エミール・クストリッツァの『アンダーグラウンド』(1995)の厄介な点もここにある.われわれはこの映画を美学の対象として扱うこともできるし,政治にはセックスに劣らぬ情念が費やされる以上,政治=イデオロギー闘争に賭けられたものとして扱うこともできるだろう.さらに,歴史家の眼差しをもつことができ,ユーゴスラヴィア紛争の背景について何か学ぼうとしてこの映画を研究する者にとっては,科学的な興味の対象となることもあるだろうし,極端な場合,純粋に技術的な興味の対象として機能することもあり得る(どうやってこの映画はつくられたのか?).だが,『アンダーグラウンド』がとりわけフランスで巻き起こした熱狂的な反響についていえば,ポスト=ユーゴスラヴィア戦争の意味をめぐる政治的闘争の賭金としての役割が,映画に内在する美的価値をどうやら完全に駆逐してしまった感がある.そして,私としてはこういった見方を最終的に認めるのに吝かではないものの,抱く観点がわずかばかり異なっているのである.この戦争で一方の側の肩をもち,旗幟鮮明である(英雄的なセルビア人対親ナチの裏切り者スロヴェニア人とクロアチア人……)から,『アンダーグラウンド』は政治的な意味をもつというばかりでなく,むしろ,その「脱政治化された」唯美主義的な態度にこそこの映画の政治的意味があるのだ.つまり,『カイエ・デュ・シネマ』のインタヴューのなかで,クストリッツァが『アンダーグラウンド』の政治性を完全に否定し,それは識閾上でのトランス状態のような一種の主観的経験,「ずるずると延期された自死」であると主張するとき,彼はそう言うことで実は真に政治的なカードをきっているということだ.問題は,ではどのようにしてかということである.
イギリスの傑出したワグネリアンであるジョン・デスリッジは,かつて次のような注目すべき事実を強調した.ヒトラーが好んだワーグナーのオペラは,露骨にドイツ的な《マイスタージンガー》でも,東方の野蛮な遊牧民からドイツを防衛するために武器を取ることを訴える《ローエングリン》でもなく,名誉や恩義などの象徴的義務にみちた日々の生活という昼を捨て去り,人を夜に埋没させて自己の死を恍惚として受容させる傾向をもつ《トリスタン》だった,ということである.キルケゴール流に言うならば,この「政治的なものの美的な宙吊り」こそが,まさにナチのとった態度の背景としてのファンタスムの中核を成すのだが,そこで重要であったのは何か政治以上のもの,美的なものと化して人を恍惚に誘うある共同体的体験であり,その典型的な例としてニュルンベルクの政治集会で夜な夜な行なわれた儀式をあげることができるだろう.したがって,『アンダーグラウンド』についての私の説はこうだ.
まず,バルカンとポスト=ユーゴスラヴィア戦争に関するジャーナリスティックな紋切り型(クリシェ)をとりあげてみよう.ボスニア紛争について語る場合,セルビア人を悪魔化して一方的に責を負わせるという通弊を避けなければならない,とはよく聞かれる警告である.この場合,「兄弟喧嘩のような民族の殺し合いでは,一つの陣営だけが悪いということはなく,いずれにも責任がある」といったような,ここで渦中にある陣営すべてに対して「等距離」を保とうとする傾向にもとづいたこの警告自体が,ボスニア紛争についてみられる主たる紋切り型の一つであるということはひとまず置くとしても,こういったどっちつかずの判断のうちに潜む「表向きの」欲望と真の欲望の間のずれを識別するのは興味深いことである.すなわち,この「表向きの」,公然としたセルビア人に対する非難とボスニア人に対する同情においては,セルビア人が無敵の戦士であり勝者であるとみなされている一方,ボスニア人の役割は苦杯をなめている敗者と決められているのであり,ここで西欧の為す主要な努力は,根底にあるこのファンタスムの枠組みを乱さずに維持することを目指すのである.だからこそ,戦場でセルビア人が負け始めるや否や,西欧は圧力を増して戦争を止めさせたのだし,ボスニア人が勝ち始めた途端に,彼らは狂信的なイスラム原理主義者である云々といった具合になってしまったのだ.ボスニア人は犠牲者であり続けなければならなかった.実のところ,いわゆる「セルビア人の悪魔化」の真実は,セルビア人の犠牲者が悪魔のように人を魅惑し,虜にしてはなさないという事態にこそあったのであり,それは,切り刻まれた死体や傷つき泣き叫ぶ子供など,ぞっとする写真に対して西欧が示した態度のうちにはっきりと窺えた.そうした写真を見て西欧は恐怖したのだが,また同時に「そこから目を離すことができなかった」のである.
