戦争のエポック/芸術のメルクマール

DWB は,都市に大量に集中する大衆社会に対し,規格化と定型化を理念としてシステムの合理化をめざしたが,その一人W ・グロピウスは1919 年に「バウハウス」の学校長となった.DWB の起源にあった国家の貿易振興策とは深く結びつかないが,システムの合理化においてそれを継承していった.1918 年のドイツ革命,そしてドイツ帝国の敗戦・崩壊後のヴェルサイユ体制への国民の不満がつづくなかで,グロピウスの「バウハウス宣言」はドイツ文化の蘇生を謳うことにおいて,その初心にナショナリズムの影をみてとれる.

1923 年にこの学校の「舞台(ステージ・ワークショップ)」を担当したO ・シュレンマーは,芸術とテクノロジー両方の感性を反映するパフォーマンス・プログラムを組み込んで,バウハウス運動の中心人物となった.ジャズ・バンドやパントマイム,舞踊やサーカスの祝祭性を導入し,《トリアディック・バレエ》などメカニカルな空間感覚を舞台表現として試行した.また同じバウハウスの教師L ・モホイ=ナジは,光学器材や反射設備,フィルムなどさまざまなメディアを集合させる「全体演劇」を構想し,彼自身は,フォトグラム手法の発見や,金属やガラスを組み合わせて光線を放ちながら壁や天井に巨大な動く影を映す,彫刻+機械装置の《光=空間調整器》(1922 −30 )をつくり,キネティック・アートの先駆となった.シュレンマーやナジの「マシン・イメージ」とは,伝統的な再現描写のもつ予定調和を避けて,受け手の期待を打破し,かつ,受け手自身が表現の生成に参加し,変形していくことを指していた.


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