InterCommunication No.15 1996

Feature


ミュージアムの普遍性

存じのように80年代の初め頃から,美術館ブームでボコボコと新しい公立美術館ができました.それから当然スキャンダルも含めていろいろ問題も起こりましたが,問題が発生する原因には,たとえば針生一郎さんなどが指摘するように,日本では,市民ギャラリーとミュージアムの区分がきちんと一般の人たちに認識されていないことにあると言えるかもしれません.
の区分とは,地域住民に開放される単なる貸スペースであるギャラリーと,地域を超えた,歴史的世界的に評価された美術品を地域の人々に紹介するミュージアムとは,機能が異なるという理屈です.たとえば美術館に関わるトラブルはたいがい,「なぜ,こんなわけのわからないものを市民の血税を使って購入して,展示するのだ」というクレーム,それから「地元在住の作家たちにギャラリーを開放しろ,地元作家たちの活動を支援しろ」という要望が続くのがよくあるパターンです.しかしそれに対して,美術館は単なる地元サービスの機関ではなく,もっと高尚なものだと言っても,いまや簡単に通用しない時代になっている.つまりミュージアムが標榜する,世界的歴史的普遍的といった「芸術」の価値は,必ずしも地元市民を説得できるほど,その根拠も正当性も保証されてないし,説明できる能力を持った人間も論理も,いまやどこにも見当たらない.
こにある対立は,ミュージアムがリプレゼントするはずの普遍的な価値,つまりは「芸術」と呼ばれるような大文字の「パブリック」な価値と,現実的経済的に美術館という施設を支えている行政が代表する,住民あるいは国民の,いわば閉じた枠内の現世的価値で測量できる権益,いわば小文字の「パブリック」――公共的価値と呼ばれるもののギャップです.
政という単位は公共をリプレゼントするひとつの機関ではあっても,あくまでも,それが代表する公共性は一時的で限定された地域の権益にすぎない.行政は,こうしたテンポラルでローカルな条件に縛られている.あからさまに言えば選挙や税金という仕組みによって束縛されているわけです.
方,ミュージアムがリプレゼントするはずの「公共性」,ないしその価値は,特定の場所や時代にも限定されていてはいけない,どのような場所や時代にも属していないことが条件ですが,この開放性はあくまでも理念的にしかありえない可能世界のようなもので,それが現実に展示されるときには,可能な作品群のなかから,特定の作品だけしか選ぶことも展示することもできないわけですから,どうしても特定の時と場所という現世的な条件を伴ってしか表象しえないわけです.そして当然,その現世的一時的な選択の理由は,普遍性という価値理念だけでは説明しきることができません.
わば理念的な存在である「芸術」――こんなものがあるのかどうかわからないのですが――が,現実的に世に現われるときの条件――なぜ「現在」「この場所」で,その作品が展示され,購入されなければならないのかという,非常に一時的で世俗的な現われ方,その様相をいかに説明したらよいのでしょうか.学芸員とはいわば,その解説者――理念的な世界と世俗的な世界の媒介者の役割を果たすものなのでしょう.彼らが使う理屈は,美術史であり,美学であったりするわけだけど,基本的にその高尚な理屈は,「芸術」という感知しえない普遍的な価値を,美術館を訪れるいわゆる一般の人々のヴァナキュラーで素朴な感想に結びつける,いわば啓蒙の役割を果たすという大義名分を覆う虎の皮でしかない.
かし,ご存じのように,いまや美術史や美学は,その唯一性を保証するための役割を果たせなくなった.その直線的な進歩史観やら,予定調和的に構造化された美のヒエラルキーなどの記述の背後に隠されたイデオロギーが攻撃されている時代なわけです.
ういう流れもあって,さきほど述べたようなキュレーション,企画の重視というのが出ている.企画というのは,常に「今なぜこのテーマか」という非常に俗受けする――まあやってる本人たちは俗受けすると思ってはいないのかもしれないけれど――,その時点でもっとも大衆の共感に訴えかける正しそうなテーマが選ばれるわけですね.たとえば,それは「原爆」とか「ジェンダー」とか「アイデンティティ」であり,みんなの共通の関心,悩みをテーマにする.しかし展覧会を見ても,その問題に対する新しい視野が開かれたり,答えがひとつでも見つかればいいが,まったくそういうことはない.作家にしても,この了解されやすいテーマに付き合わされることで,蔡國強,インゴ・ギュンターであれ,柳幸典であれ,ロバート・ロンゴであれ,誰が作ったかわからないような誰でも同じような作品になってしまうわけですね.ともかくテーマも含めて,その展覧会の効果が,現在の地点でてっとりばやく換算できないとやっていけない時代になってきているということです.さきほど言ったように,これは美術館がもともとの姿,広告代理店や新聞社の持ち込み企画への依存,あるいはテキ屋の元締めと同等な姿に再び戻ったということです.
り返すと,問題はいかなる時間や場所にも属さず,自由な連結を可能にするパブリック・ドメインとしてのミュージアム――これはあくまでも可能世界に関わります――と,その一時的なリプレゼンテーションとしての展示,つまりギャラリー空間のズレの問題です.ミュージアムが普遍的な理念をそれこそ無媒介的に現前させるなんてことを信じる人はもういなくなり,そうすると,すべてはリプレゼンテーションの事後的な効果に還元されてきたわけですね.

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