テレマティックス ポール・サーマン 《テレマティック・ドリーミング》はISDN回線の中に存在するインスタレーシ ョンである.ふたつのインターフェイスが離れた場所に設置され,これらのイン ターフェイスそのものがカスタマイズされたTV会議用ユニットとして機能する ダイナミックなインスタレーションである.両方の場所にはともに1台のダブ ル・ベッドがしつらえられ,一方の場所は暗く,もう一方は照明に照らされて いる.明るい方の場所に置かれたベッドの真上にはカメラが設置され,カメラ はベッドとそれに横たわる鑑賞者/ユーザーのライヴのヴィデオ映像を,暗い 方の場所に置かれたもう一方のベッドの真上に設置されたヴィデオ・プロジェ クターに送り込む.送られたライヴのヴィデオ映像は,もうひとりの観賞者/ ユーザーが横たわるベッドの上に映写される.プロジェクターと並んで設置さ れた第2のカメラは,ベッドに映写されたライヴのヴィデオ映像を,明るい部屋 にあるベッドをぐるりと取り囲むモニター列に送り返す.つまり,このテレ プレゼンス映像は,別の人間の映像の中に自分の映像を映し出す鏡として機能 する.《テレマティック・ドリーミング》は,テレプレゼンス映像の映写面と してのベッドに曖昧で複数の含意を積極的に持たせようとする.複雑な心理的 状況をもたらすこの物体は,地理的距離や一貫したISDN環境に組み込まれたテ クノロジーを消し去ってしまう.こうしてユーザーは,自分の置かれた空間と 時間の外に存在できるという実感を味わうことになるが,その実感を可能にす るのが,ベッドというコンテクストによって強化され,このテレマティック空 間による明確な感覚転換によって引き起こされる不気味なまでにリアルな触感 である.ユーザーの意識は,自分自身を覗き見するという行為によってテレプ レゼンス化された身体内に存在することになる.身体がインタラクションを行 なうことで因果の連鎖が生じて,それによってこの身体固有の空間と時間が決 定される.そしてこのインタラクションをISDNの光ファイバー・ネットワーク によって拡張することで,身体は光速度でどこにでも移動してインタラクショ ンを行なうことができる.《テレマティック・ドリーミング》ではふたりのユー ザーが互いの触感を交換し合い,自分の手を目に置き換えて互いに触り合うの である. |
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《テレマティック・ドリーミング》の成功のおかげで,ドイツにあるZKM(カー ルスルーエ・アート・アンド・メディアテクノロジー・センター)のジェフリー・ ショウと知り合うことができた.のちにショウは私を客員アーティストとして ZKMに招待してくれて,1993年11月に行なわれた「マルチメディアーレ3」に出 品した新しいテレマティック・インスタレーションの研究と制作の場を与えて くれた.このときは自分としては《テレマティック・ドリーミング》からあま り隔たったものにしたくなかったので,結果としてその技術にしても形態にし てもきわめて類似した作品を制作することにしたのである. | |
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《テレマティック・ドリーミング》と《テレマティック・ヴィジョン》では, いずれの場合も鑑賞者/ユーザーは互いに視覚的身振りによってしかコミュニ ケーションを行なえない.音声によるコミュニケーションは不可能である.お 互いは無言のパフォーマーという役割を果たさなければならず,このパフォー マーがいなければインスタレーションはメロドラマ的な可能性をたたえる単な る空っぽの空間にすぎない.アーティストとして私はコンテクストを提供し, ベッドやソファーといったような複雑な心理的状況を生み出す物体を中心に据 えたシステムのダイナミクスをデザインする.そのため作品は極度に緊張度の 高いものとなり,ときには鑑賞者がパフォーマーの役をつとめることをためら うことすらある.