テレビアニメ作品.テレビ東京系5局ネット,水曜18:30,95/10/4*−96/3/27.全26話.原案・脚本・監督=庵野秀明.企画・アニメーション制作=(株)GAINAX.
基本は,謎の敵に対し,謎の機械に乗って理由も分からず闘う不条理な物語.舞台は近未来,2015年の富士山麓・第3東京市.その第3東京市に対し,それぞれ旧約聖書の天使名を冠する「使徒エンジエル」と呼ばれる存在が,断続的に攻撃を仕掛けてくる.使徒は,いわゆる巨大生物のこともあれば,浮遊する巨大ピラミッドのことも,またコンピュータ・ウイルスやただの光る輪のこともあるといった存在であり,その正体も意図も全く不明.その攻撃に対抗できるのは,巨人型生体兵器「エヴァンゲリオン」(通称エヴァ)のみが知られているが,これもまた人類のテクノロジーを超えた存在であり,しばしば暴走する.エヴァは3体あり,それぞれに14歳の子供(シンジ,レイ,アスカ)が専属操縦者として選ばれている.物語は,この3人に,29歳の女性ミサトを加えた4人の人物を中心に進む.それぞれトラウマを抱え他人とのコミュニケーションが苦手な彼らにとって,「なぜ使徒と闘うのか/エヴァに乗るのか」という問いは,人類が云々というより,むしろ内面の問題として意識される.演出も登場人物の心理に重点を置いている.
テレビシリーズ前半,作品はほぼよくできたSFアニメとして進行する.その過程でいくつかの謎が解明され,その世界設定が,ユダヤ = キリスト教神秘主義を参照したカルト色の強いものであることが明らかになる.登場人物たちに関しては,各々の心の病の克服に向かうよう肯定的に描かれている.しかしほぼ第16話を境にし,後半,その作品世界は内破し始める.各エピソードは急速に凄惨さを増し,登場人物たちはコミュニケーションを失い,死に傷ついていく.作品世界上の謎も加速度的に増殖し,視聴者も登場人物たちもともに(いわば)『ツイン・ピークス』的迷宮性に突き落とされる.この時期の筋を要約することは不可能だ.第24話は,孤独になったシンジが,ある少年と疑似同性愛関係をもったのち,彼が第17使徒であることを知り殺さざるを得ないところで終わる.物語はここで中断,最終2話は抽象的映像によるシンジの内面描写,およびメタフィクション的試みに終始した.第24話まで構築された作品世界上の謎と物語的結末のこの突然の放棄は,アニメファンのあいだに極めて大きな動揺を引き起こした.
現在,最終2話はVT/LD版での再制作が発表されている.また来年春には劇場版総集編公開が,さらに夏には,完全オリジナルストーリーでの新作公開が予定されている.
ジャパニメーション・ブームなどと一部では言われているものの,実際には現在,まともな関心に値する日本の商業アニメーション(いわゆるアニメ)はほとんどない.そもそもここ12年間(84年以降)で,一部マニアの関心を超えて認知するに足るアニメ作家は,宮崎駿,大友克洋,それに押井守の3人くらいしかいなかった.しかも皮肉なことに,その彼らの作品の質は,むしろ物語的にも映像的にも「アニメ的なもの」(ここではあえて漠然とした表現を使っておくが)から距離をとることで維持されてきたように思われる.
どういうことか.例えば宮崎.『となりのトトロ』(88),『魔女の宅急便』(89)の2作で決定された彼のメジャー路線・教養路線は,それ以前の作品,例えば『未来少年コナン』(78)や『天空の城ラピュタ』(86)が豊富にもっていたアニメ的=オタク的想像力(ロリコン系美少女+メカ)の抑圧の上に成立した.当時の発言を見ると,宮崎がその切断を意図的に行なったことが確認できる.また大友の『アキラ』(88)は,日本特有の「アニメ絵」とは対極にあるアメコミ風の作画,およびすでにコミック版が確立していた国際的名声からして,日本アニメの状況からある程度独立し制作された作品だと考えてよい.つまり,アニメーションではあるが「アニメ」ではない.3人の中では最も80年代アニメに深く関わっていた押井でさえ,メタフィクション的志向が強い『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』(84)を発表した後は実験的作品や実写映画を散発的に制作するようになり,結局『機動警察パトレイバー2 the movie』(93)で「アニメ絵」「アニメ的物語」に完全に訣別してしまう.80年代後半以降,アニメ作家たちのほとんどは,一方で低品質のテレビアニメを,他方で,急速に整備されたOVA(オリジナル・ヴィデオ・アニメーション)の流通システムをフルに生かした一部マニア向けの,ただ画質がいいだけの作品を無批判に生産する閉塞した状況に陥っていた.上記3人がかろうじて良質の作家たり得ていたのは,彼らがともかくは,そのような日本アニメ特有の,作り手と受け手とが一体となった閉鎖的空間(同人誌,パソコン通信,アニメ専門誌,専門店……)に荷担することを拒否し得ていたからに他ならない.つまり日本アニメは,ジャンル全体として,ここ十数年圧倒的に――その市場の巨大さと比較すれば信じがたいほど――不毛だったのである.
