インターフェイスのキー・ファクター,
〈身体〉が呼び戻す未知の可能性 |
地球の各地点の温度を手の平で感じるというセンソリウムの作品《BeWare02: satellite》の場合にも,行為そのものは単純きわまりないが,認知する情報量は圧倒的に多い.実際に手の平で感じるのはひんやりしていたり生暖かかったりする温度だけなのだが,気象衛星が送ってくるデータの変化を通して,地球というきわめて抽象的な概念の存在物をじつに具体的に体感できる.しかも,この行為を通して,それまでその人が見知っていた各地域に関する情報が喚起されるだけでなく,おそらく心理的にも千差万別の反応が喚起されているにちがいない.訪れた人はたいてい黙ってプレートの上に手を置いている.だがその胸中あるいは脳裏にはさまざまな情報のビットや連想のイメージが飛び交い,膨らみ,収斂していることだろう.《BeWare02: satellite》が引き起こす人々の沈黙は,複雑でやや瞑想的で,そして暖かい. 「メディアの足し算,記号の引き算」とはなかなかひねりの効いたフレーズだが,このフレーズが意図する「メディアの多様性と事象の抽象化」は,表現行為ないしは表現の結果形成されたものの常態であるわけで,なにもメディア・アートだけの特性ではない.むしろ,今回の展覧会と関連シンポジウムを体験してた者の一人として再確認できたことは,「身体」という夾雑物の塊りのような受容・能動体系をいかに作動させ,身体感覚を拡張させていくかが,今後の「インタラクティヴ・アート」にはますます強く求められていくだろうということだった. 繰り返しになるが,その際に高度なAIプログラムや特別に開発されたシステムを使おうが使うまいが,そんなことはどうでもよい.こんな当たり前のことをいまさらながら念押しするのも馬鹿げているが,残念なことに「メディア・アート」はこの落とし穴に未だに陥りがちなのだ.身体性の側から考察してみれば,身体に訴えかける多様な言語体系はまだまだ開発途上にあると言えるだろう. 他者(観客)の身体を自発的に参加させる,これだけでも相当に大変なことであるところにもってきて,なおかつ文化は均一(均質)ではない.20世紀のデザインおよびアート界を席巻した「インターナショナル・スタイル」の成果を認めたうえで,その限界にそろそろ多くの人が気づいているはずだろう.だが「メディア・アート」の世界においては,コンピュータ言語が普遍的であるために,文化環境すら普遍的なものであると想定してしまうという,初歩的な思い違いも起きやすい.「身体」というモメントにインターフェイスを引き戻すこと.そして人間の普遍的な,つまり基本的な行為をキー・ファクターにすること. 今回の関連シンポジウムでMITメディア・ラボの石井裕が設立した「タンジブル・メディア・グループ」の活動がひときわ高い関心を集めていたのも,「置く・取る・触る」といった基本的な行為に注目して,身体とデジタル・メディア環境のインターフェイスを捉えなおしているからではないだろうか ここにいたると,工学系の創造的発想とアート的な創造性との違いは何なのだろうという素朴な疑問が湧き上がってくる.これからは誰もがレオナルド・ダ・ヴィンチにならなければアーティストと呼ばれない時代が来るのだろうか? しかしそんな必要がどこにあるのだろうか? そのためにコラボレーションという協同のかたちがあるのではないか? しかしコラボレーションは本質的に可能だろうか? 云々…….疑問は次々と浮かんでくるのだが,それはまた別の話題である. 「メディアの足し算,記号の引き算」展は単なる「足し算,引き算」を超える身体性と,従来のインターフェイスが転機を迎えているという点をしみじみと,だが確実に感じさせてくれた.展覧会とは,どのようなテーマ性をもってきても実際の作品の集合が呈示する課題はいくつもの方向に浸み出していくものだが,今回の展覧会(およびシンポジウム)もまた,余剰として溢れ出した副産物のほうに深い意義があったように思えてならない.
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