著『平面論』岩波書店,1994年).マラルメの編集した『最新流行』とリュミエール兄弟による映画の発明以降,ほぼこの100年ほどの間,われわれの視覚的感性を養いつづけた「イメージ」とは,――以下の三つの形容詞は本来それぞれ詳細な註を添えたうえで用いられなければならないが――「リアル」で,「偶発的」で,「倒錯的」なものだったと言ってよい.単なる迫真の「現実感」といったものには還元されえない「リアル」さ,骰の一振りによって廃棄されることは決してあるまいとマラルメの断言する「偶発性」,表象の透明性を厭い記号をその直接の意味の外へと絶えず逸脱させる「倒錯性」――そうした諸特性が交叉する場所に,20世紀的な「イメージ」の力場が開けていたのである.ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』とヒッチコックの『めまい』とが,ウォーホールの《キャンベル・スープ罐》とリーフェンシュタールの『意志の勝利』とが,曖昧な目配せを交わし合うのも,その場所においてのことだった.では,今日,この場所は,見ること/見せることのテクノロジーの発達によって凌駕され,無効化されつつあるのだろうか.
 ここでの鍵を握っているのは,例によって「現実」の概念であるように思われる.21世紀の視覚テクノロジーとして,あるいは少なくともそれを準備するものとして現在語られつつある機器やシステムは,いずれにせよ或る種の「レアリスム」を標榜してはいるのだ.「複数メディアの相互乗り入れ」も,「インタラクティヴ性」も,「双方向性」も,そのめざすところは「現実」をさらにいっそう「現実的」なものたらしめることにあるように思われる.そうした「現実」の「現実化」は,或る埒を越えたところで「現実」概念そのものの後戻りのきかない変容を惹起するのかどうかが,問われることになるだろう.その場合,「現実」の「現実化」というこのヴェクトルは,三つの水準で語られねばなるまい.


「レアリスム」の再編成

 第一に,電子メディアによる複製技術はますます精密で解像度の高いものとなり,ついには触覚的な存在感さえ備えようとしているという点がある.これは「イメージ」そのものの「現実感」の再編成に関わる問題である.第二に,今日的な「イメージ」の消費者は,あてがいぶちの「イメージ」をひたすら受動的に受けとめるだけではなく,そこに積極的に参加して,何らかの変更をもたらしたり何らかの出来事を惹起させたりすることができるようになりつつあるという点がある.しかもこうした「インタラクティヴ性」は,単に小さなモニター画面上の操作にとどまるものではなく,「イメージ」が,あたかも手を伸ばせば触れることさえできるかと思われるような触覚性を獲得する過程と並行して,宗教的な情動性さえ帯びるような全身的な参与体験にまで高まりうる途も開けようとしている.これは,主体と「イメージ」との関係における「現実感」――主体が「イメージ」と関係を取り結ぶ,その現場において体験される「現実感」――の問題ということになろう.
 さらに第三に,こうした「イメージ」体験が,個人の密室の外へと開かれ,共同体のネットワークの中へ入ってゆくという点がある.そこに光ファイバーが用いられるかどうか,また衛星によって中継されるかどうかといったことはともかくとして,とにかく大容量通信回線で結合された機器同士の間で,「イメージ」は迅速に交換され,変形され,流通し,消費され,また新たに生まれ変わったかたちで再発信され,電子コミュニケーションの回路の中へ放たれる.この遊戯においては,一人のプレイヤーと他のプレイヤー(たち)との間の距離は即時に跨ぎ越えられ,地球上の地理は虚構化されてしまうことになるだろう.或る巨大な――といってもいかなる物理的な「大きさ」の概念とも異質な――エレクトロニクス共同体が立ち上がり,それに所属する成員すべてをゆるやかに包摂することとなろう.物理的にはいかほど隔てられていようと,モニターを覗きこんでいる人々は,方向性も中心も欠いた或る「場」に同時に立ち会い,それが持続するかぎり一過性の関係を取り結び,それが消滅すればたちまちまた磁石を遠ざけられた砂鉄のようにばらばらの個体に戻って離散することになる.こうした共同体とは,実体的なものではもちろんなく,無数の「間」――個人と個人との「間」,コンピュータとコンピュータの「間」――の積分的な総体としてのみ存在するものである.このようなインターフェイス空間で体験されるのは,主体と他者との――「イメージ」を通じての――関係における「現実感」の変容ということとなろう.
 電子メディアの進化と普及に伴って,「イメージ」の「現実性」をめぐる従来の申し合わせは三つの水準で揺らぎ出す.まず,「イメージ」そのものにおいて.次に,主体と「イメージ」との間の関係において.最後に,「イメージ」がその仲立ちをなす主体と他者との間の関係において.そのどの水準でも,或る新たな「レアリスム」がめざされているかに見えるのだ.では,それはいかなる「レアリスム」なのか.ここでわれわれは,これら三つの水準を通じての「現実性」の変容を,「直接性」あるいは「無媒介性」の増大として把握してみたいと思う.〈im-m仕iatet氏r――ひとことで言えばそれは,「媒介」の欠如である.「媒介」としてのメディア性を可能なかぎり切り詰めて,一つの項ともう一つの項との間を「即座に」繋いでしまうこと.メディアによるメディア性の自己否定という逆説的な志向のうちに,「レアリスム」の21世紀的な再編成が展望されているのではないだろうか.


