ICC Review

ICC Review

インターフェイスのキー・ファクター,
〈身体〉が呼び戻す未知の可能性

Key Factors in Interfacing,
Unknown Possibilities Brought Back by the "Body"

藤原えりみ
FUJIHARA Erimi

「メディアの足し算,記号の引き算」
1999年6月22日−7月20日
ICCギャラリーA,Bほか

"Adding Media, Subtracting Signs"
June 22─July 20,1999
ICC Gallery A, B, etc.



「メディア・アート」の定義とは何か.90年代に入ってから,インタラクティヴ・アートを実際に体験する機会が増え,それとともに既存のアート表現との相違点などをつらつらと考察することが多くなった.「メディア」という言葉の流通の仕方の曖昧さに苛立ちながらも,それ以前に,「アート」という言葉がはらむ揺らぎのほうが気になってくる.

 電波・映像・電子メディアによる「メディア・アート」は,物質を媒介としないという点では確かに従来の造形表現とは異なる.だが,20世紀に入って登場したこれらの表現形式の特性は,物質を媒介とするかしないかという点ではなく,視覚を含む聴覚や時間感覚,さらには感覚の集合体としての身体と私たちの認識の関係を再確認させてくれるという点にある.身体参加型のアートは,ハプニングやパフォーマンスというかたちで60年代から試みられていたが,「日常性の打破」というモダニズム的限界から「日常的行為がはらむ遊戯性と現実認識」へと,電子メディアによって一挙に知覚領域が拡張されたと言える.

 とはいえ,絵画や彫刻,インスタレーションといったいわゆる美術の範疇の表現形式が視覚のみに終始していたかと言えば,そうではないだろう.本来は,視覚を窓口として聴覚,触覚,動感,嗅覚にすら訴えかける機能をもっていたはずである.その意味では,「インタラクティヴィティ」という言葉も,電子メディアによるアートだけがもつ特権ではない.そしてあえて言えば,「ヴァーチュアル」という言葉でさえも(あらゆる表現物は,インタラクティヴに形成されるヴァーチュアルな時空間を必要としているのではないか).

 メディア・アート,特に「インタラクティヴ・アート」と呼ばれる領域にとって重要なモメントは他者(観客)の身体にほかならない.これは参加する側(観客)からすれば,身体を拡張し,物理的あるいは理念的に本来到達しにくい認識レヴェルに接する体験が可能か否かで(高度なシステムや超絶技巧的なプログラミングなどではなく),作品のよしあしが決 まる.

 その意味で,「メディアの足し算,記号の引き算」展に出品されていたセンソリウムの作品や,またスコット・ソーナ・スニッブの《境界線》は印象的だった.いずれもごく単純な動作が,日常の次元とはかけ離れた体験の位相を開示してくれる.  スニッブの作品《境界線》の舞台は,床面の四角いフロアである.一人だと何も起こらない.だが,二人入ると二人のあいだに境界線が現われる.人数が増えるにつれ,個々の人々のあいだを隔てる境界線も増えていく.目の前に線があると飛び越したくなるのは人間の本能なのかもしれない.だが,飛び越せない.人が動くと境界線も移動するからだ.境界線を消滅させる唯一の方法,それは人と人の影が重なるほど接近すること.単純な原理,単純な身体の動きが,複雑怪奇に思えるコミュニケーションの機微をなぞっていることに気づくとき,その問題解決方法の単純さがまた微笑みを誘う.スニッブの作品に漂うユーモアの感覚は,視覚的な単純さ(この場合は幾何学的図形)と不思議にマッチする.この高度に洗練された知的配慮とある種の「おかしみ」の融合は,パウル・クレーの作品がかもし出す精妙なポエジーとデリケートな造形感覚を思い起こさせる.

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