流布しているもう一つのジャーナリスティックな紋切り型は,バルカンの人々は歴史的神話から成るファンタスムの坩堝のうちにとらわれている,というものである.クストリッツァ自身がこの説を受け入れているが,それを『カイエ・デュ・シネマ』のインタヴューから抜粋してみれば次のようになる.「この地域では戦争は自然現象です.時折起こる地震のように天災みたいなものなのです.私は映画の中で世界のこの混沌部分でいま何が起きているかを明らかにしようとしましたが,この悲惨な争いの根が何処にあるのかはおそらく誰にも解らないでしょう」.ここにみられるのはもちろん,エドワード・サイードの言う「オリエンタリズム」の如く機能している,「バルカニズム」の典型的な例である.つまり,バルカンとは西欧が自らのファンタスムの内実を投影する無時間的な空間というわけだ.1995年のオスカー候補だったミルチョ・マンチェフスキーの『ビフォア・ザ・レイン』(1994)は,『アンダーグラウンド』とは政治的な立場で対立するものだが,にも拘わらず,西欧の眼差しに対して,それがバルカンのうちに視たいと欲するもの(すなわち,物憂げにも退廃した西欧の生活と対照を為す,太古より続く永遠の情念,愛憎の織りなす悪循環の目を見張るばかりの神話的光景等々)を提供している点では『アンダーグラウンド』と変わりがない.
民族浄化主義者の言う「民族的,宗教的な深い根」もまた上記と正確に同じ状況を踏襲しているからには,われわれが避けねばならぬのは,「理解するよう努める」ということの罠である.つまり,ボスニア紛争が神秘化される主要な理由は,誰もがそれを「理解しよう」と努めることにある.そういった態度の紋切り型の一つに従えば,「何が起きているかを説明しようとすれば,少なくとも過去500年の歴史,様々な戦争と宗教的,民族的等々の争いのあれこれについて知識を得なければならない」ということになるが,情勢の「複雑さ」をこのように強制的に喚起させることが結局何に貢献するかといえば,バルカンに注がれる疑似人類学的眼差し,つまりはファンタスムの場としてのバルカンに対して西欧の観察者が保っている距離を維持することに貢献するのである.言い換えるなら,旧ユーゴスラヴィアでの出来事が証明しているのは,「理解することは許すことだ」というお定まりの知恵がもつ愚劣さなのだ.為さねばならぬのは,まさにその逆のことである.ポスト=ユーゴスラヴィア戦争に関しては,いわば逆転した現象学的還元を行ない,われわれに状況を「理解する」ことを許す夥しい過去の亡霊,意味の多様性を括弧に入れなければならない.「理解する」ことの誘惑にあらがい,TVの音を切ることと同じようなことを行なわなければならない.するとどうだ,声の支えを失ったブラウン管上の人物の動きは,意味のない馬鹿げた仕草に見えるではないか…….
したがって,まず最初に為すべきことは,ある眼差しを問題にすることである.つまり,バルカンとは,馴致するかさもなくば隔離すべきエキゾチックな光景であり,歴史の進展が停滞し,ぐるぐると同じところを回っている野蛮な情念にとらわれている場所,あるいは(幾度も破られた停戦協定が示すごとく)象徴的絆が蔑ろにされると同時に(誇り高く名誉ある戦士という旧い考えにみられるように)強化される場所であるとみなす,リベラルかつ民主主義的ヨーロッパの無邪気な眼差しが査問に付されなければならない.ところが,ファンタスムの常として,バルカンに対するわれわれの関わり方は実に曖昧なのである.「アメリカではコンピュータやTVのスクリーンを前にしたセックス,コンドーム付きのセックス,解説書に手施きされたセックスがますます増えるばかりだというのに,バルカンでは真の愛と真の憎しみがまだ生きていて,たとえ野蛮なレイプであろうとセックスは未だに本当のセックスだ」と,ほど遠からぬ昔にあるアメリカ人の友人が私に語ったように,そこで起きているおぞましいことに対する嫌悪と,物憂げで無気力な西欧での生活とは対極的な古くからの情念が描きだす光景のエキゾチックな魅力は,奇妙に入り混じっているのだ.
