ICC





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アーティストトーク
 
1999年5月25日(火)〜6月13日(日) [終了しました.] ギャラリーD





はじめに


ソー・ドホの新たな試み

これまでソー・ドホはインスタレーションを中心に制作発表してきた.最近作としてあげられるのは,ニューヨークのブルックリンのメトロテック・センターに展示された野外彫刻作品である.この作品はこの地域のためのパブリック・アートのプロジェクトの一環として企画されたものであり,1998年の10月から1999年5月まで同地区に展示されている.

何ものっていない彫刻の台座をたくさんの小さなフィギアが支えているというこの作品は,権力の栄光を顕彰するような彫刻やモニュメントが担ってきた役割,あるいはその意味を問いかけるアイロニーに満ちたものである.ソー・ドホの作品のテーマには社会性がしばしばみられ,さらにこうした社会との関わりを問うことによって,自己のアイデンティティーの問題に目を向けようとするのが,彼の制作に対する一貫した姿勢といえる.

さて今回ICCにおいて発表されるヴィデオ・インスタレーション作品《SIGHT-SEEING 》でも,それは変わらない.特に今回は,初めてヴィデオを使い,韓国人である彼の視点と彼の遭遇する異国「日本」を映像として表現する意欲的な制作が試みられている.

この作品のために,ソー・ドホは特別に開発した2ウエイ・ヴィデオ・カメラ・システムを用い,映像を記録した.この二つのカメラは,一方は自分の見ている「対象」に,一方はその対象を見る「主体」の表情に向けられ,これらを同時に録画する.作品ではこの二つの映像をシンクロナイズさせながら投影している.

まず観客が興味を惹かれるのは,典型的な日本観光や日本食の登場する,いかにも旅行者の撮りそうなホーム・ヴィデオ的な「対象」の映像だろう.ここにはアーティストが異国で遭遇した「出来事」あるいは「物語」がある.しかしこの典型的なツーリストの映像が,もう一つの映像,すなわち,この「出来事」を体験している「主体」の映像と併置される時,大きな意味の変換がもたらされる.つまり,この作品を見る観客は,単に作者の体験した出来事を追体験する視点から,より客観的な第三の視点へと移行を余儀なくされる.なぜなら併置された二つのスクリーンに「対象」と「主体」を同時に見ることになるからである.

これはある意味での弁証法的な転換である.すなわち,観客は単なる観客であることができずに,対象と主体を同時に認識し得る,第三のより高次な存在へ否応無しに転換あるいは止揚を迫られ,追いやられるのである.この構造の中に取り込まれた観客には,もはや典型的な観光ヴィデオの物語の意味は希薄になるだろう.観客は表面の物語ではなく,この作品の背後に潜む「対象」と「主体」とそれを見つめる観客自身の「新たな主体」という「構造」を発見することになる.この構造の認知こそ,この作品にとって重要なものであるといえるのではあるまいか.

さて《SIGHT-SEEING》が主体を見い出すの契機となる作品であるなら,もう一つの作品《 UNI-FACE》は,匿名性の中に溶解していくアイデンティティーが表現されている.スクリーン・セーヴァーとして制作された映像のひとつは,いくつもの顔が重なり合い,最後にはどこの誰でもない顔に合成される.重なり合う個の存在が,存在しない個のイメージを作り上げる,ある意味では電子情報時代の個の危機と不安,あるいは恐怖がそこに語られているといえるかもしれない.

現代美術のフィールドの中で制作を続けて来たソー・ドホのコンセプチュアル・ワークと批評精神は,時としてメディア・アートが表現手段であるメディアそのものの新奇さに眩惑されてしまう脆弱さに比するとき,重要な意味をもつだろう.ICCがメディア・アートを専らにするアーティストばかりに関心を払う訳ではない理由もここにある.そしてより大きな領域からの自由な参入の場の提供こそ,ICCの存在理由のひとつにほかならないといえるであろう.

(こまつざきたくお/NTTインターコミュニケーション・センター学芸課長)