20世紀末のオペラと孤独


 内容についてとやかく言う以前に,《LIFE》には,もし自分が同じ立場に立たされたとして,「オペラ」に対してこのように徹底して残酷な態度を取ることが可能だろうかと,そう自問させる性質のものがある.その感じは,なんと言ったらいいのだろう――会場が数万人を呑み込む武道館であろうと,たった一人のスタジオであろうと,まったく変わらない「何か」によるものである.
今回,《LIFE》を観て個人的に最も強い印象を受けたのは,じつのところ以上のようなことである.確かに,まったく必然性を感じられないダンスによる身体表現や,先端技術を駆使しているわりには効果に乏しいインターネットの導入,スティーヴ・ライヒやロバート・ウィルソンといった,ポストモダン・オペラの先駆者たちの切り拓いた成果とのあからさまな類似,マルチリンガルな構成のわりには可読性への配慮を欠いた映像のフォーマット,全編にわたって首を捻りたくなる映像表現のセンスなど,一個のシアター・ピースとして見たときには,正直言って本作には多くの不満を感じずにはいられない.しかしそれらも,一人で20世紀の末期に,それもあくまで音楽の立場から対峙しようとする坂本龍一の放つ一種の「迫力」と比較すれば,たいした問題ではないように感じられてくるから不思議である.したがって本作に問題があるとしたら,それはこれらの瑣末さとは別の次元にあるように思われる.それについては文末で触れたい.

さて,このあたりで《LIFE》の構成について触れておいたほうがよいだろう.全体は三部からなるが,まず第一部で,20世紀の激動の「歴史」が,20世紀音楽史と重ねるかたちで回顧される.続いて第二部では,21世紀に向けて,20世紀における大文字の歴史の「破壊と殺戮」にかわって,ジオグラフィックな「共生」のヴィジョンが提示される.
そして最後の第三部で,「答えなき答え」としての,一種,無時間的な浄化と救済のヴィジョンが,互いに異質なトーンと内容をもつ「言葉」の多様な交錯として投げ放たれていく.そのなかでも最も象徴的なのは,劇中ではロバート・ウィルソンによって語られる,ベルナルド・ベルトルッチの,「救いなどないと発見することこそが救いなのだ」というフレーズであろう.この言葉が示すような,異質なものの共存からなる多様性の肯定こそが,本作の主題である.

そのあと,終幕直前に《LIFE》が見せる,「オペラ」と言うよりも「オラトリオ」ではないかと言いたくなる,過度に壮大で宗教的な盛り上がりにはやや面食らうが,それもまた,多様なものの共生ということを考えるなら,全体を統合に導くほどのものではない.なんとなればその直後には,月面着陸の映像に乗って,ジミ・ヘンドリックスによる歪みに歪んだ《パープル・ヘイズ》が大音響で鳴り響くのである.

以上のようにして,オペラ《LIFE》は幕を下ろす.

前のページへleft right次のページへ