- 1970
- 日本万国博覧会(日/大阪)
3.15−9.13,6421万9千人[人類の進歩と調和・77カ国.「アジアで最初」の「史上最大の参加国」を擁する万国博.また入場者数も過去最大であり,当時の日本の総人口との対比においてもその規模には大きな意味があろう.会場ではモノレール,動く歩道,データ通信システムなど,モノや情報の交通についての展望が未来都市として表現された.一番の展示の呼び物はアメリカ館の「月の石」,ソ連館の「宇宙船のドッキング」であったが,まさにそれは人類の交通の物理的な先端の光景として存在していた.デザイン的には丹下グループあるいはメタボリストたちによって構想された60年代的都市像の実験場となった]
- 1972
- 第20回オリンピック(西独/ミュンヘン)
8.26−9.10,121カ国7147人[大会期間中9月5日,パレスチナ・ゲリラが,選手村にいたイスラエル選手を襲撃し,11人の選手が誘拐・殺害された.会場は,モニュメンタルな広場などはないが,透明な,そして全体を見渡すことのできる雰囲気.メインスタンドから屋内競技場,屋内プール,人造湖へとつながる配置計画には,自然と調和したデザインが採用された]
第11回冬期オリンピック大会(日/札幌)
2.3−13,35カ国1128人[札幌は1940年に第5回冬季オリンピック大会会場として決定していたが,同年の幻の東京オリンピックとともに返上されたという経緯がある.東京オリンピックの成功は対内的・対外的に札幌招致への原動力となる.ここでも冬季オリンピックとしては「アジアで最初」と宣伝された.開幕前のIOC総会でアマチュアリズムと環境破壊が問題として取り上げられる.後者については,国立公園内に造られた滑降コースに4日間の競技終了2時間後に復旧工事が施された.都市計画としては,オリンピック施設としてつくられた住宅団地に,わが国最初の地域暖房施設がとりいれられた]
- 1976
- 第21回オリンピック(加/モントリオール)
7.17−8.1,92カ国6085人[オイル・ショックによって政治は翻弄されていた.ニュージーランドのラグビー・チームが南アフリカに遠征をしたことを契機に,IOCに対してその他のアフリカ諸国が,ニュージーランドの参加を認めないよう要請した.しかし,IOCがニュージーランドの参加を公式に認めたため,26カ国(ほとんどのアフリカ諸国)が参加拒否.また,カナダが中国を公認したため台湾が参加を拒否したなど,この大会から国際政治の影響が顕著になった.総費用は10億ドルと言われたが,「最も高価で未完成な施設だ」と『ニューズウィーク』誌から批判された.実際に,選手村では1ユニットに14人の選手が押し込まれていた]
第12回オリンピック冬季大会(墺/インスブルック)
2.4−2.15,37カ国1128人