無=媒介性

 「現実」のさらなる「現実化」という先ほどの言いかたは恐らくあまり適切ではなかった.むしろ,さらなる「直接化」によって定義される或る種の「レアリスム」が浮上してきたという点に注目すべきなのだ.普遍的な「レアリスム」があってそれがその強度を増したということなのではない.「直接的」=「無媒介的」であることの「リアル」さを誇示するのは,ありうべき多種多様な「レアリスム」のうちの単なる一様態――歴史的な限界によって徴づけられた一様態――であるにすぎないだろう.「媒介」をすっ飛ばしてしまうやりかたで作成され,交換され,流通し,消費される「イメージ」の機制を,むしろ「アンリアル」と感受する感性――これもまた歴史的に条件づけられたものであるが――も十分に存在しうるからである.すなわち,フリッツ・ラングのRKO(Radio Keith Orheum)作品『飾り窓の女』におけるエドワード・G・ロビンソンの翳のある演技と,スティーヴン・スピルバーグの『ジュラシック・パーク』で恐竜たちの動きを表象しているコンピュータ・グラフィックスとで,どちらの方を「現実的」と感じるかという感性的な差異の問題が問われることになるのだ.ちょうど1世紀の半分の時間が『飾り窓の女』(1944年)と『ジュラシック・パーク』(1993年)とを隔てているが,さて,この半世紀の時間の流れのうちに決定的な歴史の断層を見るべきか否か.
 今仮に,『飾り窓の女』で男女の顔におちた繊細な影の戯れの「現実感」を成立させている光学的な機制を,「投射的レアリスム」と呼ぶことにする.他方,『ジュラシック・パーク』で巨額の費用をかけて作成された迫真のCGが達成している恐竜たちの動きのなまなましさについては,「電子的レアリスム」の呼称を採用しよう.前者に関しては先に引いた著作の後半で詳述したので,ここでは主に,後者において「直接性」=「無媒介性」がいかなるかたちで現われているかを考えてみたい.「電子的レアリスム」の「直接性」は,まず第一に,「イメージ」そのものの感触として発現する.
 実際,遺伝子工学で今日に蘇ったという設定のあの恐竜たちの動きの「迫真性」は,いかにも奇妙なものだ.それは,「イメージ」が「実体」にきわめてよく似通っているがゆえの「迫真性」ではない(いったい誰が恐竜の「実体」を見たことがあるのか).また,情動的な強度から生じる「迫真性」でもない(心理劇としてはこのフィルムはおよそ拙劣で無内容である).さらに,「芸術的」ないし「美的」な感動を喚ぶがゆえの「迫真性」でもない(映画に「美」を盛りこもうとするほどスピルバーグは愚かではない).それは,「直接的」なるがゆえの――「媒介」なしにこちらの皮膚に,瞳に,鼓膜に唐突に迫ってくるがゆえの,「迫真性」なのである.「現実」とそれを複製した「イメージ」との間が「無媒介」なのではない.