戦争のエポック/芸術のメルクマール

W ・ベンヤミンは「複製技術の時代の芸術作品」(1936 )の初稿の冒頭で,P ・ヴァレリーの「遍在性の征服」(『芸術論集』収録)の断章を引用している.略説すると,芸術の基礎づけと類型が確立したのは,環境に対して人間の能力が微弱だった古典的時代だったが,現代の芸術手段はその適応性と精緻さにおいて驚くほどの成長を遂げた.すべての芸術には物質的な部分があり,もはや以前のような芸術観では扱えないような〈近代科学〉の実践性に直面しており,素材も空間も時間も,かつて存在していたものとは異なってきている,と続ける.そして,この大きな変革が芸術の技術全体を変化させ,その手法そのものに影響を与えており,そこでは芸術という概念そのものをも,きわめて魔術的な方法で変えてしまうにいたることを,覚悟していなければならない,というものである(『ベンヤミン著作集2 』晶文社刊より).

20 世紀の芸術が,大文字の「芸術」の制度の自律性を突き崩しながら,芸術と日常の回復を軸としてきたことは,すでに述べたとおりだが,ヴァレリーの上記の言葉には,ヴァレリーが「美」へのいささか保守的な夢想を保持していたにせよ,彼もまたテクノロジーへの信仰の下に,芸術と日常の交流を希求していたことがうかがえる.なぜ,ベンヤミンがヴァレリーの言を引いたのか.それは本論「複製技術」についての論旨と合わせると,同様の信仰を抱いていたにちがいないことは明らかだ.それは,この近代の資本主義がシステム化した,平準 化を目的とする〈技術〉の民主主義を受け入れているということである.

しかしこの現代,技術の革新によって芸術の概念が拡大していくという信仰を抱きつづけることは困難であり,そういった技術のレールにのってきた「芸術の近代」も,また「複製芸術の近代」もまた終焉してしまっているのでないか,という疑念を打ち消すことは難しい.

つまり,ヴァレリーもベンヤミンもいささか楽天的にすぎるのではないかということなのだが,電子ネットワーク上のサイトを視野に入れながら,この100 年間の時間に対して,そういった問いを立ててみたとき,この現代に突きつけられたヴェクトルがせりあがってくるのではないだろうか.20 世紀芸術の母胎となったヨーロッパが,EU 構想を通したヨーロッパ内(経済格差のある国家を含む)の再編の最中に,一方に難民の急増問題を抱え込んだ,そのヨーロッパのヨーロッパ化が進行するなかで.


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