ICC Review

in the Telepresence World

テレプレゼンス・ワールドに見る
「トランスの可能性」
"The Possibility of Trance" in the Telepresence World

木村重樹
KIMURA Shigeki

「移動する聖地」展
テレプレゼンス・ワールド
1998年4月24日−6月21日
ICCギャラリーA,D
Portable Sacred Grounds: Telepresence World
April 24−June 21
ICC Gallery A, D



 「離れたもの/こと」が「いま/ここに/ある」という認識体験……要約すれば,テレプレゼンス(遠隔現前)の構造とはそういうことだという.もとはと言えば,人間の行動範囲を超えた極限環境における作業ロボットの操縦研究あたりに端を発した遠隔操作技術……それがヴァーチュアル・リアリティの発達と手をたずさえた頃合から,今日のようなテレプレゼンス環境に対する注目がなされるようになる……そうした経緯の委細については,ここで改めておさらいする必要もあるまい.

 ただし,そこでの「離れたもの/こと」なる現前対象をどう設定するかについては,おのずと幅も出てこよう.例えばTV受像機(テレ=ヴィジョン)や電話(テレ=フォン)もまた,まごうことなく「離れたもの/こと」を現前化したテクノロジーの典型例ではなかったか.テレビ以前に遡っても,映画や,写真や,絵画といった画像メディアが「いつかの/どこか」という次元を「いま/ここ」にあらしめる装置として機能していたことは,疑いようもない(そうした観点から,時空間の重層性を彷彿とさせるさまざまな映画作品が,本展のサブプログラムとして上映されたこともうなずける).そういう見方を拡大していけば,人類最大の発明である「言語」という記号体系の存在にまでたどりつこう.遠い異郷やはるか過去,あるいは,自分たちとは縁遠い人々の姿や意思といったものをまのあたりにさせてくれたのは,かつての物語であり神話ではなかったか.

 もちろんこうした見方には,「想起」と「現前」を同一視していないかという異論もあろう.つまり「現前」なるものは,ただ漫然と思い浮かぶだけではなく,(あたかも)見え/聞こえ/触れられるような「感覚的な」所与が重要視されるのだ……と.それゆえ,活字よりも映像,描写よりも実写,静止画よりも動画,さらには音響やインターフェイスを介した相互作用性を……といった,いわゆるマルチメディア的な機構によってテレプレゼンス性が強化されてゆく流れも理解できる.「リアリティ」をめぐる問題ともそれは関連してくるが,そもそも「離れたもの/こと」なる現前対象に関しては,空間的/時間的な「遠さ」もさることながら,いわば関係性における「距離」なるものこそ,無視できないポイントなのだろう.

 というのも,われわれのような20世紀人の多くは,地理的/歴史的な世界モデルを,さまざまな学習の機会から「既知」のものとして了解しているきらいがあるからだ.ならば単に遠い場所/ないし/はるか昔という距離性だけではなく,「現実からかけ離れた遠さ」が「いま/ここ」に現前すること……リアルなものをリアルに「再生」するのではなく,(今日となっては)アンリアルなものをリアルに「実感」させる……それこそがテレプレゼンス体験の可能性であり独自性だとも言える.そう考えていけば「テレプレゼンス・ワールド」とは,単に描出精度の上がったVR世界を指すのではなく,むしろコンテクスチュアルな体験の幅までを含めた世界観そのもののセンス・オヴ・ワンダーを指すのだろう.「移動する聖地」展というタイトル,そしてそのコンセプトに「スピリチュアリズム」や「アニミズム」「シャーマニズム」といった原初的/心霊的/精神世界的なアプローチがクローズアップされているのも,こうした流れを踏まえれば,それが「先端技術と神秘主義の安易な折衷」などではなく,ある種の必然性からたち現われてきた問題意識であることが理解されよう.

 それにつけても「移動する聖地」とは,また随分と壮大なテーマ設定ではないか.本展覧会と並行して開催されたトーク・セッションでも,複数の宗教学者から「そもそも聖地とは,1ミリたりとも移動しない場所のことである」といった基本テーゼが指摘されていたように,これはある種のレトリックとして受け止めるべきフレーズなのだろう.いわば「動かない聖地」的な本質を「いま/ここ」に仮想的に現出せしめることで,本来固定した場としての「聖地」性をポータブルに抽出し,インスタントでコンビニエントな現代流の「巡礼」をシミュレートするような試行体験…….  今回展示された4組のインスタレーションとそうした総体的な「コンセプト」が,必ずしも十全に合致しているとは言いきれない部分もあるように思える.しかし「空間共有」「共同創造」「多層現実」「世界要素」「創世神話」「原始感覚」「精神交流」といったサブテーマの拡がりが指し示しているように,そこに生じた「ズレ」や「はみ出し」ている部分にこそ,一義的に収斂しえないテレプレゼンス体験の可能性の幅を認めることもできるのだが.

 展示作品のそれぞれにはインターフェイスが据えつけられ,参加者はそれを操作することで「向こう側」にたち現われる感覚所与が様変わりしていくのをまのあたりにする.庭の隅のスクリーンに映された世界中のイメージと断片的テキストのつづれ織り(港千尋+森脇裕之《記憶の庭》).表面に浮かびあがったアイコンをバチで叩くことで,シャーマニズム研究のヴィデオが投影される太鼓(チェベ・ファン・タイエン+フレッド・ハーレス《ネオ・シャーマニズム》).2名の体験者が一つの仮想空間上に3Dオブジェや“詩片”を選択・配置しつつ,その世界を自在に回遊しあう経験(ビル・シーマン+ギデオン・メイ《ワールド・ジェネレーター/欲望エンジン》).地球を模したトラックボールを回すことで,眼前の画面上に展開された地球像そのものを回転させ,さらには現在の地平から過去の事象まで,任意に降下し上昇する天使的な運動体(アート+コム《テラ・プレゼント/テラ・パスト》).