アニメという表現ジャンルは,80年代,急速に量的拡大と質的細分化を遂げた.あらゆるジャンルと同じように,日本アニメにもまた「アニメ的」としか言いようのない物語や映像が存在する(例えばそこには,70年代日本SFの数少ない遺産がある).にもかかわらず私たちはここ十数年,僕の考えではほぼ84年――それは『風の谷のナウシカ』の公開の年だが――を境にしてそれ以降,アニメジャンル特有の諸規則を生かした,つまりいかにもアニメ的でかつ高水準の作品というものを何一つ手にしていない.これは驚くべきことだ.アニメはジャンルとして死んでいる.
恐らくこの問題を,今まで最も真摯に受けとめてきた作家は押井である.彼の新作『GHOST IN THE SHELL・攻殻機動隊』(95)は,その意味で徴候的な作品だった.作画から「アニメ絵」的要素を排除し,オリエンタルなサイバーパンク・イメージと現代思想系キータームを大量に投入して作られたこの作品は,批評家受け・海外受けの戦略(例えば国際ヴィデオ版のエンデイングはU2とブライアン・イーノに担当させる,というように)に満ちたかなり空虚な代物だ.にもかかわらずそれは,押井のかつての傑作,『うる星やつら2』や不条理ドタバタアニメの最高峰『御先祖様万々歳!』(85)などより評価されてしまうだろう.押井はそのことをよく分かっている.彼は,アニメというだけで誰も作品をまともに見ない,逆に言えばちょっと作画を変えエサをばらまけばすぐに文化的・先進的(「もはやアニメではない」)とされるその現状を,アイロニカルに追認して『攻殻』を作ったわけだ.その所作は悲劇を通り越して,滑稽という他ない.昨年11月,僕はそんな押井を見ながら,ますます日本アニメの終わりを痛感していた.
庵野秀明による『新世紀エヴァンゲリオン: Neon Genesis Evangelion』は,そんな状況の中,突然現われた.
それは完全な不意打ちだった.いかにもアニメ的な作画といい,テレビという公開媒体といい,ほとんどアニメ専門誌のみに限られた――しかも単なる巨大ロボットSFアニメとしての――前宣伝といい,『エヴァンゲリオン』が通常のテレビアニメを大きく剰余する作品であることは,事前には全く予想できなかった.恐らくその事情は,アニメファンにとっても同じだっただろう.にもかかわらずそれは,放映が終了してみれば,二重の意味で大きな「事件」になっていた.以下,僕はその事件性について簡潔に語っておきたいと思う.
別欄に記したように,『エヴァンゲリオン』は大きく前半と後半に分けることができる.前半は,極めてウェル・メイドなSFアニメだ.この段階――つまり96年1月時点――ですでに,本作品は『機動戦士ガンダム』(79−80)以来の傑作として絶賛されていた.恐らくその評価は正しい.作画枚数が多かったり,演出がアニメにしては異例に細やかだったりしただけではない(アニメをある程度見ている人間にとりそれもまた驚くべき水準なのだが,ここで詳しくは語らない).その物語と世界設定は,私たちの社会が現在漠然と抱えている複数の問題を,かなり正確に写し取っていた.したがってこの作品は,狭い「アニメ界」を超え力を持ちうるものだ.
