インタラクションとの再会


 このキッチュな熱帯と対照的なのが,スタジオ・アッズーロによる《ランディング・トーク》だ.2枚のスクリーンに投影された映像を,人の存在を感知する3基のセンサーからのデータで切り替えてゆくという,インタラクティヴなシステムとしてはほとんど最小限のものながら,物語の断片のような端正な映像で鑑賞者を魅了する.ハーフ・ミラーとなったフロント・プロジェクションのスクリーン越しに,リア・プロジェクションのスクリーンを重ね,さらにスクリーンの特性に応じて映像を考えるなど,手法のうえでも洗練されたその作品は,むしろクラシカルな印象さえ与える.

 同じように,洗練された「音」が魅力的な作品もあって,これは準グランプリ2作品のうちの一つとなった.その作品,マーティン・リッチズの《インタラクティヴ・フィールド》は,グリッド状に配置された縦長のパネルが,センサーから鑑賞者の動きをデータとして受け取り,音を出しながら回転するというもの.これも単純なインタラクティヴ・システムながら意外に「はまる」.モーター音とも楽器の音とも判別できないようなサウンド・デザインが,動きと音の一体感を生み出していることが大きい.さらに低解像度のヴィデオ・プロジェクションが乱立するなかで,精確にコントロールされたパネルの群舞(音がこれと完璧に同期している)が見せる「キレ」は新鮮だった.

 ただこの2作品は,「インタラクション」の仕組みそのものにはとりたてて手を加えることなく,あくまで鑑賞者にかえす映像や音を洗練する戦略をとっている.個人的にはこうした作品を評価したいが,今回のテーマを考えれば異論もあることだろう.

 この二つに対してグランプリ受賞作,ペリー・ホバーマンの《タイムテーブル》は,同じくシンプルなインタラクションのシステムを,アッズーロやリッチズのような「洗練」をむしろ振り切るために使う.円卓についた4人の鑑賞者は,それぞれ手元のダイアルを手当たり次第にぐりぐりと回しているうちに,いつのまにか熱狂的なターンテーブル・プレーヤーになっている自分に気づくだろう.中央に投影される,レスポンスが早くまたスピード感のある映像,そしてエリオット・シャープによるエッジの効いたサウンドが,その感覚を加速する.自分の行為と作品とのあいだのインタラクションが成立しているのかいないのかわからなくなっているうちに,映像は次のものに切り替わってしまうということも多い.けれどそれは,インタラクションの決して消極的ではない「切断」の可能性が,この作品に織り込まれているのだと見なければならない.

 こうした「楽しめる」作品のなかで,グラハム・ワインブレンの《フレームス》は異彩を放つ.精神の病とその記録としての映像,そしてその映像に配備された広い意味での「権力」を描き出すこと.鑑賞者は自らの手によって,天井から吊り下げられた「フレーム」=額縁に仕組まれたセンサーを作動させることで,人(の映像)を次第に狂人(の映像)に近づけてゆく.けれど残念なことに,例えば「転移」と呼ばれるだろう,治療を施すなかで狂気が次第に患者から精神科医に,この作品で言えば私たち鑑賞者に乗り移ってくるような事態が,そこではかえりみられない.もしそこまで作品中に織り込むことができたら高度の「インタラクション」を実現できただろうと思うと惜しい.ほかにこの《フレームス》に類似するコンセプト(「権力」をテーマにしているという点で)に拠って立つものとして,ダグラス・エドリック・スタンレーの《漸近線》があったが,これは筆者が日をおいて二度会場を訪ねても,調整中で体験することができなかった.

 実質的には「インタラクション」について「再」考することになる今回のテーマに対して,アーティストから返ってきた答えは,たとえ少しずつでも互いに異なっている.そして「インタラクション」というそれ自身の特性に再び出会うことで得られた,このかすかなヴァラエティのうちに,「メディア・アート」がようやく成熟の糸口をつかみつつあることが見てとれるだろう.


はやし・たかゆき
1969年東京生まれ.
東京芸術大学大学院博士課程満期退学.
玉川大学芸術学科および国立音楽大学音楽デザイン学科非常勤講師.
『武蔵野美術』誌などで美術批評を執筆.

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