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InterCommunication'96
シンポジウム・レポート
ショートスピーチ・サマリー
 
1996年10月21日(月)13:00−16:00 [終了しました.] 有楽町朝日ホール





ショートスピーチ・サマリー


マーヴィン・ミンスキー
 来世紀には,わたしたち自身のことがもっとよくわかるようになると期待してよい.知識や技能が脳の中に蓄えられる仕組みや,感情というものの正体や,意識の働きなどがわかるようになるだろう.科学の分野ばかりでなく芸術の分野も含めて,人間はどうのようにして新しい着想を得ているのかが明らかになるだろう.それによって,わたしたちのなすことのすべては変化せずにはいない.なぜなら脳の思考のメカニズムが解明されてしまえば,新しい学習方法や問題解決方法を開発し,脳の能力を拡張することができるからである.要するに新しい思考法を創り出すことができるようになるのである.
 そこでわたしたちはどうなるか.誰にも予言はできない.せいぜい言えるとすれば,それは新しい進化の段階に近いものになるだろうというくらいなものであろう.より多くの知識を作り出しそして管理する新しい方法を発見すれば,それは必らずまた自分の「個人データベース」と外部の共同情報リソースとを結合する新しい方法の発見につながるだろう.つまり,たんに脳だけの話ではなく,脳とコンピュータを結ぶネットワークの話も絡んでくるということなのである.そうなると個人と共同体を区別することさえが難しくなってゆくかもしれない.この進化の過程の一歩一歩で,いかにしてより多くの知識や技能の集積を組織してゆくかという複雑な問題にわたしたちはそのつど新たに直面しなければならないだろう.人間であるということは想像を絶する難事となり始めている.しかし甚しい過ちを犯さなければ,その難事はまた想像を絶する報酬をもたらすにちがいない.


ロイ・アスコット
 造形芸術というものは伝統的にわたしたちの関心を物の表面的なあらわれの方へと持ってゆくのが常だったが,今やわたしたちの関心は見えないものへと向かう.出現と複雑性というプロセスへと向かう.そして意識や形態や意味を実在に変えることへと向かうのである.生物学によらない,次世代の生命システム,ネットという遍在的世界,具体的にはインテリジェント・アーキテクチャーや人工生命といったものが,新たに出現しつつある世界観の中で重要な要素となる.この世界観は,前代未聞の道を切り開いて芸術と科学の発展を促すとともに,わたしたちが構想しそして遂に実現に至り得るすべての世界になくてはならない新しいモラルや倫理的価値の創造を求めるのである.同様に,それらは人間というアイデンティティの不変性にも挑戦して,自我の変形や分散の可能性を現実のものにしようとする.
 このように造型芸術の歴史の中で姿勢の変化が起こったのは,科学とテクノロジーが発達したからであって,哲学や政治理論,あるいは従来までの諸芸術の分野で発展があったためではない.ところが今やその芸術の分野で,つまりデジタルシステムや新しいテクノロジーと手を結んだ芸術の領域で,次世代の非生物学的行動モデルが出現し,洗練を遂げるということが可能になったのである.インタラクティヴィティや全世界規模で接続される仮想空間内に作られるハイパーリンク構造などを通じて,わたしたちの文化が相互に融合すれば,次なる進化の飛躍がもたらされるかもしれない.すべての知の分野は互いに浸透し合っている.すべてのシステムは接続されている.逆説的なことに,工業時代の仮借のない物質主義のあと,意識や心や精神という問題を前面に立てているのはむしろテクノロジーや科学の方なのである.従って,わたしたちは電子通信技術やラディカルな構成手段を用いた芸術の分野と協力し合ってこそ,真に理性的な文化というものを構想することができるのである.


