InterCommunication No.16 1996

Feature


3――療育とアート

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彦坂――外国のチルドレンズ・ミュージアムなどで,例えば,近接した病院やセラピー施設が付属しているという例はあるんですか? クリーヴランドにあるヘルス・ミュージアムというのは聞いたことがあるのですが.

大月――ノース・カロライナにヘルス・アドヴェンチャーとか,身体をテーマに据えたミュージアムはいくつかありますが,病院やセラピーとの関係はよくわりません.アリゾナのツーソンにあるチルドレンズ・ミュージアムは健康に関する研究所と関連があります.身体のことに関して学べるようにはなっていますが,ただ,すべての展示とリンクしているわけではありません.そこはすごく素朴なミュージアムで,子供が生まれてくるところを,それこそ人体模型で学ぶとか,メキシコの片田舎にあるような診療所が作ってあって,子供たちが医者や看護婦や患者さんの役になって器具を使ってみるとか,そのような感じの展示で構成されたところです.

森岡――アメリカにはNIADという障害者の芸術活動を支援する組織がありますね.これは子供じゃなくて,主に知的障害を持った中高年,きちんとしたケアのない施設に長い間放り込まれていたような人たちを対象としているようです.

大月――精神的にダメージを受けている人たちですか?

森岡――そう.これはカッツさんという心理学者の夫婦――奥さんはもう亡くなったんですけれども,彼らが西海岸で始めた組織で,ギャラリーも付属するワークショップ・スタジオを持っているんです.それが全米に展開していて,専門の客員アーティストが知的障害者に絵画やテキスタイルや陶芸などの指導をしています.カッツさんによると,アメリカにはこの種の団体が他にいくつもあるようですね.ギャラリーではもちろん展覧会もさせるし,その作品を売っています.わりとアメリカではその種のナイーヴ・アートが売れるようですよ.
 絵画1点の値段を聞いてみたら,高い作品だと50万円前後で取り引きされる.その収入を生活の糧にしている障害者もいるようです.アメリカにはプリミティヴ・アートやナイーヴ・アート専門のギャラリーやミュージアムがいくつかありますから,そういうところにも貸し出すみたいです.

大月――きっと,いままでケアの対象から外れていたんでしょうね.

森岡――ええ,中高年の知的障害者についての芸術的なケアというのは,いかなアメリカ社会でも実はこれまで盲点になっていたんじゃないかという気がします.日本だと,京都にみずのき寮という京都市立芸術大学の先生が30年前に作った療育施設があって,そこの寮生たちの画集も出版されていますが,作品としてすごくレベルが高いんです.僕の勝手な分析ですが,知的障害を持っている人たちの作品,特に絵画作品をたくさん見ると,確かにいくつかのパターンが存在するようです.それはおそらく,人間の知覚とか認識能力の発達過程に潜んでいる何かを表象しているのかもしれないですね.例えば,形象の細かな反復が多いとか,ある形態の輪郭をどんどんその外や内に広げるとか,面を色で埋めるときにはどうするっていうように.だから,そこに特定の型を見つけると,要するに限定されたパターンだけで成りたっているイメージなんだから,個的な表現としてはそんなにレベルの高いものはないと普通は見なされますよね.しかし,30年もの間培われた独自の教育システムになると,そんなパターンの多様性の大小にもとづいた価値観を払拭してあまりあるような表現が確立されてくるのだと思います.
 もう一つ,大阪に障害者アート・バンクというのがあって,これは確か電通がサポートしていたと思いますが,障害を持つ人たちが描いた絵を,例えばポスターだとかいろいろなパブリックな情報宣伝物なんかに使うと,クライアントからその使用料が彼らのところに支払われる仕組みなんです.そういうケースは外国にもいくつかあります.だから障害者の趣味・教養の世界を超えた,経済的な自立のシステムの一環として彼らのアート活動が定着することが望ましい.

彦坂――だけど親がケアしていくことが多いじゃないですか.ケアと言えば聞こえはいいんですけれど,囲い込みに近いものがあるんですね.

森岡――絵画などの美術に限定してみても,彼らの周囲でそれをケアしたり教育している人の大半は,養護学校の教員ではあっても,正規の美術教育を受けた人ではない場合が多いようです.それに,教育というより生活習慣のアドバイスに近い指導内容なんじゃないかな.

彦坂――系統進化と個体進化の関係のように,アートの開発過程が圧縮されて顕在化していくような,その途上の段階が露出していくようなところはあるんですか?