かつてヘーゲルは,真の悪とは自分の周囲すべてに悪を見出す眼差しのことだと言ったことがあるが,この考えは,文化的,宗教的変質を徴すあらゆるものを自らの同一性への脅威とみなす「民族浄化主義者」の眼差しはもとより,バルカンを「ナショナリストの狂気」の跳梁する場所,ヨーロッパ全体を飲み込みかねない原始的情念が渦を巻く場所,文明化したヨーロッパがずっと昔に免疫になった「民族ウイルス」が蔓延している場所とみなす,中立かつ理性的でリベラルな多文化主義者の眼差しにもそのままあてはまる.こういった「開かれた」多文化主義の立場からバルカンの「部族的情念」がもつナショナリスト的閉鎖性を慨嘆する中立的視線にも悪は存在する以上,査問に付さねばならぬのは,多文化主義者の普遍主義とナショナリストの個別主義がかたちづくる対立全体ということになる.実際,協調と実践的交渉のヨーロッパと原始的情念のバルカン,というこれら二つの対立する両極は,そのどちらも政治的なものそのもの――今日の資本主義のかかえる様々な敵対関係及び社会闘争――を排除することでは一致しているのだ.
だが,普遍的多文化主義者の眼差しの弱点とは,それが「汚れた水を捨てようとして,一緒に赤ん坊まで流してしまう」という無能力さにあるのではない.「行き過ぎた」狂信というナショナリストの汚れた水を捨てるときには,国民の「健全な」アイデンティティまで失わないように気を付けるべきであり,必要最小限の国民のアイデンティティを保証する「健全な」ナショナリズムと外国人を攻撃的に排斥する「行き過ぎた」ナショナリズムを区別しなくてはならない,という主張は根本的に間違っている.「不純な」過剰物を取り除くことがまさにナショナリストの狙うものであるからには,その理屈を再生産するこんな常識めいた区分が一番危険なのだ.したがって,ここで精神分析治療との相同性をもち出して試してみたい誘惑にかられるのはあながち間違いではないだろう.精神分析による治療が目指すのは,赤ん坊(健康な自我の核)を安全に保つために(症候,病理的痙攣という)汚れた水を取り除くことではなく,むしろ赤ん坊を放り出す(患者の自我を一時的に脇に置く)ことで享楽(jouissance)を構造化している症候やファンタスムという「汚れた水」に患者を対峙させることである.これを国民のアイデンティティについていえば,ナショナルな〈もの〉において享楽を構造化しているファンタスムの支えを可視化するために,国民のアイデンティティの精神的純粋性という赤ん坊を放り出すよう努めなくてはならないということになるが,『アンダーグラウンド』の長所とは,それがこの汚れた水――ファンタスムの支え――を目に見えるものとしている点にあるのだ.
権力の公的言説を補完するこのような一連の隠微な不文律は,現代史のもう一つの一端,多くの回想録のうちに現われ,とりわけリンゼイ・アンダーソンの映画『if もしも…』(1969)によって描かれたあのイギリスの大学生活のうちに同様に認められないだろうか? 単調だがしゃれた雰囲気をもつ大学生活の洗練された開放的な表面の下には,上級生と下級生の間の荒々しい力関係が蠢く世界がある.上級生が下級生を搾取し,嘲弄する様々な方法は,種々の不文律の細かな組み合わせによってあらかじめ規定されており,こういったことすべてに「禁じられた」性が浸透しているのである.ここでは,法と命令による表立った「抑圧的」規則があり,それが公的権威をあざわらうといった秘密裡の反抗によって侵害されるというわけではない.事態はむしろ逆であり,公的権威が行儀の良い穏やかな外観を保つ一方,その裏には力の野蛮な行使自体が性的なものと化した影の王国があるのだ.そして重要な点とはもちろん,この隠れた影の王国が公的な権力の節度ある見かけを侵害するどころか,その内在的な支えとしてはたらくということである.王国の不文律の通過儀礼を経ることによって初めて生徒は学校生活の恩恵に与れるようになるのであり,もしこの書かれざる規則を破ったなら,その罰は通常の規則違反の場合よりもずっと過酷なものとなるのだ.