ジュラ紀の生物相が再現された世界の「現実」など,いずれにせよ誰も信じてはいないからである.問題は,「イメージ」が「イメージ」そのものとして提示されるうえでの「無媒介性」なのであり,これは,基本的に,光がスクリーンに反射して跳ね返ってくる「投射的」な環境に固有の視覚体験とは異質のものであるように思う.こうした「イメージ」の質感は,やはり,映画館のスクリーンよりは,画面から光がじかに出て来るビデオ機器にこそふさわしいものと見えるのだ.  第二は,主体と「イメージ」との間の関係における「無媒介性」であるが,これについては贅言を費やすに及ぶまい.「インタラクティヴ性」も「双方向性」も,主体が「媒介」なしに「イメージ」に関与し,干渉することを可能ならしめる特性にほかならない.電算処理された情報の配列や検索の高速化も,こうした「直接性」にますます拍車をかけることとなろう.「シークエンシャル・アクセス」から「ランダム・アクセス」へという移行――「フィルム」や「テープ」から「ディスク」へという「支持体」の変化の帰結の一つである――が,すでにわれわれの情報検索能力を著しく高めている.今や人は,自由自在なアクセシビリティによって,情報の集蔵体への一体感を享受し,すべてとじかに触れ合っているといった印象を得つつある.情報を乗せた「支持体」の物質的な抵抗感が稀薄となり,われわれは「イメージ」に「直接」触ることができるようになってきているのだ.
 最後の第三点は,共同性の問題である.まず,単純に物理的な問題として,モニター画面を通じての電子的なネットワークは,隔たりを無化し,異なった大陸に身を置く人々をも「直接に」かつ「即座に」結びつけてしまうという点がある.しかし,ここでの「直接性」とは,単に地理的な問題にのみかぎられるものではない.むしろ,コミュニケーションの「質」それ自体の「無媒介性」に注目すべきだろう.RAMへの自由自在な検索可能性を通じて,今やコンピュータはわれわれの脳の「延長」に近いものと化しつつある.コンピュータのメモリー,それを検索し,そこに書きこんだり書き直したりする機能,複数のファイルを開いたり閉じたりする処理形態,等々は,大脳の機能の一部分が外在化されたものへと接近してきているのだ.モニター画面を凝視しつつそこに記号を打ちこんだり読み取ったりしている人々は,いわば外在化された自分の脳の内部を覗きこんでいるのだと言ってもよい.そのとき,コンピュータ通信は脳と脳との「直接」=「即時」の連結に似た何かと化すことだろう.電子メディアによって結ばれた他者は,機械によって仲介=媒介メデイアテイゼされているにもかかわらず,しかし実のところはそのゆえにますますいっそう身近で「直接的」な存在となるというこの逆説.それが,電子的なコニュニティを特徴づけることとなろう.