磯崎 新
「都市・建築のメルトダウンはいつ起こるか」
 情報メディアが建築型に大きい変化を与えるだろうと,いま期待されています.だがそうたやすくは起こりません.十数年前に宇宙テクノロジーを民間用に転換する目的で,オフィスビルの徹底したワイヤード化が提案されました.これはUSAではスマートビル,日本ではインテリジェントビルと呼ばれ,オフィス空間内にあらゆる種類の情報メディアを仕込むことでした.実現されましたが,建築の見かけはまったく変化しませんでした.あらゆる情報メディアをつなぐワイヤーは,床,壁,天井の裏に埋め込まれたからです.これは情報メディアの建築型変化への過剰の期待を裏切りました.
 それでは,仮想空間の展開が,現実空間に影響することはないのでしょうか.ひとりの人間がメディア端末とインターフェイスしている状態を見てください.彼はメディア内の仮想空間に侵入して,遠い旅をつづけることができます.だがもうひとつのこれを観察している人間がいるとすると,彼の目に映るのは,単に機械と向かい合う一人の人間です.観察者はこの現実空間に所属し,操作者は仮想空間のなかにいます.建築はこのとき,観察者の側にあります.部屋の姿はまったく変わらなくてもいいわけです.事務機構とはこの関係を複雑にしたに過ぎません.とすれば機構が変わらない限り,建築型は変わりようがありません.
 早々とその建築型を変えたのは,無人工場です.ここには人間が入り込む必要がありません.奇妙なデザインも可能でした.パラドクスがあります.この空間を人間は体験できないのです.
 だが,都市は既にメルトダウンの兆候を示し始めています.建築でもっとも重視されていたファサードが失われ始めました.建築も都市に向かって,情報発信するメディアのひとつで,ファサードはその貌でした.ところがこれが広告板やサイン,電飾へと変化し,しかも特定の場所に固定されることなく,拡散し,かつ明滅し変化しています.
 建築物はもはや安定した構成を保持することが無理になっています.とりとめもないほどの大規模開発,ネットワークされたステーションになってしまった機構,それだけでなく,逆に狭く小さい建物に無数の違った要素が割り込み,ひしめきます.いま新しいメディア操作上,重視され始めたインタラクティヴィティがこの安定性を崩すでしょう.構成が無視され,アンフォルムとでも呼ばれる相貌がうまれるでしょう.
 ついこの間までの都市や建築は,その中で身体的に感知しうる空間包含していました.それは人体の比例を基礎にしています.この比例体系が,私たちの空間知覚を形成し,固定してきました.仮想現実の空間は,この基本的な空間知覚をゆすぶり始めています.透明な空間思考から両義的でめくるめくような空間思考へと移りつつあります.これは比例についての体系を変化させます.生成的になるでしょう.
 以上のメルトダウンの諸兆候を整理すると,アントロポモロフィスムからデミウルゴモルフィスムへの地滑り的な移行が起こりつつあるとみていいでしょう.これを整理すると次のようになります.

 
アントロポモルフィスム
ヒエラルキー(都市の構造)
オーダー(建築の構成)
プロポーション(空間の人体比例)


デミウルゴモルフィスム
拡散的
互換的
生成的


 
蓮實重彦
「二度目の誕生」
 活字文化の起源をグーテンベルグに求める視点は,決定的な誤りではないにせよ,あまりに抽象的な歴史観だといわねばならない.19世紀の中頃,熱力学が可能にした輪転機によって高速印刷が可能となり,それが実現した多量の印刷物によって,活字文化は初めて近代社会にふさわしいメディアとして成立したからである.あらゆるメディアは,このように,「二度目の誕生」の瞬間を持っている.近代以降の芸術は,小説がそうであるように,いずれも「二度目の誕生」との関係で語られねばならない.
 では,リュミエール兄弟やエディソンの創造的な思考によって19世紀の終わりに人類の資産となった映画は,いつ「二度目の誕生」を迎えたことになるのか.科学技術の発達が可能にしたトーキーの発明,カラーフィルムの導入,電子メディアの活用といった事実は,メディアとしての映画の「二度目の誕生」の瞬間とはなりえていない.メディアとしての「二度目の誕生」は世界的にほぼ1934年に位置づけられており,それ以降,本質的な変化は認められていない.だが,映画の「二度目の誕生」をファシズムの興隆と同時的だと主張することは,必ずしも正しくない.映画の歴史は,そのとき明らかに新たな段階にさしかかることになったのだが,その変化の瞬間を測定しうるのは,「歴史学」ではなく,構造論的な事態を分析しうる「記号学」である.
 ヒットラーやスターリンやルーズヴェルトがその政権の基盤を強固なものにした1934年から35年にかけて,映画は,ハリウッドでもベルリンでもレニングラードでも,明らかに大衆社会にふさわしいメディアとして成立している.そこに起こっていたのは,説話論的な革命ともいうべきものである.1930年代の社会は,いたるところで,スクリーンに展開している画面を見てはならないという要請を発し始める.それにつれて,映画が視覚的な対象であることをやめ,観念による想像にふさわしい対象として再編成される.
 日本やドイツはいうまでもなく,合衆国でもソ連でも同じ事態が起こっていた事態を要約するなら,視覚的な効果の禁欲と物語の優位の確立といえる.いたるところで,物語に奉仕する視覚的な安定性が映画を透明化してゆくのであり,それこそ映画の「二度目の誕生」にほかならぬという事実を,いずれも34年に撮られたロイド・ベーコン監督の『フットライトパレード』とワシリーエフ兄弟が監督した『チャパーエフ』を題材に検証したい.


ジェフリー・ショー
「肉体を捨て新たな肉体を持った肉体」
 芸術の歴史とは言ってみれば,肉体と空間のあいだの複雑なやりとりの集合である.言い換えれば,鑑賞者の現実の肉体という実在の領域および鑑賞者が属する空間と,表現された肉体と空間という仮想の領域のあいだのやりとりの集合である.非物質の表現形象を生み出すテクノロジーは,鑑賞者と芸術作品をつなぐ新しい関係を収めるパンドラの箱を開いたのである.肉体を持った芸術作品を消滅させたいという欲望は,「芸術と生」の一致を目指すアヴァンギャルドの願望と合致するかに見える.こうして新しい美学が台頭することになる.芸術作品はますます,インターフェイスという,芸術作品と鑑賞者間にダイナミックな出会いの場をもたらす空間の中に肉体を持つようになったのである.