しかし,致命的な混同を起こさぬように注意深くあらねばならない.ここでいう一連の隠微な不文律とは,われわれの活動に内在する窺い知ることのできない深層といったものとは何の関係もない.例えば,ハイデガー信奉者の言いそうな,われわれ有限的存在である人間はいつも何らかの状況のうちに「投企」されており,状況のうちにある自分を見出さねばならないが,その方法は決して明示的に定式化することができない,などということとは一切関係がないのだ.権力の隠微な儀式を上演してくれるもう一つの映画,スタンリー・キューブリックの『フルメタル・ジャケット』(1987)をためしにここで思い出してみよう.前半部分で見られるのは軍事教練であり,そこには力の誇示による嘲弄,性的なことについての差別,野卑な冒涜(クリスマスに「ハッピー・バースディ・キリストさん……」と歌うように命じられる)の三つが独特に混じり合って蔓延している肉体鍛錬そのものがある.手短に言えば,ここには権力の超自我機構の純粋形態があるのだ.この隠微な機構がわれわれの日常の生活世界に対して占める位置について映画の教えるところははっきりしている.書かれざる規則の支配する隠微な地下世界(アンダーグラウンド)が果たす役割は,公式の,「表立った」イデオロギーを広め,それを現実の社会生活を構成するものとして機能させることではない.つまり,隠微な世界は,象徴的な法の抽象的構造と現実の生活世界の具体的な経験の間を「媒介する」のではない.事態は逆であり,超自我機構のクレイジーな要求に応えるためにこそ,われわれは「人間の顔」,距離の感覚を必要としているのだ.映画の第一部は,自己を軍隊のイデオロギー機構と過度に同一化せざるを得なかった一人の兵士が「暴走し」,教練係の軍曹を撃ち殺して自殺するところで終わる.超自我機構との過激かつ無媒介的な同一化は,必然的に殺人的なアクティング・アウトをもたらすのである.では,映画の主要部である第二部の終わりの方はどうか.マシュー・モディン演ずる兵士は軍隊機構に対して一種皮肉混じりの「人間的距離」を一貫してとっている――ヘルメットに書かれた「殺すために生まれた(ボーン・トゥ・キル)」という文句にはピース・サインが付いている等々――が,傷ついたヴェトコン狙撃兵である少女を哀れみの念から射殺する.彼の内でこそ軍隊の大文字の〈他者〉の呼びかけがもっとも成功しているのであり,彼こそが見事につくりあげられた軍隊的主体なのだ.
象徴的権威を付与されると主体はその権威の付属物のように振る舞う.それを理解するには,浅ましく腐敗しきった人物かもしれぬ一人の判事が,ローブを羽織り,記章を身につけた途端にその言葉が法の言葉となる,ということを思い起こせば十分である.つまり,象徴的制度という「大文字の〈他者〉」が彼を通じて作用するのだ.原始の父親殺しというフロイト的神話の究極の教えはここにある.非業の死を遂げた父親は,死後,彼の〈名〉という象徴的権威のかたちで以前にも増して強力になって帰ってくるのだ.だから,現実の父親が父親としての象徴的権威を振るおうとするならば,彼は生きながら幾分か死んでいなくてはならない.象徴的命令の「死んだ文字」に自己を同一化することが,父親という人物に権威を付与する.これは,むかしのアメリカの人種差別主義者のスローガンを使ってもじるなら,「死んだ父親だけがよい父親!」とでもいえる事態である.他方,「不可視の」主人──その典型的な例は,目には見えぬが社会を影で操っている「ユダヤ人」という反ユダヤ主義者が創り出した人物像である――とは,公的権威の不気味な分身ということになる.人々の目には見えぬまま,幽霊のように怪物じみた全能性を発揮しつつ影に潜んで行動せねばならない彼の正体の核心が,底知れず捉えどころのないものであるが故に,ユダヤ人は去勢できないとみなされるのだ.ユダヤ人の現実的,社会的,公的な現存が切り詰められればそれだけ,ユダヤ人の捉えどころのないファンタスム的外在(ex-sistence)が脅威となる.このことは,旧社会主義東欧諸国で最近力を増した反共産主義の右翼人民主義のことを考えれば良く解る.それによれば,現在の経済その他の困難は,公的,法的な力を失ったとはいえ,未だに共産党員が影で糸を引き,経済の要とメディアや官公庁等々を支配し続けていることで説明される.共産党員は,ユダヤ人がそうであった如く,ファンタスム的実体とみなされているのである.彼らが力を失って,表立たなくなればなるほど,ますます彼らの幽霊じみた遍在性は拡大し,影からの支配力といったものが強くなってしまう.