森岡――素人判断だけれども僕はあると思います.先のカッツ博士の講演会で,60歳ぐらいの知的障害を持った老人がNIADに来て初めて描いた絵から,3年後の絵までの変化を見せてくれたんですが――もちろんそこではレジデンス・アーティストがいて,ちゃんとケアがなされているわけですが――ものの見事に変化していておもしろかった.最初の絵はとにかく,形を作るということが理解できない人だから,ベタっと絵の具を一面に塗ったようなものですね.そこに線が芽生えてきて,一本線を描く.次は線を何本も反復していく.線の密度を上げていくことで面を作る.このプロセスは,かつて発達心理学者のワロンらが分析した児童画のプログレッシヴ・タイポロジーとかなり密接な関係にありながらも,明らかに子供のそれとは違う性質を持っているようです.このことは,美術とかアートに関わる人なら関心を持たないなずがない.
 先の少年の作曲の例で言うと,最初,眼の動きを関知するセンサーとマッキントッシュとを結びつけて,ペンタトニックの音列をランダムに発生するソフトを前林さんがテスト的に作った.それを初めて試しているとき,ドクターのどなたかがその様子を見て,「ああ,この子の初めてのクーイングだ」って感慨深げにおっしゃったんです.クーイングというのは,生後数カ月の赤ん坊が,ただ泣くだけじゃなくてクックーッていう言葉ならざる声のようなものを発する,あの行為のことです.それがやがて言語獲得へつながっていく,その直前の段階ですね.詳しくは知りませんが,鏡像段階の音声版みたいなものなんでしょうか.その子は声は発せませんが,目を動かしたことに対するコンピュータからの直接的な音のリフレクションを,自分の行為が産んだ結果であることはもちろん理解している.つまらないメロディだとすぐに眼を動かして音を止めちゃうし,おもしろいと感じたら何度も何度も聞いているわけですから.コンピュータを介して初めて声を発したという,そのドクターの類推解釈は,たしかに感動的な洞察ではあるんですが,それ以上にアート・プロパーの側としては,機械的に媒介された発語を身体表現と同様に見なすことができるかどうかという,おそろしく根源的な問いかけを不意に突き付けられきたことに対しての驚きのほうが大きかった.
 こんなふうに,身体コミュニケーションの機能に障害を持つ人たちの自己表現や語りのプロセスを理解したい,分かちあいたい,あるいは支援したいという気持は,何度も繰り返すようですけど,その実践を通じてむしろこちら側のコミュニケーション,あるいはディスコミュニケーションの問題を映しだす一種の鏡になるという意味で,アーティストにとっても大変貴重な経験になるのではないかと僕は思います.

彦坂――身障者の場合,その表現ができず,それをテクノロジーが介するということは,ある種テクノロジー・エイドとかアーティスト・エイドみたいな話で,まず受信の問題がないとそれがディヴェロップされない.昔モンテッソーリというイタリアの教育学者が,ディヴェロップメントっていうのは普通は開発と訳されているけれども,いま見えないものを,何らかのアクションを加えることによって目に見えて花開かせることだと言っていますね.だから写真の現像もディヴェロップメントです.しかし写真の場合は,写らない限りは現像されないわけで,写っている行為は受信的な行為ですね.だから世界に窓が開かれていないという問題がものすごく大きくて,それはべつに身障者の問題だけではなくて,われわれの普通の環境からしても実は全然開かれてなくて,何やっているんだろうっていうところはすごく大きい.

森岡――コミュニケーションは単純なキャッチボールとしてあるといった認識が一般的には存在するけれども,まさしく彦坂さんがおっしゃったように,未現像のフィルム上の潜像みたいなものを,ディヴェロップしアクチュアライズするということも,コミュニケーションの一つのモードなのではないかと考えるんです.無論,そこには的確な方法論を設定することも重要でしょう.いずれにせよ,潜在的な像を持っているのが,たまさか目の見えない人なのか,いわゆる健常者なのかの違いがあるだけで,健常者に視覚障害者の知覚モードが見えないのならば,ディヴェロッパーとしてのコミュニケーションの概念それ自体を社会や個人が変えればよい.
 よくシュタイナー主義者は,子供っていうのは種子みたいなもので,何かを付加するべきではなくて,あらかじめすべての形質がそこに含まれてしまっており,それを発芽させていくプロセスの管理が社会や教育の役割であると言います.たしかシュタイナーはダウン症にこだわっていたんじゃなかったでしょうか.ダウン症の子供を天使になぞらえるけれど,ようするにダウン症特有の身体的特徴が人種を超えて確認できるというその遺伝人類学的な事実に,胚種としての人間の普遍性を覗き見ていた.ミュージアム・ワークショップに方法論的な思想が必要かどうかは実のところ少々疑問ではあるのですが,知識や体験の外的な添加,押しつけではなくて,そうした意味でのディヴェロップメント(現像)の倫理というのは,やはり基本線として引いておく必要がある気がします.

大月――種子の話は面白いですね.ワークショップでは,それぞれがため込んでいたものを,取り出せるような設定をします.取り出すためのきっかけ作りがワークショップなんじゃないかと思うんですよね.それぞれ全然能力が違うし,持っているものも違うかもしれない.つまり,人の数だけいろいろな形や大きさの種があるわけです.どんな植物になるかはわからないけれども,種にはそれぞれが遥か昔にため込んだあげく忘れ去っていたものまでもきちんと残っています.そのことに気づくことはすごく大切だと思います.自分の能力に気づいて自信を持つ.自分を好きになる.他者の能力にも気づき,尊敬する.実際,自分は何もため込んでないというふうに思ってしまうことってすごく多いじゃないですか.

森岡――そう,だからよくワークショップに参加する人たちは,私にはなにもないから教えてもらいに来ましたって.

大月――ええ.そうじゃないっていうことに気がついてもらうシステムっていうのがワークショップですよね.


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