そのナラティヴなイメージの深淵


 ここでブルースが引用したロベール・デスノスの言葉は,後に制作した《ラ・ヴィ・セクレット(人生の秘密)》(1997)という作品のベースになったものである.その話を要約すれば,「光だけが輝くスクリーンには二つの穴が開いていて,向こう側を覗けるようになっている.そこで,立ちあがって近付いて行き,その穴の一つに頭を突っ込んで向こう側を覗いてみると,そこには街のパノラマが広がっている.そして,大聖堂の尖塔にアラゴンとブルトンが突き刺さっている」という,いかにもシュルレアリスムが席巻していた時代のシュールな話と言えるものだが,ブルースはそれを作品として実践している.

 《ラ・ヴィ・セクレット》では,ポータブル・スクリーンの中央に穴を空けて,そこから観客が覗くように仕掛けてある.スクリーンの向こう側には,頭上に小型カメラ,下方には小型モニターが設置されていて,観客は自分が覗き込んだ様子(つまり自分の頭部)を覗き込むことになる.スクリーンの向こう側に謎めいた何かを期待する観客をよそに,モニターからは,普段はあまり見ることもない自分の頭のてっぺんが映し出されるのだ.それをリアリティとして解釈しようとすればできるが,ブルースは,スクリーンの向こう側にあるはずの何かについて考えさせることに成功している.逆に,スクリーンを突き抜けることで,スクリーンの表側について考察することになる.それは,常に仮想であって現実ではないことを覚醒させてもいる.このシンプルな作品の仕組みから,人々がリアリティの存在を常に追いかける無条件反射の姿が明らかになってくるのである.

 今回の「消滅する記憶」というタイトルの展覧会では,時間にまつわるイメージをさまざまな装置によって表現し,多様なメディアを活用して展開している.なかでも,《スクリーン・セーヴァー》はスクリーンにまつわる言葉の遊びから選ばれた,障子,映写用のスクリーン,そしてマッキントッシュのスクリーン・セーヴァーの3点を,それぞれ展示している.一つずつが透明のアクリルケースに陳列され,ブルーの照明によって浮かび上がるオブジェは,過剰に神秘性を強調していて,まるで水族館の水槽のようでもある.マッキントッシュSEのモニターから長い時間をかけて映し出されるスクリーン・セーヴァーの絵柄はニューヨークの摩天楼の情景である.それは,すでに遠い昔になってしまった「アフター・ダーク」(初期のスクリーン・セーヴァー用のソフト)であって,光の粒子が,いまでは考えられないほど時間をかけて現われ,徐々に合体してできる画像だ.このスローモーションのような動きと暗黒のモニター画面から少しずつ流星が集積して生まれてくる摩天楼の姿が,とてもはかなく映り,人の記憶のたどたどしさと重なり合ってノスタルジックな時間の海のなかにわれわれを導くのである.ブルースの作品の魅力は,そうした暗闇のなかで繰り広げられるイリュージョンへの憧憬である.とても簡潔な構造でありながら,慎ましい映像を駆使して,さまざまに広がっていく詩的なイメージを喚起させるのである.そこには永遠の瞬間を望むせつない美しさが横たわっているのだ.

 《タイム・マシン》という作品では,ユリの花が枯れていく様子と開花する姿が,タイム・ラップスとクレイ・アニメーションの二つの映像技法によって撮影され,それをループ投影(エンドレス)によって,同時に映写している.それらを逆回転する時計の針をもつ文字盤に投影するのだが,ある一瞬だけイメージが同一になるときがある.しかし,それはつかの間であって,一方のイメージは時間を遡り,一方は時間を駆け巡るというもの.生から死という時間の流れを凝縮または反転させることによって,時間の記憶をイリュージョンとして完成させることを試みている.それは,ブルースのなかにある時間へのメディテーションとも言えるだろう.生から死という消滅していく時間の流れとともに,見なれた時間のスピードを再構築することによって,新しい時の流れを蘇生させていくものだ.こうして,消滅を回避する時間の装置が象徴的に眼前に現われることで,時間という曖昧なヴィジョンにフォルムを与えることになる.

 この展覧会のなかで,最も大掛かりで壮大なスケールをもつ作品は《花火》である.3面マルチスクリーンのデジタル・ヴィデオ・インスタレーションには,大画面一杯に炸裂しつづける花火の爆発音と同時に,大輪の花火が連発する様子が映し出される.その巨大なスクリーンを占領して連続する花火の情景が,立っている観客の体内に直接に入り込んできて,現実の花火のなかに突然に放たれてしまったような錯覚が起こる.途中,映画会社・20世紀フォックスのロゴマークなどがうっすら幽霊のように浮遊して,ハッとこれはフィクションなのだと気がつくのだ.大空一杯に広がる花火の饗宴のなかで,幻影のように浮かぶロゴマークは,ブルースがきっと少年の頃から夢を与えられてきた20世紀フォックスへの淡い思い出に対する惜別の想いではなかろうか.そして,今世紀の終焉に対する祝祭として花火がきらびやかに放たれていくようでもある.

 それにしても,この壮大なイリュージョンは,スペクタクルな記憶として体のどこかに埋め込まれていくようである.そして,この感触がいつか再び喚起してくる瞬間がくるような気がするのだ.それが,「デジャ=ヴュ」という半分消えてしまった記憶として,イリュージョンとリアリティの狭間を私たちに問いかけるのではないか.「消滅する記憶」とは,こうした曖昧なイメージの集積によって見え隠れして呼び覚まされる,輪郭のぼやけた記憶への慕情にも似た深い信頼であり,またブルースの仕掛けによってイリュージョンとリアリティが反復することで,そこに新たに生まれてくるナラティヴなイメージへの賛美のようでもある.


かとう・えみこ
1958年東京生まれ.
シティ大学(ロンドン)にて美術館/博物館修士取得後,研究生としてロンドン大学コートルード・アートヒストリー・インスティテュートで戦後イギリス美術史を専攻.
現在はアート・ジャーナリスト,インディペンデント・キュレイターとして活動.

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