その眼が赤を射止めるとき/トリン・T・ミンハ・インタヴュー2

 

リピット――《ありのままの場所》における色のお話は,大変おもしろいですね.熱が直接フィルムに加わったというのは,もちろん思いがけない災難だったでしょうが,あたかも映画の現場というか,映画のプロセスそのものが何かに触れられたという触覚的な痕跡を残したかのように聞こえます.あなたは以前,同じような流儀で間との関わり方や,沈黙の使い方というかさまざまな沈黙との関わり方,あるいは無言との関わり方を,多くの作品のモチーフとして取り上げている,とおっしゃったことがありますね.あなたの作品では,サウンドトラック上の音と無音との間がおもしろいだけでなく,音がするときでも間や沈黙を感じることができる,そのありようがおもしろいと思うんです.
言い換えると,きわめて見事に間や沈黙へと足を踏み入れてくるので,正しくは音のない息を継いだ瞬間とも,音が遮られた時間とも言えない合間にも,こうした探究が続けられているように感じるんですね.これもまたとりとめのない質問になりますが,沈黙に対する関心はあなたにとってどういう位置を占めているのでしょうか.作品にどのような作用をもたらしているのでしょうか.

トリン――観客と自分の作品について話をする場合,向こう側の感想に対するこちらの反応は,映画とは違うものなんです.映画がやっていることのマネごとはしたくありませんから,(映画評論家の仕事であるとよく言われる)「どんな映画なのか」というお話はできません.私が観客に差し出そうとしているものは,むしろ映画とともにあるもう一つの場なんですね.
討論に参加している人からは,とりとめのない話の場を映画と混同して,「難しいんですね.あなたの話を聞かなかったら,この映画のことがわかったかしら」という言葉が口をついて出ることが往々にしてあります.
でも,映画と討論とはまったく別物なんですよ.自分がわからないから誰もわからないと決めてかかることなどできないのはあたりまえですが,「わかるということ」で映画体験のすべてが説明できるわけでもありません――これはさまざまな受け取り方のうちの一つにすぎません.
かつて私の作品について公開討論会を行なったとき,見に来ていた一人がくどくどとわかりづらい意見を述べた挙句に,次のような締めの文句で不満の意を表わしたことがありました――「芸術は単純でなくちゃダメだ」.私も同感です.単純に反応を返すことができなかった人の口から出た言葉であろうと,そう思います.
芸術家にとって,単純であることは常に大きな目標でした.しかし,別に映画が単純だからといって,厄介な反応を引き起こしかねないというわけではありません.確かに,単純きわまりない作品が,きわめて幅広い解釈や批評的な見解をもたらすことはよくありますが. 《ありのままの場所》で何度も出てくるように,単純であることと複雑であることは,まさに同伴者なん です.

同じように,沈黙にもさまざまな表情があり,それ自体一つの言語であると言えるでしょう.ときには,話すことが沈黙を守ることも,黙っていることがモノを言うこともある.自由にモノが言えないような政治状況ではよくあることですが,《核心を撃て》の最後のほうで画面に登場する書道家の場合も,「どうして上海から移ってきたのですか」という質問に対する答えがはっきり沈黙というかたちをとったので,これは訳さないことが最良の翻訳だと判断したんです.翻訳という問題を相手にした映画のなかに,このような翻訳のない瞬間を挟みこむことによって,多くの人に疑問を投げかけることになりました.

あなたもおっしゃったように,沈黙とは音がしない瞬間でもありますから,文字通り受け取ればひどく不安なものでもあるのです.映画において沈黙が訪れたら,それは鳥のさえずりとか潮騒といった控え目な環境音や,現場用語で「ザワ(room tone)」と呼ばれるもので,サウンドトラックの空白を埋めるという合図になるのが普通なんです.
《ルアッサンブラージュ》ではそれに逆らって,折りを見てすべての音を切り,映画作家が恐れてやまない「ノンモン(sound holes)」と呼ばれる状態を作ってみました.すると,洞察力の鋭いお客さんから,《ルアッサンブラージュ》を見ていたら,サウンドトラックが途切れたせいで,面と向かって迫ってくるような霊的な生々しさを思わず垣間見ることになった,と言われたんです.画面のなかにズカズカと上がり込んでくる死を実感したというのですが,この人こそある意味では,あの映画の理想的な観客なのかもしれませんね.
「ノンモン」を技術上の失敗とみなすのではなく,それが見る人にどのような効果を及ぼすのか,どのような実感をもたらすのかを問うてみることができる.それは,私たちが死と呼んでいるものを実感することかもしれませんし,とりわけ映画が上映されている部屋――ジョン・ケージが音楽として体験したような,観客の立てるいびきや座席のきしむ音,映写機が立てるノイズや身体が脈打つ音――を実感することなのかもしれないのです.

沈黙とは均質な状態であると,単純に言い放ってしまうこともできません.あなたも気づかれたように,音や話し声がたくさんしているときですら,間を感じることができるんです.
そういう感想がとてもうれしいのは,《姓はヴェト,名はナム》や《核心を撃て》 《愛のお話》では,アフリカで撮影した映画とは対照的に,モノを語る意志や意味づけをする意志を凌ぐくらい,これでもかと言語を表に出しているからなんですね.言葉が無意味と化す瞬間もあるんですが,これも言語のもつ別の側面として,しばしばユーモアとして使っています.また,多くの言葉が飛び交ったあとで,正反対のものが一つになるような状態に陥ることもあります.何かを口にしながら,まったく反対のことを言わんとしていたり,何かを耳にしながら,まったく反対の意味に受け取ることもできる――中国政治とのつながりで言えば,左と右,善と悪という言葉はまさにそうなんです.でも,これも言語の性質なんですね.これでもかと押しつけると,言葉は互いに交じりあい,もはや対立するものではなくなってしまう.
つまり,言語に分け入れば分け入るほど,使い古された言葉もまた,無言のうちに批評という場を開いてくれることがわかるんですよ.

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