不可視であり,まさにそのために強大な主人というこの論理は,ペルーのセンデロ・ルミノーソの指導者アビマエル・グスマン(「ゴンサーロ大統領」)の,逮捕されるまでの人物像が果たした役割の内にも同様に作用していた.この場合,彼が実在の人物なのか,それとも単に神話的に言及されるだけなのか人々は知っておらず,彼の存在自体が不確かなものだったということが,余計に彼の力を高めることになったのだ.ブライアン・シンガーの『ユージュアル・サスペクツ』(1995)こそこのような事態の最新の例といえるだろう.本当にいるのか解らぬ謎めいた黒幕「カイザー・ソゼ」が扱われているこの映画のなかで,ある登場人物は次のように言う.「俺は神を信じない,だが彼はこわい」.
『アンダーグラウンド』にでてくる不運なマルコも,奴隷労働者の不可視の帝国を支配している悪い魔法使いの系譜につらなる一人といえる.彼は人々の象徴的主人としてのチトーの一種不気味な分身なのだ.したがって,問題は,クストリッツァがこの二重性にどのような態度をとっているのかということになるのだが,この点において映画はいささかおぼつかなくなってくる.つまり,『アンダーグラウンド』の問題点とは,シニシズムの罠に陥ってしまい,この隠微な「地下世界(アンダーグラウンド)」を好意的距離の下に呈示しているところにあるのだ.『アンダーグラウンド』は,言うまでもなく重層的であり,非常に自己言及的な映画である.爆弾が落ちても悠然と食事を続けるのが真の男,というセルビア人の神話的イメージなど,まず幾つかの紋切り型と戯れ,ヴィゴの『アタラント号』(1934)にまで至る映画的引用を行なったかと思えば,(死んだと思われていた「地下抵抗運動(アンダーグラウンド・ウォー)」の英雄が隠れ家から出てきてみると,彼の華々しい最後を題材にした映画の撮影場面に出くわす,といった具合に)映画そのものに言及するだけでなく,さらに,例えば「昔々○○と呼ばれた国がありました」というようなお伽話の視角への参照や,リアリズムから純粋な空想――ヨーロッパの地中には地下トンネル網があり,その内の一つはベルリンからアテネへ通じている,というアイディア――への移行等々,種々のポストモダンな自己言及性に満ちている.もちろん,これらのことすべては皮肉混じりに呈示されており,「額面通りに受け取ってはならない」のだが,すでにみたように,まさしくこのように自己に対して距離を取ることを通じて「ポストモダンの」シニカルなイデオロギーは機能するのである.近頃ウンベルト・エーコはファシスト的態度の核心を為す特徴と称するものを列挙し,例えば,ドグマへの固執,ユーモアの欠如,理性的議論に対する冷淡さ,を挙げたりしているが,彼はこれ以上はないというくらい誤っている.今日のネオ・ファシズムはますます「ポストモダン」になり,洗練され,遊び心を持ち,自己に対してアイロニックな距離を取ること等々も心得ている.だが,これらすべてのことにも拘わらず,やはりファシストであることにかわりはないのだ.
だから『カイエ・デュ・シネマ』のインタヴューの中のクストリッツァは,ある意味で正しいのかもしれない.「秘められたアンダーグラウンド」ファンタスムの支えを明るみに出すことで,彼は確かに「世界のこの混沌部分でいま何が起きているかを明らかにする」ことに幾分か成功している.それによって,自分でも知らずに,ボスニアのセルビア人による民族虐殺のリビドー経済を準備し,提供しているのである.バタイユもどきの過剰な蕩尽によるトランス状態,飲んだり喰ったり,踊ったり姦淫したり,この狂騒的リズムの延々たる継続――民族浄化主義者の「夢」はこういったものから成っているのだし,ここにこそ,「彼らは一体どうしてあんなことができたのだろう」という問いに対する答えがあるのだ.もし,戦争の標準的な定義が「他の手段による政治の継続」であるとするなら,民族浄化とは,他の手段による(一種の)詩の継続とはいえないだろうか.
(スラヴォイ ジジェク・精神分析/訳=もりた ゆうぞう・表象文化論)