戦争のエポック/芸術のメルクマール

そのアメリカでの,リトアニアから移民したユダヤ系画家,アメリカ人画家,そして亡命オランダ人画家,それぞれ3 名を例にして,この〈大戦〉とアートとを考えてみよう.まず1898 年リトアニア生まれのベン・シャーンだが,フランス19 世紀末に起きたユダヤ人排斥の疑獄問題となったドレフュス事件に興味をもち,1930 年にその水彩シリーズを描いて社会的テーマと出会った.さらに31年には,20 年のサッコとヴァンゼッティ事件の「受難」を題材にシリーズ制作をした.シャーンは,42 年に米戦時情報局に入って,多くの反ナチスのポスターを描いてナチズムを告発していった.また持続的に,移民・マイノリティ,農民や都市労働者の貧困と苦悩を画面に定着させていく.そのかすれた,途切れそうで途切れないカリグラフィックな線で描かれた民衆の虚ろな眼差しは,シャーンが,ヨーロッパと北アフリカ旅行から再確認した,出自としての〈リトアニアの世界〉と深く結びついている.

1894 年,米フィラデルフィアに生まれたステュアート・デイヴィスは,画家R ・ヘンライの学校で絵を学び,社会主義誌『ザ・マッシズ』への挿絵寄稿を通して画家ジョン・スローンと交友し,10 年代にアメリカ・ソーシャル・シーンを描いた.その後,ムンクやゴッホ,ブラックやマチスらの影響からその作風は目まぐるしく変化していく.
35 年には連邦美術計画(FAP )に参加し貧窮する美術家の救済に関わるが,40 年には運動から手をひいて自分の制作に没頭する.立体主義をバネとして,都市的で色彩感覚に富んだジャズの即興性を思わす,軽快な画面構成をもつ「ポップな」抽象画に入っていった.立体主義というヨーロッパの遺産を,ジャズを通してアメリカ化していくその過程は,シャーンと対比的である.

1872 年,オランダ中部に生まれたP ・モンドリアンは,1919 年よりパリで制作し,30 年代にはナチスによって「退廃芸術」と名指され,ナチスのオランダ,ベルギーへの進攻を目前にして38 年ロンドンへ移住,パリ陥落の40 年にロンドンのアトリエ近くに爆撃があり,同年9 月ニューヨークに渡った.アメリカではM ・デュシャンによるモンドリアン評価が先にあって,この巨匠の亡命は歓迎された.モンドリアンのニューヨークでの独居生活は精神的に困難だったが,さまざまな人々の助けで維持される.独居の寂しさを,38 年ロンドンで最初に見たW ・ディズニーのアニメ《白雪姫》の物語に重ね合わせて,その心情を白雪姫のポストカードにしたためて,弟夫妻に郵送した.手元にそれが尽きると,自らディズニーのキャラクターを描いたともいう.モンドリアンの画面構成の原理は,水平と垂直の線に よって統一されたが,戦争と亡命という現実のただなかで,ディズニー・マンガの丸まった曲線によって心を癒されたという事実がある.

ベル・ゲッデスが30 年代に思い描いた,流線型と金属とのメガロマニアックなSF 的未来社会イメージは,現代の「マシン・イメージ」においてもそのイメージの核は変わっていない.一方,上記3 名の画家にとっての「戦争」と「現実」は,現在,忘れ去られているといっていい.この彼らの現実から,現代のSF 的テクノロジー社会観を批判的に見ていくことが必要なのかもしれない.


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