電脳時代のファシズム?

 ただし,ここでもう一つ注意しておくべきは,そのコミュニケーションがいかに「直接的」なものであろうと,この共同体の成員たちは,ひとたび通信の「場」が閉じられればたちどころに離散し,ばらばらの個体に戻ってしまい,共同体に対して生暖かく湿った郷愁などいささかも抱きはしないという点であろう.ここでの「直接性」は,情動的な連帯意識とはとりあえず縁の薄いものであり,その意味で,個体と個体とがいかさま「直接」かつ「即時」に連結していようと,こうしたコミュニケーション空間は,20世紀的なファシズム(ヒットラー,スターリン,金日成)の温床とはなりがたいものと言うべきなのである.連結はここで,機械と機械との組み込みに似た乾いた関係なのであり,その意味で,「電子的レアリスム」の上に基礎づけられつつ立ち上がってくるこうした「無媒介的」な共同体は,映画館に集う群衆とは際立って異質なものとなるだろう.
 「投射的レアリスム」による強度の「イメージ」体験を共有する映画館の群衆は,電子的なコミュニティの成員たちほど「無媒介的」に結びついているわけではない.むしろ彼らは,映画館の暗闇の中で孤立し,互いにふと眼が合ってしまうのをそれとなく避け合いながら,それぞれナルシシックな想像界に沈潜しているかに見えるのだ.にもかかわらず,結局はそのうちの誰のナルシス的な自我にも還元されがたい他者としての「イメージ」に「媒介」されて,彼らの間には,濃密な情動性に彩られた一種の抒情的な連帯が成立することになる.上映が終われば彼らは映画館から出て,めいめいの行き先に散ってゆくが,にもかかわらず彼らの間にひとたび生まれたその連帯感は,容易なことで薄れるものではない.その場合,絶対的な他者としてのこの「イメージ」の位置に「総統フユーラー」を代入するとき,「投射的レアリスム」とファシズムとの間には或る必然的とも見える強靱な歴史的紐帯が認められることになろう.リーフェンシュタールの『民族の祭典』がそうだとか,反ファシズムの感情的キャンペーンをリーフェンシュタールに劣らぬファシズム的なやりかたで組織しようと試みているチャップリンの『独裁者』もまたそうだとか,そんな話をしたいのではない.映画の基盤をなす「投射的レアリスム」そのものが,装置として,ファシズムと同型だという点を指摘したいのだ.たとえばエリアス・カネッティの群衆論も,こうした「投射的」な共同体の分析と記述をめざしたものである.「無媒介性」と「離散性」とが矛盾なく共存する電子的なコミュニティについて,一つ確実に言えるのは,少なくともそれがカネッティの『群衆と権力(上・下)』(岩田行一訳,法政大学出版局,1971年)の方法と文体では扱いかねる対象であるという事実であろう.  「1880年代」が「ブルジョワジー」から「群衆」への移行期であったとすれば,20世紀末とともに今われわれが立ち会いつつあるものは,「群衆」から「エレクトロニクス共同体」への脱皮なのだろうか.しかし,そうだとしても,はたしてそれは進化なのか,むしろ端的に言って或る種の退行なのではないかという疑いが残らないでもない.ここでわれわれは,むしろ電脳空間におけるファシズムに,――「電子的レアリスム」を基盤とする21世紀的なファシズムの発現形態に思いを致すべきなのかもしれない.
 ともあれ,別のかたちの「レアリスム」の追求が,三つの水準で「直接性」の増大をもたらすことになる.そのとき,高度に「直接的」なものとなった「イメージ」体験からは,「倒錯」的な色彩が奇妙に薄れてゆくだろう.「イメージ」の20世紀的な機制を特徴づける三つの要素として,われわれは「レアリスム」と「偶然」と「倒錯」を挙げたのだった.そのうち,「レアリスム」に関しては,以上に粗描したような別のかたちの「現実性」の追求が継続していると考えられるのだが,そこに想定される別の「レアリスム」,「電子的レアリスム」は,「倒錯」の概念とは奇妙に折り合いが悪いもののように思われるのだ.


