ICC Report

スタイナ・ヴァスルカソロ・パフォーマンス

スタイナ・ヴァスルカの
ソロ・パフォーマンス

1998年7月17日
ICCギャラリーD



スタイナ・ヴァスルカは1940年アイスランド生まれ.チェコで音楽を学んだ後,1964年にウッディ・ヴァスルカと結婚し,翌年ニューヨークに移住する.1969年最初のヴィデオテープ作品を制作した後,ヴィデオテープ作品,ヴィデオ・インスタレーション,サウンド・パフォーマンスなど,幅広い活動を行なってきた,まさにマルチメディア・アーティストの草分けの一人である.夫ウッディ・ヴァスルカとの共作はもちろん,ソロ活動による発表も数多い.近作では1997年のヴェネツィア・ビエンナーレのアイスランド館におけるインスタレーション《Orka》がその代表作の一つと言える.

今回,ICCにおいて7月17日より開催されたウッディの個展「ザ・ブラザーフッド」展のオープンにあたり,約10年ぶりに来日した彼女は,1970年代初期よりソロで展開しているサウンド&ヴィデオ・パフォーマンス《ヴァイオリン・パワー》と,ウッディの新作インスタレーションの一つである《ザ・メイドゥン》とのコラボレーションによるパフォーマンスを,展覧会初日に披露した.

彼女のサウンド&ヴィデオ・パフォーマンスの基本的なスタイルは,MIDIヴァイオリンを演奏し,そのMIDI信号によってリアルタイムにレーザーディスクの映像をコントロールするものである.MIDIヴァイオリンのそれぞれの弦が,それぞれ映像ソースのスイッチングや,早送り,巻き戻し,再生スピードなどのコントロールに割り当てられており,彼女はその弦とピッチによって自由自在に映像をコントロールすることができるのである.

今回のソロ・パフォーマンスでは,ダンスするパフォーマーの映像や,日本のエレヴェーター・ガールに取材した彼女の過去のヴィデオテープ作品《In the Land of Elevator Girls》などがその素材として用いられていた.彼女の演奏によって,瞬時に切り替えられ,コマ送りされ,静止するその映像.それは演奏という行為によって映像が変化すると言うより,映像の変化=視覚的なコントロールのために演奏が変化し,音が生み出されるという視覚から行為,そして音へというプロセスを経るものと言えよう.

さて,今回のメインのパフォーマンスは,引き続いて行なわれた《ザ・メイドゥン&ヴァイオリン・パワー》であった.まず簡単にウッディのインスタレーションである《ザ・メイドゥン》を紹介しておこう.この作品は《ザ・ブラザーフッド》シリーズ6点の最新作の一つであり,「テーブル6」というシリーズ名が付されている.外科手術用の診察台をそのベースとして,いくつかの伸縮する可動部分が加えられており,それらをコンプレッサーによる圧搾空気で動かすことができるようになっている.また,その左右には扇状のオブジェが一対あり,これも圧搾空気によって開閉する.その扇状の部分および背後の大型のスクリーンには,この作品にまつわるメロディ・カーナハンの詩を朗読する男の姿がプロジェクションされている.すべての運動のエネルギーすなわち圧縮空気は,MIDIによって制御されたコンピュータに接続されたバルブでコントロールされており,リアルタイムにその可動部の動きを変化させる. メイドゥン=処女という名にも明らかなとおり,この作品はいわば“機械”のヴィーナスともいうべきものであり,その可動部分は,例えば頭部,両腕,腹部,足のように,人間の関節や身体の部位を具体的にイメージさせるものとなっている.

MIDI信号のピッチによって,対応する各部がそれぞれ変化するわけだが,インスタレーション(展覧会)においてはそれは観客がマイクに向かって出す音声を,MIDI信号へと変換することによって実現されている.

スタイナのパフォーマンスは,このマイクという入力ディヴァイスをヴァイオリンに置き換えて行なわれた.彼女の演奏によって,《ザ・メイドゥン》は,鋭い圧搾空気の吐出音を伴いながら,身を捩り,頭をもたげ,生き物のようにダイナミックにパフォーマンスする.同時にスクリーンには独白する男性パフォーマーの映像が流れ,彼女によれば,彼(パフォーマー)と彼女(ザ・メイドゥン)との愛の対話=デュエットが展開する.圧搾空気の吐出音とパフォーマーの声とのリアルタイムの対話は,一種のエロティックな印象すらもたらすものがあり,機械と人間との交歓といういわば古典的なドラマがそこに現出していた.

しかしながら,このパフォーマンスにおいて《ザ・メイドゥン》は,決して人間的なイメージ,すなわち“ロボット”的なイメージを生起させる機械=作品には見えなかった.なぜならばそれは“動く”作品ではあるが,決して“移動する”作品ではないからである.それは“台座”に固定されており,自在に身を捩ることは可能でも,その場に呪縛されたまさに一つの“装置”であったからである.

固定された装置としての“処女”と,映像上のヴァーチュアルな男性との交歓.そこに拭いがたくあらわれる独特の不毛感は,ブラザーフッド=男性原理という当展覧会のメイン・テーマと重なり,現代におけるメディアを介したエロスの現われさえ想起させるものであった.

[後々田寿徳]

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