その眼が赤を射止めるとき/トリン・T・ミンハ・インタヴュー2 |
トリン──先ほどお話しした《ありのままの場所》の赤い色と,まったく同じですよ.致し方ない事情から決めたことなんです.「長編劇映画」を作る予算はありませんでしたし,16ミリでも予算が足りなかった.そこで,プロデューサーはいちかばちかの賭けに出て,いたるところに電話をかけては寄付を募った.その結果,パナヴィジョン社が当初私たちがお願いしていた16ミリではなく,35ミリの撮影機材を期間中ずっと無償提供してくれるという信じがたいことが起こったんです. もちろん,別の判断が働いていることも確かです.これは,あなたがおっしゃったように,物語対ドキュメンタリーの問題というより,映画がもっている別の領域に足を踏み入れたという問題なんですね.言ってみれば,これまでは情報と真実といった領域に長年足を突っ込んできたわけですから,今度はラヴ・ストーリーにおける嘘と真実という領域に進みたいと思ったんですよ.私たちの社会で通常ラヴ・ストーリーとして読み捨てられていくものを相手にしたらどうなるか,見てみたかった.ただし,ご覧になればおわかりのように,できあがりには違いがあるものの,踏み込んだ足の向きは前の作品とあまり変わらないんです. リピット――あなたの映画にはどれも,作品の方向性を決めているような場所(プレース)や場(スペース)の特殊性を感じるんです.場が,地理的環境と空想,経験と自己投影の交じりあう映画の運動を司っているというか,導いているように思うんですね.最近までしばらく日本で過ごされ,いままた新たなプロジェクトに取り組まれているということですので,そのプロジェクトのことや,日本という場に対するあなたなりの捉え方をお話しいただければと思います. トリン――視覚で捉えた場を,フィルムやヴィデオ上で形になったものとして見るのがままならないうちに言葉にするのは,厄介なことなんですね.私としてはまだ取り組み始めたばかりのところなんですが,これまで確か5回日本にやってきて,今度は4か月という一番長い滞在でしたので,私なりの文化の受けとめ方も大いに変わりました.悪い意味ではなく,徹底して神秘のベールを剥いでいく体験だったのです.さほどロマンティックでもなく,さりとてエキゾチシズムを感じるほど遠いものでもない,微妙なニュアンスの違いがある現実を受けとめたわけです. 多くの外国人同様,私も日本人の生活や芸術において人の心がしきたりとして現われている点に惹かれています.例えば,日本の芸術には,渾然一体となった美と徳が強烈な印象をもたらす作品が数多くあります.また,私が日本での撮影に魅力を感じている理由の一つに,建物の景観があるんですが,線の美しさや障子などの可動性をとても大切にしているんですね.そこでは,内と外の境目が常に変化している. 精神性という考え方は,千年単位の区切りを迎えたいま,とりわけ精神的なものが秘儀めいたものや組織宗教と同一視されることが多い近代的な社会においては,懐疑を抱かせるばかりかもしれません.いにしえの伝統に回帰することも,現在形の創造活動ではなく,復古運動や物まねとしてしか見られなければ,否定さるべきものになります. リピット――目のつけどころが素晴らしいですね.精神的な生き方や自我を探し求めること,精神性を捉え直してみることは,後期資本主義の日本にとっても興味深い話となるにちがいありません.どうもありがとうございました. [1998年10月8日,バークレー]
|
前のページへ![]() ![]() |