「倒錯」の不在

 「倒錯」とは,本来,徹底的に「間接的」であろうとする生の倫理のことである.欲望の昂進からその成就へとただちに進むのではなく,その中間に何ものかを,――「 物 フエテイツシユ」を,「言葉」を,「演戯」を,「物語」を介在させ,欲望の成就をどこまでも遅延させようとするものが,「倒錯」なのである.これは必ずしも性の営みにかぎった話ではなく,「倒錯」は,たとえば記号の意味作用をめぐる磁場においても生きられうるものだ.「倒錯」的な記号,それはその「意味」がただちに消費されてしまうことを拒む記号――透明なものであるべき表象作用を混濁させ,そのなめらかな進行をみずから妨害して,それに向けられたまなざしを攪乱し,読もうとする欲望が成就する瞬間をどこまでも遅らせつづけようとする記号のことだ.「投射的レアリスム」に属する「イメージ」は,多くの場合,表象の透明性を厭うそうした「倒錯」的な志向をはらんでいる.徹底的に「間接的」であることで,欲望を永遠の宙吊り状態に保持しつづける延期と迂回の装置として機能するものが,20世紀的な「イメージ」なのである.そうした「倒錯」は,まず「イメージ」それ自体に内在するものとして,次いで,主体と「イメージ」との関係として,最後に,「イメージ」を介しての共同性において,立ち現われてくるだろう.この最後の場合,一つの個体ともう一つの個体との間に「倒錯」の場を作り出すべく,「イメージ」そのものがそれ自体として「媒介」の役割を果たすことになる.それが人と人とを「直接」に結ぶための「媒介」ではなく,むしろ「直接性」を濁らせ,調和のとれた結びつきの達成をどこまでも遅延させてゆくための「媒介」であることは言うまでもない.
 「電子的レアリスム」は,当然,こうした「倒錯」とは真っ向から背馳する概念である.「媒介」的な中間項の縮減を――究極的にはその無化を志向する「電子的レアリスム」は,欲望の宙吊り状態を楽しもうとする余裕を持ってはいない.そうした無意味な迂回を,むしろ軽蔑し疎んじていると言ってもよい.いきなり瞳と耳に来る『ジュラシック・パーク』のCGは,「イメージ」の「倒錯」的な享受といった精神の姿勢を寄せつけようとしない.いきなりであることの衝迫力によってのみ,この「イメージ」は「現実的」な「イメージ」としての自分自身を支えているからである.
 「倒錯」とは,何かしら不透明で抵抗力を備えたものの現前を介してしか遭遇が可能とならないという動かしがたい事態を前提としたうえで,そうした梃子でも動かないものの現前にゆっくりと馴れ親しんでゆく過程のうちに快楽を見出すといった忍耐強い精神の姿勢のことである.ひとことで,「媒介されること」の快楽のことだと言ってしまってもよいかもしれぬ.記号との遭遇を素直に成就させない不透明な意味の現前があり,「イメージ」への双方向的な働きかけを素直に成就させない隔たりや種々の物理的な制約があり,他者との交通をやはり同様に成就させまいとするなまなましい「イメージ」の戯れや相互の身体の重たるい現前がある.そうした如何ともしがたい不透明な現前の抵抗感そのものに,ゆっくりと溶けこんでゆくことの快楽といったものがあるのだ.「直接性」のメディアの登場とともにわれわれが喪失するのは,この「快楽」なのである.
 しかし,「倒錯」と言うなら,一般的にはむしろ「電子的レアリスム」の方に「倒錯」のレッテルが張りつけられることが多いかもしれない.だが,コンピュータとの対話に親しみすぎたあげく,実社会での対人関係に障害が生じるとか,密室に閉じこもってアダルト・ビデオの映像に没入したあげく,表象されたものとリアルなものとの境が曖昧となって陰惨な性犯罪に走るとか,そうした症例の場合,「倒錯」は,あくまで個人の精神病理の水準で起きている出来事でしかない.その原因をなすものはたしかに「直接化」の昂進した「レアリスム」ではあろう.「電子的レアリスム」が,その「直接性」において,主体を取り巻く日常世界の「現実」を追い越してしまったがゆえに,主体の精神の均衡が崩れ,その遠近法が崩壊してしまったのだ.日常世界の表象作用のまだるっこしさに耐えきれなくなり,それを「無媒介的」に飛び越してしまいたいという衝迫に歯止めがきかなくなってしまったのである.だが,そこから何らかの「倒錯」的な外観を帯びた行為や状態が帰結したところで,それは単に精神の病としての「倒錯」であるにすぎない.それは,「イメージ」それ自体に内在する「倒錯」でもなく,「イメージ」との関係性そのものにおいて生きられた「倒錯」でもない.単に「イメージ」が引き起こした病でしかないのであり,「イメージ」の「倒錯」ではないのである.


