ICC





はじめに
入場料
展示作品
参加作家
 
1999年3月26日(金)〜4月11日(日) [終了しました.] ギャラリーD





はじめに


ポスト・メディア・アート - パトリック・マルティネズの諧謔

今や,メディア・アートというものは,エンジニアやプログラマやオペレータ,それに運がよければスポンサー等など,アーチストその人が見えなくなってしまうほどにたくさんのカタカナ職の人々と彼らの操る最新機器装置類とにとりかこまれて,なんとも大変なことになっている.
多くの人のコラボレーションは自我を超えて独善を排し,新しい文化のあり方のクリエーションと未来を先取るヴァーチュアルな希望に満ちている.メディアやそれを支えるテクノロジーが全てであるかに輝いてみえるのだ.だが本当は,人々がではなくて,バイナリーな機器がすべてを統制しており,人々はそれぞれに割振られた役割を演じている(ロール・プレイイング)にすぎず,彼らの存在はメモリーの中にも見つからない.彼らはコンテンツのツールにすぎず,彼ら自身をとりもどす攻略本はどこにもないのだ.
自己表現なんてもう古臭いのかもしれないが,技術にしろ芸術にしろ,arsは人間のためでなくてどうするのだ.機器を崇めすぎ,頼りすぎると,アーチストは電子の使い走りに忙しく,表現どころではなくなってしまう.進みすぎて手におえなくなった装置に手を出して,身動きならなくなっているメディア・アートが多すぎる.だから時に,誰の間尺にもあう,目新しくもない日常の機器を,いわば目的外に使いこなしているマルティネズのような作品がかえって変な喜び,新鮮な驚きを与えてくれる.
スライド・プロジェクターが手描きの炎の映像を一定の周期で延々映し出している.そこまでは変哲もないが,画面が替るたびに轟音が響く.
ここになかなかの技術的芸術的工夫が隠されている.プロジェクターは普通,一枚画面を進めるごとに一寸した機械音をたてる.この音を拾いだし,エフェクターで歪め,アンプで増幅して聞かせているのである.
まのびしたテンポで,破壊のリズムが刻まれる.
スライド・プロジェクターとはいえ,今や高級機は自動投影やオート・フォーカスあるいはディゾルヴなど,マイコン制御でそこそこハイテク,侮れないものがあるが,その部分にはまったく目もくれず,無用な雑音だけを手なずけようという洒落っけにほっとさせられるのだ.
ありあわせのテクノロジーによるサウンド・インスタレーション,ブリコラージュのメディア・アートというべきか.
そういえば,タイトルの"Feu"(炎あるいは火)とfou(きがふれて),[fø]と[fu]はわれわれにはほとんど聞き分けがたいし,発音もしわけがたい.げに,マルティネズの炎は意味の呪縛を焼き尽くし,諧謔の中へわれわれを開放する.
同時上映のヴィデオ作品のノンセンスにも,この際ゆっくりと浸ってみようではないか.

中村敬治(NTTインターコミュニケーション・センター副館長兼学芸部長)


系譜 - 新しい可能性について

メディア・テクノロジー系の芸術表現を目指す若いアーティストは決して少ないわけではない.専門的な教育の受けられる美術大学や専門学校もあり,最新の技術に対する知識も教わることができる.学生や若い人達にとって高価だったコンピュータなどの機材も,ひところよりも安価に調達ができるようになったことも事実である.
しかし実際には,なかなか新しい才能に巡り会うことは難しい.これにはいくつかの理由があるだろうが,最大の理由は,彼らが自分の作品の発表の機会を得られないということに尽きる気がする.どのような素晴しいアイディアを持っていても,また優れた作品を制作していても,これらを人々の前に展示する機会を得られない限り,それらは存在しないに等しいだろう.
それはまた同時に内容の向上がはかられる機会をも失わせることになる.なぜなら適切な批評に晒されることがないことによって,技術に寄りかかり,ひとりよがりで貧しい内容に気付かない可能性があるからだ.こうした環境では,たとえそれが力ある作品であっても,その力は停滞し,可能性の芽を奪ってしまうことになりはしないだろうか.今回こうした展覧会を企てた理由の一つにこうした環境を多少なりとも変えていきたいという思いがある.
さて,今回ICCにおいて公開されるシモガワケイの作品も,おそらく人の目に触れる機会がほとんどなかった類の作品の一つであるだろう.昨年の秋東京の藍画廊で発表されたものだが,メディア系のアートに関心のある人でも彼の作品についてあまり知ることはないのではあるまいか.黒い枠に縁どられた12センチメートル角のパネルに,黒い幾何学的な模様が印刷されており,これらのパネルが部屋の壁に規則正しく並べられている.一見抽象的な版画のように見えるパネルの一つ一つは,実はそれぞれが全く別の情報を持つコード化された図形であり,ガン・タイプのバーコード・リーダーでこれらの情報を読み取ることができる.
この場合,蓄積された情報は周期の異なるメトロノームの音である.バーコード・リーダーを照射すると部屋の内部にメトロノームの音が流れると同時に,部屋の中央に置かれた液晶のテレビ・モニターにこの音の波形が現われる.来場者は部屋のなかでこの行為を繰り返す.
この作品の良さは,非常にシンプルな作品のシステム的な着想にあるように思える.情報をバーコード化し,これを読み取るというインタラクション.これはスーパーマーケットやコンビニで日常化した光景であろう.だが,あまりに日常的な行為であるために,このようなテクノロジーの進化の背後で起こり得る,個人と個人の関係の変容やコミュニケーションの在り方など,さまざまな位相での問題について意識することはない.だが,シモガワの作品は,このシンプルな構造によって,日常的には忘却されているこれらを意識化する契機を与えてくれるようにみえる.このシステムは単純であるが故に強さがある.今回の作品展示がシモガワの本格的な作品発表の最初の一歩になるだろうが,できうるならばこの簡潔な構造のままに,多くの異なる作品の構想が企てられ,これから後も新たな展開が示されることを期待したい.

小松崎拓男 (NTTインターコミュニケーション・センター学芸課長)