その魅力について,二つだけ具体例を挙げておく.第一に使徒=天使エンジエル.別欄に記したように,それは極めて抽象的で変幻自在な,ほとんど観念的な「敵」だ.この設定は,登場人物たちの危機感から具体的イメージ(ゴジラのような)を奪い,そのリアクションを不可避的に空転させる.例えば,主人公シンジは「逃げちゃダメだ」と幾度も自分に言い聞かせる.しかし何が彼にその緊張を強いているのか,実は彼自身が一番分からない(幾度も反復される「何故エヴァに乗るのか」の問い).いわば『エヴァンゲリオン』は,「対象なき不安」と,そこから帰結する空回りの,しかしリアルな緊張感を描く物語と言ってよい.現在その類の感覚が蔓延しているのは,オウム真理教事件(彼らの処理は単に愚かだが)とその反響を見ても明らかであり,この点で時代性が高い.ところでここでさらに注意すべきなのは,そういった不安感はつねに,一方で唯物論的に決定されつつ,にもかかわらずその中にいるものにとっては抽象的にしか感じられないという逆説を抱えているということだ(精神分析の問題).庵野が描くべき不安は優れて90年代的なものでありながら,同時に普遍的なものとして提出されねばならない.結局作家の実力は,その逆説をどこまで物語上で仮構できるかに尽きる(例えば,カフカの官僚機械とはそういうものだった).抽象性と物質性を兼ね備えた使徒=天使の設定/デザインは,この点でかなりいい線まで行っている.少なくともそれは,『ヒュウガ・ウイルス』における村上龍の試み(彼がウイルスに求めたものもまた,その逆説を表現する装置に他ならない)を超えている.実際,使徒はウイルスの形態も取るだろう.
第二の例.副主人公,綾波レイ.感情の起伏がほとんどなく,他者への関心と死への恐怖が完全に欠如したこの少女は,声優(林原めぐみ)の抑制された演技のせいもあり,非常に印象的なキャラクターに仕上がっている.一人住まいの彼女の部屋は廃墟化した巨大団地の一室なのだが,そこには全く装飾がなく,壁はむきだしのコンクリートで床には下着やゴミが散乱,カーテンはいつも閉められたままの状態だ.机の上には包帯と大量の薬,ビーカー,付箋紙が挟まれた厚い洋書が置いてある.彼女は外からそこに,ただ寝るためだけに帰る.ポーランド出身のある友人は,レイがpost-war children,つまりボスニアその他の問題を連想させると全く正しい感想を述べていたが,と同時に僕は,彼女の部屋の光景に古い大学の理系研究室棟,特に医学部のそれを重ねていた.庵野はそこで,難民/外傷のイメージと理系的――としか言いようがない――反装飾性のモチーフを交差させている(つまりこれもまたオウムの問題,より正確には「サティアン」の問題に連なる).徹底した即物性に支えられたこのレイの孤独は,現在の子供たちチルドレンが直面するディスコミュニケーションに対し,宮台真司らが強調するコギャル的自閉にも,またそれと対照的に仮構されたオタク的自閉にも属さない(その二つはポストモダン的装飾性の両極に過ぎない),遥かにリアルなイメージを与えてくれる.
この時期の『エヴァンゲリオン』は救済の物語を志向している(evangelだから当然だ).話の焦点は,いずれも自閉的に設定された4人の登場人物が,それぞれコミュニケーションの回路を開いていくプロセスに置かれている.その肯定的方向性のみならず,上の2例からも分かるように,所々に織り込まれた物語装置とイメージの巧みさは,それがいかにも95年的作品だという印象を与える.実は,これ自体事件だ.思えば80年代後半以降,蓮實重彦と高橋源一郎がかつて対談で述べたように,日本文学には「○○年的作品」がすっかり存在しなくなっている.それ以来,物語構造の年代的展開がない.言い換えれば私たちの物語的想像力は,いまだ,80年代前半に作られ,蓮實が『小説から遠く離れて』で示したフォーマットから抜け出していない.僕の考えでは,その不毛性は社会の変化とは無関係だ.それは単に,文学者たちの想像力の貧しさに起因している.『エヴァンゲリオン』の出現は,そのことを改めてはっきりさせたと僕には思われる.庵野が提出したいくつかのイメージ,使徒にしろ綾波レイにしろ,これと匹敵する同時代的イメージ=物語装置を僕は久しく見ていない.