現前=差異化=愛

 眼と脳が「無媒介的」に直結する.また一つの脳と他の脳との間にも「直接的」な連絡回路が張りめぐらされる.メディアを通じてメディア性を消去しようとする逆説的な試みとして定義される「電子的レアリスム」は,「倒錯」を欠いた「レアリスム」である.それは,何もかもをいきなり飛び越してしまうので,「媒介」として立ちはだかる手に負えない不透明なものの現前に,徐々に馴れ親しんでゆくことの快楽とは無縁であるほかない.むしろこう言った方が適切であるかもしれぬ,そこに欠落しているのは「現前」そのものなのだ,と.「意味」の,「イメージ」の,「物質」の,「身体」の,つまりは「もの(das Ding)」の,不透明な「現前」がそこにはない.「直接性」の「レアリスム」とは,「現前」を欠いているがゆえに「リアル」であるという奇妙な実在論のことなのだ.西垣通氏が「感性」の必要という言葉で語っているのは,ひょっとしたらこの「現前」を,とりわけなまなましい身体性の「現前」を,電子メディアに回復しようという提言なのだろうか(『マルチメディア』岩波新書,1994年).しかし,不透明な身体性の水準での出来事として組織し直されたとき,「電子的レアリスム」はかえってそのもっとも刺激的で挑発的な「新しさ」の側面を失ってしまうのではないのか,という疑念が湧かないわけでもないのだ.
 では,その「新しさ」とはいかなるものなのか.たとえば,不透明な身体性の抵抗感が捨象された「現実」としての「ヴァーチュアル・リアリティ」に,「感性」も「知性」もひっくるめてわれわれの「投射的」な精神のありようを一挙に凌駕してしまうような,21世紀的な創造性の契機を見てとることができるだろうか.「ヴァーチュアル・リアリティ」もまた,「現前」を欠いているがゆえにいっそう「現実的」なものとなった,「直接化」された「現実」のことである.ただし,「潜 在 的ヴアーチユアル」という観念をめぐって,ここでわれわれはやや不審の念に囚われないでもない.「多種多様性」と「潜在的なるもの」の現勢化という二つの観念を軸にしてベルクソンの哲学を再構成してみせたドゥルーズの見事な著作があるが(『ベルクソニスム』[邦訳=『ベルクソンの哲学』宇波彰訳,法政大学出版局,1974年]),「ヴァーチュアル・リアリティ」において「潜在性」と呼ばれているものは,ベルクソンにおけるそれとは恐らくまったく異質なものである.
 ベルクソンは,現実化レアリゼされるべき「可能性」のカテゴリーを偽の問題として斥け,それに対して,現 勢 化アクチユアリゼされるべき「潜在性」のカテゴリーを特権化する.「可能的なるものの現実化」は類似と限定の規則に従って行なわれるにすぎないが,「潜在的なるものの現勢化」は差異化と創造の線に沿って遂行されるというのである.その場合,「電子的レアリスム」に基づいた「ヴァーチュアル・リアリティ」とは,「ヴァーチュアル」と言われてはいるものの,実のところは「潜在的なもの」ではなく,むしろ「可能的なもの」のカテゴリーに属する何かであるように思われる.類似と限定のプロセスによって「現実化された可能性」こそ,「ヴァーチュアル・リアリティ」のなまなましさを保証しているものなのではないだろうか.
 「ヴァーチュアル・リアリティ」の「無媒介性」は,差異化と創造の契機の介在を許さない.そこにはただ「直接的」な空間だけがあり,生きられた時間の持続としての創造の過程が展開する余地はないのである.ベルクソンは,「現勢化」される以前の「潜在的なるもの」が「潜在的なるもの」として持っている「現実性」について語っているが,こうした「潜在的なるものの現実性」は,今日の電子テクノロジーによって達成される「ヴァーチュアル・リアリティ」とは無縁のものであるように思われる.「電子的レアリスム」の「無媒介性」とは,恐らく,「可能的なるものの現実化」の過程が「即座」であり,類似と限定の操作が「直接」的であることの謂にすぎないのだ.
 今,預言よりもむしろ実感を呟くことの方を選ぶなら,「投射的レアリスム」に感性の核を養われてきた「世代」の一人として,言葉の十全な意味での「メディア性」の豊かさへの愛を断ちがたいという感想は否定できない.「媒介」性を縮減してゆくことで「メディア」の概念そのものを組み替えつつある電子的な視覚テクノロジーが,この先どのように発展し洗練され普及してゆくかという問題をとりあえず脇に置いた場合,「メディア性」の無化としての「直接性」=「即時性」という「新しさ」の体験への期待は,素朴な「メディア性」が「倒錯」の快楽を可能ならしめてくれていた時代への退嬰的なノスタルジーによって,つい凌駕されてしまいがちなのである.複数メディアの連結によってかえって「メディア性」を虚構化しようとする「マルチメディア」の未来に賭けるよりはむしろ,「モノメディア」の豊かさが「知性」をも「感性」をも越えてしまった領域で唐突な眩暈とともに再浮上してくる瞬間に立ち会いたいという欲望に,つい身を委ねたくなってしまう.「倒錯」の実践としての「メディアの快楽」のゆるやかさを改めて肯定すること.時代錯誤の色調を帯びていることは否定しがたいそうした身振りは,「無媒介的」な「電子的レアリスム」の速度を享楽しようとする預言者のオプティミスムと,どこまで共存しうるのだろうか.