鑑賞者はたいてい,最初はどうしても人前でパフォーマンス をするという意識に囚われてしまうからである.しかし,鑑賞者がひとたびパ フォーマーの役割を引き受けると,人前という意識がなくなって,いまやって いるパフォーマンスがテレマティック空間で起こっているのであって,ベッド やソファーの上で起こっているのではないということに気がつくのである.パ フォーマーは,最初に感じていた当惑的状況を意識しなくなってユーザーとな る.自分のこの身体がこの場所で動いていると感ずるのではなく,遠方のテレ マティック空間でインタラクションを行なっている身体が意識されるだけなの である.ここにはある種の高次の自己知覚が展開されている.パフォーマーと しては現実の身体は内側からしか眺められない[感じ取れない]が,ユーザー としてはテレプレゼンス化された身体は遠方から眺めることができる.こうな ると,自我を現実の身体へ連れ戻すことは,初めの時点で自分の身をベッドな りソファーの上に置くことに劣らないくらい難しいことになるとともに,現実 の空間とテレプレゼンス空間の両方で同時にコミュニケーションを行なうこと もほぼ不可能になる.《テレマティック・ドリーミング》と《テレマティック・ ヴィジョン》は結局,次のことを明らかにしてくれる.すなわち,私の身体は インタラクションが起こるあらゆるところに存在し,私の身体をテレプレゼン スすべく選択したあらゆる場においてインタラクトすることが可能だというこ とである. |
身体と空間のトポロジー 草原 真知子 身体は通信によって運ばれ得るものなのか.仮想空間に横たわる,あるいは腰 掛けるヴァーチュアルな身体は,存在のどのレベルにおいて現実のものとして 感じられるのだろうか. われわれはこのところ,あやふやな映像や記号に溢れた電子空間や,視覚ばか りが支配する仮想空間に疑問を抱き始めているのだと思う.映像とテキストと 音を自分で操作できるというだけのマルチメディアも,もっぱら視覚に頼る (それも現状ではきわめて不満足な状態で)ヴァーチュアル・リアリティも, まだその売り文句には程遠いまま,満足な速度で画像さえ送れない通信システ ムに乗り込もうとしている.皮膚や死体に対する異常なまでの関心の高まり, 物理的な身体性への回帰の欲望は,実体の伴わない電気信号のつくりだす映像 の被膜への不信感なのではなかったか.そうした中で仮想空間上で身体の持つ 意味を問うとすれば,それは単なる感覚の置換あるいは視覚による触覚の代替 以上のものを提示できるのだろうか. TV会議システムという情報化社会におけるビジネスの象徴のような装置は,ポー ル・サーマンの手にかかるときわめて逆説的な代物となる.そこでは,現実に は存在しない共有空間を商談のような現実的で実際的な目的で満たす代わりに, 言葉抜きの身体的接触や身振りというもっとも原始的なコミュニケーションあ るいは欲望の形態が,親密で個人的なあぶない関係を見知らぬ他人の間に,曖 昧かつ一時的につくりだす.相手を選ぶことさえほとんどできない.物理的に 近くて遠い,たぶん現実には会うことさえない相手とのスリリングな関係はパ フォーマンスの間だけしか続かない.それは日常性の空間にちょっとだけ穴を 開けて,その間をISDN回線でつなぐようなものだ. |
見慣れたTVモニターの中の光景と現実とのオーバーラップは,それら日常の風
景の持つ意味を脱構築していく.《テレマティック・ヴィジョン》では,TVの
正面に座ってひとりで画面を眺めるカウチポテト的状況が,クラシックなデザ
インのソファーに並んで腰掛け,TVを見ながら肩に手を回すカップルあるいは
家族のだんらんという,一昔前のアメリカのホーム・ドラマに出てきそうな光
景にすり替わる.しかし,ここで懐かしいスウィート・ホームを演出するTV会
議システムは,家庭とは対極のビジネス・ツールであると同時に,TVモニター
に別の意味を与え,家族だんらんの風景を滅亡させたTVゲームの同類でもある.