これはまたジャンルの問題でもある.前述の3人と異なり,庵野には「アニメ的なもの」への躊躇が一切ない.恐らくそれは世代的差異でもあろう.41年生まれの宮崎や51年生まれの押井が持っていたアニメ的=オタク的想像力への警戒感,あるいは文学的想像力への憧憬を,60年生まれの庵野はいささかも持ち合わせていない.庵野の履歴を見ると,彼が80年代,オタク文化の最も「濃い」現場を歩んできたことが分かる.彼はアニメジャンルの不毛さにずっと付き合ってきた.『エヴァンゲリオン』ではその鈍感さが有利に働いている.押井の『攻殻』がサイバーパンク(文学的想像力)を参照することでかえって時代遅れになったのと対照的に,『エヴァンゲリオン』での魅力的=同時代的なイメージはむしろアニメ的想像力から生まれている.今までアニメの不毛さを強化してきた美少女やメカといったモチーフは,そこでは逆に,そのステレオタイプ性と抽象性によって90年代的問題を表現するため不可欠な要素に変えられているからだ.そもそも『エヴァンゲリオン』は,エヴァ操縦席のデザイン・コンセプトからビールの銘柄に至るまで,あらゆる細部が過去のアニメやSF,映画からの引用で成立している極めてオタク的な作品でもある(ここではその側面には特に触れないが,それはそれで重要だ).つまり庵野はそこで,ここ十数年一貫して不毛だったアニメ的想像物を強力にリミックスし,そのことにより80年代文学的想像力を突き抜けたとも言えるだろう.
『エヴァンゲリオン』のO Pオープニング画面には,(例えば)第24話で初めて登場する人物のカットがすでに挿入されている.無数にあるこの類の仕掛けは,庵野がある程度明確な全体構想を抱き,その放映を開始したことを意味する.実際,冒頭数話における物語の展開スピードや無数の伏線は,それが緻密な全体構想からの逆算で作られたことを示すものだ.前半諸エピソードのテイストはほぼ一貫している(第8話以降のコミカルな数話も,僕の考えではその一貫性内に収まる).その物語はアニメジャンルを再生し,同時に文学的想像力の限界を明確にするものだった.上に述べたように,この段階ですでにそれは事件の名に値する.したがってもし仮にこの作品がそのまま継続され大団円を迎えていたとしても,僕は今ここで『エヴァンゲリオン』を紹介していただろう.その価値はある.
だがにもかかわらず,僕は今,この作品は,むしろ主にそれとは別の水準で評価されるべきだと感じている.その評価は,物語内容とはとりあえず切り離される.僕がこの作品の存在に衝撃を受けたのは,その水準があったからだ.前半エピソードと『エヴァンゲリオン』の初期設定は,庵野がいかに物語作家として優秀(この語が適切だと思うが)かを十分に示している.繰り返すが,その優秀さにすら現在の多くの小説家は拮抗し得ていない.しかし恐らくより重要なのは,庵野がこの作品を途中で崩壊させたことのほうである.庵野はアニメを再生させた.しかし同時に彼はアニメへ終止符も打った.わずか半年間にそのプロセスが凝縮されたということは,驚くべきことだ.そしてその凝縮された崩壊プロセスのなかで,庵野は作品前半での水準をより押し上げる――別の方向にではあるが――ことに成功した.ここに本当の事件性がある.
後半.別欄に記したように,庵野はそこで救済の物語,ハッピーエンドを突然放棄し始める.それはつまり,アニメ的物語の放棄ということだ(実際この時点で,『エヴァンゲリオン』はアニメファンの不興を急速に買い始める.彼らは登場人物が不幸になる話に耐えられない).したがってその選択は必然的に,構図や演出においても「アニメ的なもの」からの逸脱を引き起こすだろう.ほぼ第16話を境にしそれ以降の展開は,その逸脱が徐々に過激化する過程として捉えることができる.その延長線上に最終2話,つまり物語そのものの完全な放棄とメタフィクション化があったのは,したがって必然だった(実は最終2話での徹底した空虚感には第三の事件性が隠れているような気もするのだが,ここでは紙面も限られているので,それには触れないでおこう).