「最も愚劣な……」

 それにしても,「新しさ」をめぐって,楽天的な期待と退嬰的なノスタルジーとが共存し,補完的な調和をかたちづくっている光景は,今さらながら貧しいものと言わねばなるまい.

 「この頃聞かされる最も愚劣な言い方の一つに今は人工衛星の時代というのがあって人工衛星だからどうしたのか,それで人間が息もしなければ酒も飲まなくて男女の縺れも消え去ったのかという所まで書けばそれだけでも書き過ぎになる」. (吉田健一「山運び」,『怪奇な話』所収)

 「新しさ」をめぐる言説がしばしば「愚劣な」響きを帯びるという現象は「新しく」も何ともないものであり,1976年に書かれた短篇小説の一節で吉田健一が指摘しているのもまさしくそのことなのだが,では,そうした事態に対して吉田健一が洩らす紋切型の感想が,似たような「愚劣さ」を免れているとはたして断言できるのか.
 ここで,「人工衛星」の代わりに「マルチメディア」なり「ヴァーチュアル・リアリティ」なりを代入することはもちろん可能である.その場合,この文章はそのまま,同種の「愚劣さ」の1990年代ヴァージョンに対する反応の,典型的なものの一つとして,今日でも十分以上に口当たり良く通用しうるだろう.しかし,問題は,この種の「愚劣さ」が古めかしい以上に,それを「愚劣」と決めつけたうえで「だからどうしたのか」と切り返す批判の型そのものもきわめて古めかしいものであり,楽天的な期待と退嬰的なノスタルジーとによってかたちづくられる補完的な調和の構図そのものが,楽天的な退嬰性,ないし退嬰的な楽天性を免れていないという点なのだ.
 「……それだけでも書きすぎである」という高を括った言いかたには,「技術」に対して「人生」を対置すればどちらが優位に立つかは常識に照らして自明と見なしている者の余裕が漲っている.「今」の顔を装った若造りの「古めかしさ」は,「古めかしさ」そのもののうちに居直った健康な常識を前にしたとき恥じ入って引き下がるほかあるまいとする自信が,吉田健一の言葉に或る傲岸な調子をまとわせているのだ.しかし,この余裕ある自信はもちろん普遍的な真理を代表しうるものではない.しばしば人は,人生の叡知によって以上に「愚劣さ」によって生きるのである.それはまさしく,『時間』や『変化』に見られるような吉田健一の晩年の文章体験そのものの教えるところなのではなかったか.
 だから,ここでの問題は,「今はマルチメディアの時代」「今はヴァーチュアル・リアリティの時代」といった物言いを常識的な叡知の名の下に嘲笑することではなく,「新しさ」をめぐって取り交わされる言説には,古来,きわめて貧しい種類しかないという呆気ない事実を確認することにある.「新しさ」をめぐる言説は,結局,囃し立てるかシニックに構えるか,「技術」を讃えるか「人生」に開き直るか,といった貧しい二元論に還元されるほかないのが通例なのだ.21世紀の地平を開くと言われる視覚メディアを主題とする場合であろうと,同じ貧しさの再現を免れることは難しいだろう.それとも,息をしたり酒を飲んだりはともかく,「男女の縺れ」すなわち恋愛やエロスの関係性に関して「電子的レアリスム」がわれわれの「人生」そのものに或る決定的な変化を導き入れるといった場面が,出 来しゆつたいしうるのだろうか.しかしここでもまた,軽々しい預言を語ることは慎んでおきたい.


(まつうら ひさき・表象文化論)


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