 しかしそれらをひととおり「体感」してみると,単なる視覚/聴覚情報として与えられた感覚所与のインタラクティヴィティがいかに高度で複雑なものだとしても,個々の作品において,時空間の次元的な重層性を最も強烈に直観させてくれる要素がそれだとは,必ずしも言いがたいところがある.反対に,置かれた石の感触や水の流れ,砂やひもの質感,ブランコのゆれ……こうしたマテリアルそのものの感触や身体的な刺激にこそ,次元的な複層性・リアリティのゆらぎへと参加者を誘う鍵がひそんでいるようにも思えたのだ.トーク・セッションでも頻繁に言及された「聖地」の独自性として,石や建物といったマテリアルに刻印された「意味性」なるものが繰り返し指摘されていたことと,これは無関係ではないのではなかろうか.

 そういえば監修者の伊藤俊治氏があるとき,「移動する聖地」という言葉を口にした際,学生たちの中から「それってまさしくレイヴ・パーティーのことではないですか?」というような反応があったという.確かに今回の展示のある部分は,電子装置によってかたちづくられたシャーマン的世界……一種のテクノ(ロジカル)・シャーマニズムとでもいうような性格を帯びていた.では,もう一つのテクノ(サウンド)・シャーマニズムとも言われているレイヴ・パーティーは,本展覧ないし「テレプレゼンス・ワールド」とどのように対応していくものだろうか? 最後に大雑把だが,双方の比較検討を試みてみよう.

 90年代以降,世界各地で同時発生的な潮流を形成しつつあるレイヴ……とくにサイケデリック・トランス系のパーティーとはどのようなものか.その委細を説明する紙幅もないが,簡単なアウトラインを記しておけば,これは野外で(トランス)テクノを大音響でかけ,昼夜を通じて時を忘れひたすら踊り明かすことで,一種の集団トランス(忘我/陶酔/脱魂)にいたるという「祭祀的」な催しのことだ.

 サウンド的側面で言えばサイケデリック・トランスは,いわばシーラカンスのようなテクノ……つまり音楽的進化の階梯からあえて外れてしまった音とも言える.その様式性ゆえ,ある意味で古くさいテクノであるが,その様式的なスタイルに固執しているのも,ひとえに「一番踊れる音」だからという実用的評価も一方にはある.会場での装飾(デコレーション)もまた特徴的で,ブラックライトに反応する蛍光模様(サイケデリックの戯画化?),ヒンドゥーからキリスト教,ユダヤ教,仏教などのイコンやマークやシンボルがパッチワーク的に取り込まれ,重ね描かれた図像がダンスフロアの四方にかけられ,さらにはCGで起こしたオプティカル模様や風景がヴィデオで投影される……等々.

 いわばこれは60年代風のサイケデリック集会をアップ・トゥ・デートしたような趣向なのだが,よくもあしくも,これまでのトランシーなメソッドを自在に組み合わせ,継ぎ木したような「寄せ集め」感覚が「ちょっとしたチャンネルを開くことで,誰もが変性意識状態にアクセスできる」という簡便さを提供してくれたとも言える.あらゆるパーティーがそのような,一種「ネオ・シャーマニスティック」な作用を十全に引き出しているわけでもないが,そこでのコンビニエントさ・間口の広さは,「聖地」性のエッセンスを巧みに抽出しているようにも思えるし,過去には存在しえなかった,20世紀終盤ならではの「発明」と言ってもさしつかえなかろう.

 ただ,こうした「祭祀的」空間としてのトランス・パーティーと,今回のような「操作型」インスタレーションを並べてみると,ある種の価値観や理念を双方が共有しているとはいえ,やはり体験としてはかなり異質なものであることは否定できない.その最大の相違点は,前者における「ダンス」という身体動作,そして「群衆」という集団性のもたらすヴァイブレーションの有無だ.だからといって本展会場に集団でのりこんでゆき,作品の前で激しく踊りでもすればその溝が埋まるのかというのも,当然,おかどちがいの話だ.しかし例えば,《記憶の庭》をパーティーのチルアウト・スペースに仮に設置してみたり,《ネオ・シャーマニズム》の太鼓を実際の楽器としてうち鳴らせるようにしてみた場合,そこでの(疑似)遠隔現前としての体験の「質」もまた,ゆるやかに様変わりしていくかもしれない……そういう他愛もない夢想を,会場を回遊していた私が密かにいだいていたことも,ここで最後に白状しておこう.


[同展関連イヴェントとして開催された,全6回のトーク・セッションとシアタープログラムについては,『InterCommunication』26号ICCレポートpp.184−189参照/なおトーク・セッション6回目の「ネオ・シャーマニズム」は,『InterCommunication』26号pp.168−179に特別記事として掲載]


きむら・しげき――1962年生まれ.編集者,ライター.春に刊行された『ヴォランタリー・アート・マガジンVOID vol.6』にて,トランス関係の雑文を寄稿.
近況等は
http://www2.meshnet.or.jp/~jvd/SHIGEKIX.htmにて公開中.
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