庵野自身の言葉によると,この態度変更は制作中に行なわれた.『エヴァンゲリオン』はアニメファンの間で熱狂的に受容された.その熱狂の自閉性に気づいた彼は,作品全体の構想を変更せざるを得なくなったと言う.放映終了後,庵野はアニメ専門誌やラジオ・インタヴューでほとんど自虐的にアニメファン批判を繰り返すことになるのだが,そこでの彼は,実は宮崎や押井の履歴を見事に反復している.その二人もまた,アニメファンの間で圧倒的成功を収めた後,その自閉性への嫌悪から「アニメ的なもの」から離れた作家だったからだ.ただ,彼らと庵野は二つの点で決定的に違う.まず第一に,『エヴァンゲリオン』においては,アニメ的なものへの沈潜とそこからの離脱がほぼ同時に起きている.宮崎であれば『ルパン三世・カリオストロの城』(79)の成功から『トトロ』まで,押井であればテレビ版『うる星やつら』から『パト2』までほぼ10年かかったその推移が,庵野においては恐ろしく圧縮されている.第二に,多分その圧縮の必然的帰結としてだが,宮崎と押井において(いわば)排除の論理で遂行されたそのアニメ批判は,庵野においては増殖と加速化の論理で行なわれている.『エヴァンゲリオン』後半は,アニメ的表現−物語可能性をぎりぎりまで展開すること――つまり徹底してアニメ的であることにより,既成のアニメ作品への批判であるような形式を取っている.簡単に言えば,庵野はそこで単に超高速で超複雑なアニメを作り,そのことで質的変化を到来させているわけだ.90年代の救済物語のため作られた諸設定は,急速に反転し,登場人物相互のコミュニケーションをずたずたに引き裂くため用いられる.そしてそれは,庵野にとって,(登場人物に感情移入することでしか作品を鑑賞できない)アニメファンとのコミュニケーションを切断することでもあった.
後半の庵野は妥協がない.通常数話を要するエピソードを,彼は,早いシーン転換とわずか数コマのカットの多用(アニメーションではこれは非常に贅沢なことだ.コンマ数秒のために新たな作画が必要なのだから),演出上の省略と難解な台詞により一話に凝縮してしまう.例えばレイはほぼ2分で死ぬ(第23話).その速度には圧倒される.と同時に彼は,また他方で,前半で一度明かされたはずの作品世界上の謎をつぎつぎ反転させていく.それゆえこの時期の諸エピソードは,一回見ただけでは,もはや物語を追うこともおぼつかない(これはつまり,庵野がテレビ放映という媒体,またその時間帯から予想される視聴者の年齢を完全に無視したことを意味する).にもかかわらず『エヴァンゲリオン』後半は,物語説明とは別の次元で,その圧倒的緊張感と,登場人物たちが次々死に傷ついていく悲惨さを伝えることにかなりの程度成功している.それは何故か. 『エヴァンゲリオン』後半は,前半が備える複雑な伏線の整合性や,世界設定のSF的疑似合理性を徐々に失っていく(路線変更があったのだから当然だ).しかし構成が杜撰になったわけではない.代わりに,奇妙な必然性と緻密さが浮上する.例えば第22話で,衛星軌道上の使徒をエヴァが特殊な槍を投げて倒すという,それだけ聞けば訳がわからないストーリー展開がある.作品内でもその合理的説明はされない.しかし確かにその展開は,シーンの流れの中では,ある必然性を持ち得ている.物語装置とは独立して存在するその「必然性」こそが,『エヴァンゲリオン』後半の真価だ.それが,緊張と悲しみを伝えることを可能にする.その必然性はどこから来たのか.それを問うのは難しい.ただここで注意したいことは,それが,物語=ジャンルの(再生と)崩壊の過程と結びつき出現していることだ.この時期の庵野は,何か普遍的な問題に触れている.
あえて言ってしまうが,第17話から第24話まで(より特定すれば第18,19,22,23話)で頂点に達するその凝縮された展開には,幾度かゴダールを思わせる瞬間がある.映画の質それ自体についての話ではない.またそれは,庵野がゴダール作品のパロディや引用を試みたことも意味しない.ステレオタイプ化した「ゴダール的イメージ」を借りることは誰にでもできる(庵野自身も無論そういうことは行なっている.例えば字幕の頻繁な使用).問題はより抽象的なことだ.阿部和重に尋ねてみたところ,彼は,問題は,その時期の庵野の演出・編集が持つある種の「密度」なのだと述べていた.その凝縮度,そこから必然的に引き起こされる緊張感こそが確かにゴダールの方へと向かう.アニメというジャンル規則=物語が転倒するぎりぎりのところでそれを高速回転させること,意識的かどうかはともかく,庵野はそのことに奇跡的に一時期成功していた.僕が「ゴダール的」と名指したいのは,そのぎりぎりのバランスである.そしてその緊張が,『エヴァンゲリオン』後半の物語としての感動を支える.物語の崩壊こそが別の物語的感動を生み出すというその反復的ねじれもまた,すぐれてゴダール的ではなかったか.
(あずま ひろき・表象文化論)