ICC Report

Do-Ho

ソー・ドホの新たな試み

1999年5月25日−6月13日
ギャラリーD



これまでソー・ドホは自己のアイデンティティをテーマに作品を制作してきたが,今回ICCにおいて発表されたヴィデオ・インスタレーション作品《SIGHT-SEEING》でも,その一貫した姿勢は変わらないと言える.特に,初めてヴィデオを使うことによって,韓国人である彼の視点と彼の遭遇する異国「日本」を映像として表現するという意欲的な制作が試みられた.

ソー・ドホは,この作品の制作のために特別に開発した2ウェイ・ヴィデオ・カメラ・システムを用い,映像を記録した.この二つのカメラは,一方は自分の見ている「対象」に,もう一方はその対象を見る自分,すなわち「主体」の表情に向けられ,これらを同時に録画する.展示室ではこの二つの映像がシンクロナイズしながら投影された.

まず観客が興味を惹かれるのは,典型的な日本観光や日本食の登場する,いかにも旅行者の撮りそうなホーム・ヴィデオ的な「対象」の映像だろう.ここにはアーティストが異国で遭遇した「出来事」あるいは「物語」がある.しかしこの典型的なツーリストの映像が,もう一つの映像,すなわち,この「出来事」を体験している大写しになった作者の表情=「主体」の映像と併置されるとき,大きな意味の変換がもたらされる.つまり,この作品を見る観客は,ツーリストの経験をただなぞるだけの,出来事を追体験するという視点から,より客観的な第三の視点へと移行を余儀なくされる.なぜなら併置された二つのスクリーンに経験の「対象」とその経験の当事者である「主体」を同時に見ることになるからである.

これはある意味での弁証法的な転換である.すなわち,観客は単なる観客であることができずに,対象と主体を同時に認識しうる,第三のより高次な存在へ否応なしに転換あるいは止揚を迫られるのである.この構造のなかに取り込まれた観客には,もはや典型的な観光ヴィデオの物語の意味は希薄になるだろう.観客は表面の物語ではなく,この作品の背後に潜む「対象」と「主体」とそれを見つめる観客自身の「新たな主体」という「構造」を発見することになる.この構造の認知こそ,この作品にとって重要なものであると言えるのではあるまいか.

さて《SIGHT-SEEING》が主体を見出す契機となる作品であるなら,もう一つの作品《UNI-FACE》は,匿名性のなかに溶解していくアイデンティティが表現されている.スクリーン・セーヴァーとして制作された映像の一つは,いくつもの顔が重なり合い,最後にはどこの誰でもない顔に合成される.重なり合う個の存在が,存在しない個のイメージをつくりあげる,ある意味では電子情報時代の個の危機と不安,あるいは恐怖がそこに語られていると言えるかもしれない.

現代美術のフィールドのなかで制作を続けてきたソー・ドホのコンセプチュアル・ワークと批評精神は,ときとしてメディア・アートが表現手段であるメディアそのものの新奇さに眩惑されているだけであるように見えるのに対して,重要な意味をもつだろう.ICCがメディア・アートを専らにするアーティストばかりに関心を払うわけではない理由もここにある.そしてより大きな領域からの自由な参入の場の提供こそ,ICCの存在理由の一つにほかならないと言えるであろう.

[小松崎拓男]

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