ジョージ・ソロス / 投資と慈善が世界を開く

02.慈善事業

 では次に,1979年に始まるソロスの慈善活動について,その足跡を辿ってみよう.ソロスの慈善活動は,「大富豪になってから税金対策のためにする事業」ではない.またそれは,「莫大な利益に対する社会的非難をかわすための隠れ蓑」といったものでもない.ソロスは「開かれた社会」の思想に深くコミットしており,とりわけ1989年の東欧革命以降は,自らの政治的信念を賭けて真剣に慈善事業にとり組んでいる.

 慈善事業に対するソロスの関わりは,LSE在学中にさかのぼることができる.あるクリスマス休暇に駅で荷物運びのアルバイトをしていたソロスは足を骨折してしまい,「ユダヤ人援助協会」に援助を求める.その協会は,「援助の対象は社会人であって,学生は対象外」としていたが,ソロスに対して例外を認めた.ソロスは毎週,杖をつきながら3階にある協会事務所に援助金を受けとりに行った.ところが協会は,援助を一方的に打ち切ってしまう.ソロスは抗議の手紙を送って,援助の継続を勝ちとるが,この経験はソロスの心に寄付に対する「わだかまり」を残すことになった.

 最初にソロスが大きく関わった事業は,1980年,南アフリカ共和国のケープタウン大学において,黒人学生に奨学金を提供することであった.当時の南アフリカ共和国は,「開かれた社会」の思想を布教するには絶好の場であると思われた.ソロスは80人分の奨学金を提供したが,しかし基金の一部は,ほかの目的に転用されてしまった.ソロスは自分がアパルトヘイト政策の共犯者となっていることに気づき,結局この援助プログラムを打ち切ることにした.  他方で同年,東欧の反体制派知識人にアメリカ留学の機会を与えた.しかしこの試みもうまくいかなかった.選抜された人は,反体制派というレッテルを貼られ,国内における名誉を傷つけられてしまったからである.このほか,ポーランドの「連帯」,チェコスロヴァキアの「憲章77」,ソ連のサハロフ博士の反体制運動などにも援助している.

 1980年代初期におけるソロスの財団「オープン・ソサエティ・ファンド」は,妻のスーザンが自宅内で運営していた.最初にフルタイムのスタッフを雇ったのは1984年,ハンガリーに「ソロス財団」を設立したときであった(ハンガリー政府は「オープン・ソサエティ」という名称を許可しなかった).ソロス財団は,1956年のナジ政権の報道スポークスマンを務めたミクロス・ヴァザーリェをアドバイザーとして迎え入れ,これによってハンガリーにおいて大きな成功を収めることができた.その象徴的な出来事として,有名な「コピー機事件」がある.当時,社会主義政権下のハンガリーでは情報の伝達を制限するために,コピー機には文字どおり鍵がかけられており,使用者が限定されていた.そこでソロスは,文化機関や科学機関にコピー機を寄付するプロジェクトを申し出る.ハンガリー共産党は協議の末,結局このプロジェクトを受け入れることにしたが,しかしコピー機の大量導入によって情報の利用可能性が高まると,共産党はしだいに情報統制力を失い,1989年には崩壊するに至る.ソロスの慈善事業のなかで,これほど成果をあげたものはないだろう.

 このようにソロス財団は,「開かれた社会」の理念を実現することを目的としているが,なかでもとりわけ重視しているのは,知的・文化的な面における援助である.例えばハンガリーにおける「作家助成プログラム」は,作家の自由な活動に道を開き,共産主義者作家同盟に取って代わる最初の組織を生み出すことになった.あるいはまた現代美術館のネットワーク作りやインターネット上のアートに対する支援[★12]も大きな成功を収めている.もちろんソロスは,援助に際して慎重に戦略を練っている.共産党のイデオロギーに抵触するプロジェクトには,彼らが認めざるをえないほかのプロジェクトを抱き合わせ,愛国的な文化プログラムや広く社会的利益をもたらすようなプログラムを同時に実施したりもした.

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