TV会議装置を使った一連の作品(ほかに《テレマティック・セアンス》がある) の中で《テレマティック・ドリーミング》のインパクトが最も強いのは,ベッ ドという誰にも共通の記号が持つ異化効果にほかならない.初めて会った相手 とベッドに入るというTVドラマでおなじみの状況は,自分あるいは目の前のほ かの観客(=パフォーマー)が当事者であるという事実によって観客を当惑す べき事態に追い込む.観客は舞台あるいはカメラの前でベッド・シーンを演じ る俳優,あるいは他人の行為を覗き見る窃視狂の立場に立たされる.公開の場 における密室的な行為であり,その公開の場とは現実に存在しない仮想空間で ある.さらに,唯一のコミュニケーションの手段が身体であるにもかかわらず, 相手の身体は幽霊のように実体がない.このような矛盾した状況が観客を混乱 させると同時に,日常の制約と論理から解き放ち,記名性や身体の生理的環境 といったさまざまな要素をばらばらにしたうえで,コミュニケーションにおけ る身体の役割を実験し,楽しむことを可能にする.ヴァーチュアルであるから こそ成立する演劇的かつ日常的な空間である. サーマンは,物理的身体性と実体のない電気信号が飛び交う情報空間との間で 日常の感覚や意味を逆転させ,コミュニケーションの本質について考える機会 をつくりだす.仮想空間の中でショッピング・バッグを抱え,三次元マウスで つまみあげた商品を買い込んでみても,それは現実の経験の代替品でしかない が,アーティストは人間をその日常的制約から解放し,自分自身について何か を発見する場をつくることができるのだ. (くさはら まちこ・CGアート) |
パフォーマンスを終えて ポール・サーマン 自分のインスタレーション作品である《テレマティック・ドリーミング》でパ フォーマンスするのは,いつも気乗りがしない.私自身は,観客がそれをどん な風に体験するか眺めている方がはるかに楽しいのだ.なにもパフォーマンス そのものに飽きたというわけではない.だが,ギャラリーや展覧会場という公 共の場所で実際にできることは限られている.そこへいくと,新しく会場にやっ てきた人はそこに新鮮な発想を持ち込んでくるし,新鮮な雰囲気を作り出す. いつも最高にワクワクするのは最初の5分間だ.このインスタレーションで一 体どんなことができるのか,観客たちが学びとり,完璧に把握していく様子が, この5分の間に見届けられるのだ.実は私がパフォーマンスをする理由は,自 分で試してみる勇気のない引込み思案な観客ばかり,という場合があるからに すぎないだけで,実際こういう場合の方が多い.それもそうだ,ベッドという のはきわめてプライヴェートで内輪の空間なのだから.つまり,私の役目はパ フォーマーというより,指導員とか講師みたいなものだと思っている.パフォー マンス中,ベッドの周りに大勢の人が集まると私は必ず中断して,誰か自分で もやってみませんかと尋ねる.そうすると,自分が教えることのできなかった 新鮮な何かを必ず学ばせてもらえるのだ. |
私と一緒に仕事をしてくれたソノコ(武田園子)とアキラ(春日聡)というふ
たりのアート専攻の日本人学生はみごとな繊細さを表現し,まるで振付けされ
たダンスを踊っていくような関係ができた.終いにはこのインスタレーション
に溶け込んだふたりを,そこから引き離すのが難しかったほどだ.最初の5分
間が過ぎ,ひと通りを飲み込むプロセスが終わると,今度はテレマティックな
空間体験に自力で潜り込めるようになる.恥ずかしさはだんだん消えていく.
もちろん,ふだんとは別の空間にいる自分の身体を別の視点から理解するよう
になるには相当の集中力を要する.だが,いったんベッドに上がると,今度は
そこを離れ,ふだんの自意識を取り戻すまでがまた大変なのだ.
《テレマティック・ヴィジョン》ではパフォーマンスはまったく必要ない.ソ ファーを使っているからだ.この空間の観客ははるかにリラックスしている. 結局,《テレマティック・ドリーミング》からパフォーマンスを外したのも, このインスタレーションにヒントを得てのことだった.私がいない方がはるか にうまくいったし,私自身も,ユーザーである観客からはるかに多くを学んだ. というわけで,ベッドで同じことをしてみようと決めたわけだが,これが一筋 縄ではいかない.1992年にこうしたテレマティックなプロジェクトを始めてこ のかた,私は自分のパフォーマンスだけでなく,むしろ観客たちのパフォーマ ンスをより重要なものとして記録している.いまではうちの戸棚は展覧会ごと に作成したテープで一杯だ.それはあくまでも私個人の資料でしかないのだが, そのうち,それをショーにしてみるのも面白いと思っている. |